第61話 作戦決行②
1億円のジェラルミンケースに追跡装置が仕込まれている可能性は当然想定していた。
非常に小さな追跡装置をケースから探し出すのには時間がかかる。そこで猫屋敷の指示で電磁波シールドクロスを調達し、ケースを二重に包むことで追跡装置を無効化することにした。
すぐに立体駐車場を離れれば追跡者が来る前に逃げられるはずだった。だが馬庭の対処をするために少し時間がかかり、2人の男たちに追いつかれてしまったようだ。
ビア樽のような体型の小男が運転席の窓に拳銃を突きつけながら窓をノックし、親指を後方に向ける。「少しでもアクセルを踏んだら撃つぜ。外に出な」という意味だ。鳩貝ウツロと日和たちは大人しく車から降りた。
ウツロはさりげなく小さな金属製の部品を地面に落とした。チン、と高い音が鳴る。
「待て、今何を落とした!?」
ビア樽男がウツロに銃口を向けた。
「手榴弾の安全ピンだけど」
ウツロは手榴弾の安全レバーを握りしめながら高く掲げた。ピンを抜いても、安全レバーを握り続けている限り爆発はしない。
もしこの手榴弾がなければ、2人の男はウツロ、日和、猫屋敷を躊躇なく撃ち殺していただろう。
この2人がSTではないとすると、獅子丸慎吾の雇った殺し屋たちに違いない。仕事はキャンセルになったとはいえ、『獅子丸慎吾と白狼が何らかの取引をしようとしている』という情報はつかんだ。白狼の賞金額から推測するに、もしかしたら1億円の受け渡しをするつもりかもしれない。そう予想を立てて横取りを企む者がいる――ということも想定済みだ。
だから戌井は鳩貝ウツロに手榴弾を調達しておくよう指示しておいた。
「あんたの声、聞いたことがあるな。セミとアメンボか?」ウツロが言った。
どちらがセミとアメンボなのか。名前の印象だけで考えると、ビア樽男の方がセミで、もう1人の背の高い細身の男がアメンボだろう。
「やあ、鳩貝ウツロだよ」ウツロはウインクした。「アメンボくん、君とは一夜をともにした仲じゃないか。見逃してくれないかな?」
「嘘だろ、アメンボ。お前こいつに手を出したのか」ビア樽男が言った。やはりこっちがセミだ。
「ほんの気まぐれだ、兄上」
「薄汚えアバズレが。だが1億円を諦めるわけにはいかねえ。その金で俺達は引退するんだ」
「7年くらい前から言ってなかったっけ。次の仕事で辞めるって。何かを辞めるためには、辞めるための具体的な行動を取らなくちゃいけない」
「具体的な行動とは、1億円を手に入れることだ」
「君たち2人とも金遣いが荒いから、1億なんてすぐになくなるだろう。ボクもそれくらい稼いでたと思うな。鰐淵恭也とレインと働いていた時にね。あの2人が計画を立てれば、ボクたちはただ参加するだけで大金持ちになれた」
「ああ、しばらく名前を聞かないな」
どうやら知り合いのようだ。が、戌井はセミとアメンボのことを覚えていない。
「あいつらのことは嫌いじゃないぜ。あの2人もセミとアメンボみてえに全く似てないが、兄弟みてえに仲が良かった。でもレインの方は引退したと聞いたぞ。そんで鰐淵恭也の方は音沙汰なしだ。兄弟は離れ離れになっちゃいけねえってことだな」
「相変わらずお喋りで話の腰を折るやつだな」ウツロが言った。「とにかくボクは起業に失敗していつも金欠だった。君たちもこれまでの生活習慣と思考パターンを変えないとまた元の生活に逆戻りだ。これまでにも引退するチャンスは何度もあったのにできなかったということは、1億円を手に入れたところで同じ結果になるだけさ。それでいうとレインは凄いことをしたと思うよ。引退後の人生を具体的に設定して1つずつ実行していった。簡単なように見えて、なかなかできないことだよね」
「お前もお喋りが長いぞ。どうりで反りが合わないわけだ」
「アメンボくんとは相性抜群だったけど。なあ、ここは引いてくれないか。膠着状態が長引けば長引くほどSTがここにやって来て、共倒れのリスクが高まる」
「その手榴弾、本物か?」
「通称、パイナップル手榴弾だ。爆発時に破片が効率的に飛散する設計になっている。ここにいる誰も無事では済まないだろう。ボクがこういうものを調達する天才ってことは知ってるよね?」
アメンボがウツロの背後にいる日和に銃口を向けた。
「後ろの女たちは撃てる」
「やめろよ。ボクに当たったらどうするんだ?」
