第60話 作戦決行①
静江:【夫はSTを呼ぶことにしたそうよ】
静江からそう報告を受けたが、戌井は驚かなかった。呼ばなかったとしたらその方が驚きだ。
STを呼ぶなというのはもちろん脅しだった。獅子丸慎吾はやがてそれに気付くとわかっていたし、実際そうなったが、それまでに十分な時間と思考のコストを払わせている。
獅子丸慎吾は最初、霊媒師ブラスターを頼り、ならず者たちをかき集めることにした。だが30分前になってブラスターが裏切ったので、STを呼ぶことを余儀なくされた。STはプロの集団なので30分もあれば十分な装備を整えて集結することができる。しかし、それだけだ。交通整理や作戦を練る時間はほとんどない。
日和に調べてもらって、STがヘリを手配してないこともわかっている。ヘリは面倒だ。ヘリがあると、死人を出さずに立ち回るのが難しくなる。さすがにそこまで大胆にされたら戌井も釘を刺すつもりだったが、脅しの効果はあったということだ。
静江:【ブラスターの存在が不気味だわ。STに何か助言をしたそうだけど、小声で話していて聞き取れなかった。悪い予感がするわね】
ブラスターはある面では手助けしてくれたかと思えば、ある面ではきっちり邪魔してくる。まるで何かのバランスを取るかのように。
戌井:【俺は問題ない。あんたは?】
静江:【私の覚悟は決まってる】
戌井は獣影館の近くにある公園のベンチに座っていた。日和と猫屋敷は鳩貝ウツロの車に乗って、別の場所で待機している。
戌井は1万円札を取り出してにおいを嗅いだ。鰐淵恭也は何度も絵を描くことで偽札かどうかを見抜けるようになったという。戌井にも同じように覚えさせようとしたが、100枚描いても福沢諭吉のほくろの位置を間違えるので、同じやり方では記憶できないとわかった。「もういい」と言って鰐淵恭也が去っていくのを見ながら、10歳の戌井は見限られたような気がして、不安になった。
だが次の日になって鰐淵恭也は「獣化してにおいを嗅げ」と指示してきた。白狼になった戌井は本物の1万円札と偽札のにおいを嗅ぐ。見た目はそっくりだが、においは全然違う。本物は金属粒子と、それを定着させる特殊溶媒の化学的な残り香がある。偽札なら、どれほど精巧でもこのにおいは再現できない。鰐淵恭也がクイズを出すと、戌井は100発100中で偽札を言い当てた。
ファミレスで食事をしている時、戌井は「自分には無理だと思った」と言った。
「ああん? 自分の長所くらい把握しとけっつーの。お前は犬みてえに鼻が利く。目で覚えられないなら、鼻で覚えればいい」
「なるほど。ウサギはか弱いという短所があるけど、自分の長所があの長い耳と長い足だとよく知っている。だから長所を最大限に活かして生き延びることができる。そういうことか」
「誰もウサギの話はしてねえんだよ」
戌井は1万円札のにおいから失われた過去の記憶を思い出した。鰐淵恭也の顔も声も忘れているので、その記憶は強めのガウスぼかしをかけたように柔らかくかすんでおり、無声映画さながらにただ言葉が浮かんでいる。
鰐淵恭也とは二度と会えないから、思い出せるのは命を懸けていて脳が活性化しているこの瞬間しかない。戌井は彼との思い出を大切にしたかった。そう考えると、ある意味で戌井は獅子丸慎吾が与えてくれたこの状況を目いっぱい享受していると言えるかもしれない。
だが1億円は支払ってもらう。
戌井は時間を確認して立ち上がった。散歩をするような調子で歩道を進んでいく。獣影館が見えた。3、と心の中で数える。このタイミングで獣影館に近付く人間は見張られており、戌井はST隊員たちの視線をひしひしと感じていた。2、とカウントダウンを進める。もはやSTもこの帽子を目深に被った怪しい男が白狼だと気付いているだろう。だが、獣化するまでは発砲できない。
1。戌井は獣影館の大きな門の前で立ち止まり、獣化した。館内は閃光手榴弾が炸裂した後で、白い煙が立ち込めていた。静江があらかじめ煙幕発生装置を館内に仕掛けており、ボタンを押して勢いよく煙を射出したのだった。猫屋敷が展示室の構造から計算して装置の設置場所を工夫しており、より早く煙が充満するようになっている。白狼はするりと館内に入って白い煙の中に紛れ、展示室の中央にある1億円のケースを目指す。
人狼の剥製群の後ろにST隊員たちの気配を感じる。閃光弾の衝撃で動くことはできないから、戌井としてはただ1億円を持って出ていくだけでよかった。そのはずだったのだが――
「ピピ」
白い煙の中で2つの赤い光を目の端に捉えた。その瞬間、ショットガンの炸裂音が響き渡る。ブラスターが閃光弾をものともせず、こちらに狙いを定めていたのだ。発射音と同時に、十数個の鉛玉が扇状に広がる。白狼の瞳が一瞬で弾道を読み取り、心臓と頭部に向かう中心の7発だけを正確に見極める。白狼は巨大な掌で弾丸を掴み取る。ギチギチと金属が圧縮される音。摩擦熱で指の間から薄い煙が立ち上る。