「お前には娘がいる。後ろの女たちのために自分を犠牲にはしないはずだ」
「ほう、娘がいるなんて初耳だ。でかしたぞ、アメンボ。俺は左の女を撃つ」
戌井は彼らがお喋りしている間に馬庭の拳銃を拾い、発砲した。続けて2回撃ち、セミとアメンボの手を精密射撃した。拳銃が吹き飛び、2人は手から血をぽたぽたと流す。2人の頭を吹っ飛ばすこともできたが、日和の前であまりグロテスクな映像は見せたくない。
戌井は立体駐車場の2階の開口部から飛び降りて、ウツロの車の屋根に着地した。
「レイン!? 引退したんじゃなかったのかよ!?」
「俺は賠償金を受け取っただけだ」
戌井は物陰に隠れようとしたアメンボの膝を撃った。
「くそがっ!」
セミが懐から予備の拳銃を取り出して撃とうとする。戌井と同時に撃つかと思いきや、それより早く発砲音がした。セミの拳銃が吹っ飛んでいく。
日和がシグP230を構えていた。戌井はセミの膝を撃った。車の屋根から降りて、日和のもとに駆け寄る。
彼女は少し息を乱し、震えていた。人狼ではない人間に向かって撃ったのは初めてなのだろう。戌井は日和の手を握り、背中をそっと押して車の中に入るよう促した。戌井は助手席に乗り込む。
「おっと。これじゃ運転できないな」
ウツロは握りしめていた手榴弾をセミとアメンボが倒れている辺りに投げた。それと同時に思い切りアクセルを踏み込む。レバーが外れて5秒後、背後で爆発音が響いた。衝撃波で車体が揺れ、日和が目をパチクリさせるのがバックミラー越しに見える。
「殺したんですか?」
戌井が沈黙していると、猫屋敷が慌てて答えた。
「どう見ても死んだように見えるけど、あの手榴弾の致死半径は5メートルでセミとアメンボは5メートル圏内にいたから……」
「つまり確実に死んでますよね」
「あの2人はプロだ。生かしておけばまずボクの居場所を突き止め、カモメちゃんに危害を加え、ボクを拷問して君たちのことも聞き出すだろう。そういう連中なのさ。やったのはボクだから気にしないでくれ」
日和は自分の両手をじっと見つめていた。
後悔しているのか、と戌井は問いかけようとした。動揺している彼女にそんなことを尋ねれば、衝動的にその通りだと言われるかもしれない。今は日和が落ち着くのを待とう。
戌井は肩や腕に痛みを感じていた。レインコートを脱いで、シャツのボタンを外して傷を確認する。かなり血が出ていた。
日和が後部座席から身を乗り出して戌井を心配そうに覗き込む。つい先ほどまで人の死に動揺していた面影は消え、戌井の傷を見た瞬間、まるで他の全てが霞んだように、ただ彼の安否だけを案じる表情に変わる。
「酷い出血です。銃を撃った時の反動で傷口が広がってしまったのでしょう。包帯巻くの手伝わせてください」
「いや、1人でできる」
「そう……戌井くんはいつも1人でやってしまいます」
日和は何だか気落ちした様子で後部座席に沈みこんだが、戌井には彼女がなぜ落ち込んでいるのか理解できなかった。彼は包帯をキツめに巻いて間に合わせの止血をする。
「忘れないうちに礼を言っておこう」と、戌井は後部座席の日和を振り返った。「さっきセミの拳銃を撃ってくれて助かった。もう1発撃ってたら、傷は今より広がっていただろう」
「いえ、お礼を言われるほどでは……」
日和はもじもじして、横髪で自分の顔を少し隠す仕草をした。
猫屋敷がニヤニヤしながら言った。
「ねえ、戌井くんの傷だけど、あれは後で縫わなきゃいけないよ。1人だと厳しいんじゃない?」
「問題ない」
「君って隙なさすぎ。弱音だって全く吐かないし。時々、ロボットなのかなって思う時ある」
「それの何が悪いんだ?」
「悪いわけじゃないけど……」
戌井は何が言いたいのか理解できず、眉間に皺を寄せて前方を睨みつけていた。
ウツロが車を止めた。
「よし、車を乗り換えるぞ」
同じ車に乗っていると足がつく可能性がある。さらに1億円のケースには追跡装置が付いているはずなので、拠点で開封するわけにはいかない。電磁波シールドクロスを剥がした瞬間に居場所を探知されるだろう。
そのため素早く中身を別のケースに入れ替えて、元のジェラルミンケースは猫屋敷が獣化して粉砕した。古い車には工業用洗剤を撒いて痕跡を消し、4人は新しい車でその場を後にした。
「今更だが偽札ってオチはないよな?」
ウツロの言葉に戌井は首を振った。
「本物だ。においで確認した」
「あたしも嗅いだけど本物で間違いないよ。分け前の件、ほんとにひよりんはいらないの?」
「私はお金には困ってませんので」
「へえ、日和ちゃんってお金持ちなの?」
ウツロは日和が預言者で、かなり稼いでいることを知らない。
「彼女のことは詮索するな」
「ええ~。義理の娘になるなら知っておかなきゃ」
「へ? 何の話?」猫屋敷が言った。
「気にするな」
戌井の泊まっているホテルに向かいながら、車の中で1億円から経費――ホテルの宿泊費、煙幕の原料や手榴弾、車の調達などにかかった分――を差し引いて3等分した。1人あたり3000万強はもらえることになる。
「凄い。こんなに稼いだの生まれて初めてにゃ。でもこれは清水野動物園に寄付するつもり。あたしのせいで廃園の危機に陥ってるし」
「君は1000、俺は3000を出す」
「え?」
「できるだけ多くの金を人工肉の研究に費やしてくれ」
「待てよ、レイン」ウツロが言った。「お前、分け前のほぼ全部を動物園に寄付するつもりか?」
「貯金はあるから、家の修繕は問題ない」
「ひょっとして最初からそのつもりだったの? 1億円にこだわったのは」
戌井はバックミラー越しに日和の方を見て言った。
「動物園が復活したら、また一緒にスマトラトラを見に行こう」
日和は愛らしい笑みを浮かべた。
「ええ、アイアイもまだ見てませんしね」
「うう……ありがとにゃあ。ハグしたいけど、ひよりんが嫉妬するからひよりんに抱きつくね」
「え、ええ?」
「やっぱりお前は最高だな、レイン!」ウツロが言った。「みんなでパーッとお祝いしようよ。焼肉パーティーなんかどうだい? カモメちゃんもお前と過ごしたがってる」
「中間テストが終わったらな」
中間テスト。札束の山の前ではどこかシュールな言葉に聞こえてくる。
「明日テストだなんて信じらんない」
「同感だ」戌井はため息を吐いた。「さすがにキツイな」
日和が急に目を輝かせながら言った。
「今、キツイって言いました?」
「……なんでそんなに嬉しそうなんだ?」
「だって、戌井くんが弱音吐くの初めて聞いたから」
なぜそんなに他人の弱音を聞きたがるのだろう?
しかし考えてみると誰かの前で弱みを見せるのは滅多にないことだ。鰐淵恭也にさえ、戌井は弱いところを見せたくなかった。彼のことは尊敬しているし、信頼関係だってあったにも関わらず。
それでも、結局のところ鰐淵恭也は師匠であり、自分を評価する人間だ。『お前は未熟だ』とか『期待していたのに』と思われるリスクを無意識に感じていたのだろう。
日和との関係は、対等なものだ。彼女は自分を評価したりせず――以前は人狼として生かすべきかジャッジされる関係ではあったが――今ではありのままの自分を受け入れてくれる。日和の嬉しそうな顔を見ているうちに、戌井は彼女との関係がこれまでになく特別なもののように感じた。
ホテルに到着した。車を降りて、金の入ったケースを持とうとすると、日和がさっとケースを抱えてしまう。
「ありがとう」
「傷が広がってはいけませんから」
戌井は彼女の親切心に甘えることにした。
「じゃあまた明日! ひよりんに勉強教えてもらいなよ、戌井くん。赤点回避したいならね」
「……そうだな」
「え?」
「もしよければ、このあと勉強に付き合ってくれないか?」
日和は一瞬、固まった。まばたきを数回繰り返した後、口元がゆっくりとほころんでいく。
「ぜひ、お手伝いさせてください!」
ケースがずり落ちそうになったので抱え直しながら、彼女は嬉しそうに小さく体を揺らした。
ホテルの部屋に入ると、戌井はまず傷の手当てをするためにシャツを脱いだ。医療用の針と糸を用意して、深呼吸をする。
「わ、私にできることはありますか?」
「ユイシロ・マスターを起動して、古文を読み上げて欲しい」
日和はきょとんとした。
「歯を食いしばりながら縫合している人の前で『児のそら寝』を音読する、ってことですか?」
「その通り」
「私が思ってた勉強法と違います」
「痛い思いをしている間は記憶力が高まるから、この機会を有効活用したい」
「勉強に命かけすぎです」
「もちろん嫌なら構わないが……手伝ってくれると言ったのに」
「ううう……戌井くんのいじわる……」
日和が涙目になって音読するのを聞きながら、戌井は傷の縫合を開始した。