「動物園と同じ手口とは芸がない! 事前に目と耳を塞いでいればどうってことはありません」
白狼は掌を開いてみせた。変形した鉛玉がボロボロと落ちるのを見て、ブラスターは呆れ顔の絵文字をパネルに浮かべる。
「そんなことできるとは聞いてませんね」
しかしすぐにいつもの笑みを浮かべると、煙の中にすうと消えていく。
続いて3方向から無数の発砲音――つまり、ST隊員たちの目と耳は無事だ。ブラスターの助言とはこのことか。彼は1億円の受け渡しで、白狼が動物園と同じ手口を使うと推理した。なぜそんなことが推測できるのか理解できなかったが、閃光弾の対策をしておくようSTに伝えておいたのだろう。彼らは中央にいる白狼に向かって一斉射撃した。
白狼は1億円を口にくわえ、ウサギのように垂直ジャンプする。その跳躍の衝撃で床にひび割れた窪みができる。白狼は瞬く間に天井に張り付いていた。STは天井を狙い撃ちするが、白狼は爪を食い込ませながら蜘蛛のように天井を移動し、弾丸を避けていく。
入ってきた表門はSTが銃を構えて待ち伏せしているから、白狼は展示室を出て裏口に向かう。こちらの扉は小さいので壁ごと破壊して外に飛び出した。
裏口を見張っていたST隊員が撃ってくるが、表門よりは人数が少ない。白狼は難なく包囲網を突破して道路を走る。
白狼の姿にびっくりした一般車両が急ブレーキをかける。それで後ろの車が追突しそうになるのが見えたので、白狼はその車をつかんで止めてやった。中にいた女児が目を丸くしてこちらを見上げている。
白狼は信号を無視して全力疾走する。停止した車が道路を塞いでいるためSTは追ってこれない。だが、1人だけその背中を追いかける者がいた。馬庭ヤヨイだ。
「彼女はまさにバイクの申し子です」と、日和が言っていた。「閃光弾で無力化できなければ、どこまでも追ってくるでしょう」
ブラスターのせいで馬庭は元気だった。彼女は立ち往生する車の列を前に、スロットルを全開にした。エンジンが咆哮を上げる。目前のセダンのボンネットに狙いを定め、スタンディングの姿勢で突進。前輪がボンネットに接触した瞬間、馬庭は全身のバネを使って車体ごと跳躍した。一瞬、空中でバイクと一体となって舞い上がる。
重い着地音とともにアスファルトに降り立つと、すぐさまバンク角を深く取って右へ。ワゴン車とトラックの間、わずか1メートルにも満たない隙間に車体を滑り込ませる。ミラーがかすめるほどの距離を、まるで糸を通すような精密さで駆け抜けた。
左、右、また左――。馬庭は生きた蛇のように車の隙間を縫い、白狼との距離を詰めていく。
彼女をどうにかして振り切りたいが、物を投げたりすると事故を起こして死ぬ可能性がある。それに150秒経過して変身が解ける前に日和たちとの合流地点に着かねばならない。馬庭をそこに案内してしまうが、人間に戻ってから対処しよう。
白狼は立体駐車場に向かっていた。速度を調整し、150秒きっかりで立体駐車場の外壁の開口部に飛び込んだ。空中で人間へと戻りながら、立体駐車場の2階に転がり込む。
日和と猫屋敷が車の中から下りて駆け寄ってきた。鳩貝ウツロはいつでもアクセルを踏めるよう運転席にいる。日和が着替えを手渡してくれる。代わりに戌井は1億円のケースを彼女に渡す。
「戌井くん、血が……」
日和は裸の戌井を見て少し視線を泳がせるが、腕や肩から血が流れているのを見て心配そうな声を上げる。ショットガンの弾のいくつかが皮膚を抉ったのだ。獣化状態の皮膚は装甲のように硬いので、致命傷にはなっていない。
「せめて止血を――」
「馬庭がここに来る」と戌井は言った。「先に下へ行け。終わったらここから飛び降りて車に乗る」
「わかった。行くよ、ひよりん」
猫屋敷は荒っぽいことに慣れているので冷静だ。2人は1億円のケースを一緒に運び、急いで車に乗り込んだ。車のエンジン音が遠ざかっていくのと入れ替わりに、バイク音がぐんぐん近付いてくる。この立体駐車場は入口と出口が別なので、車とバイクが鉢合わせすることはないだろう。
戌井は素早く服を身につけた。黒いレインコートのフードを被ると馬庭の姿が見えた。着替えるところを見られたので、こちらが白狼だと確信している。馬庭はバイクに乗りながら拳銃で発砲してきた。戌井はさっと他の車の影に隠れて弾をやり過ごすと、すぐにバイクの尻を追いかけた。
馬庭はハンドルをフルロックまで切り込み、車体を深々とバンクさせながら小道路旋回を決めた。まるでコンパスで描いたような完璧な弧を描いて180度向きを変える。馬庭が銃口をこちらに向けようとする瞬間を狙って、戌井はナイフを投げた。
ナイフは弾丸のごとく飛んでいき、正確に拳銃を捉えて弾き飛ばす。「あっ」と、馬庭が驚きの声を上げた。
戌井は馬庭に向かって走っていたが、さらに跳躍して回し蹴りを繰り出す。馬庭は肘でガードするも蹴りの威力は強く、バイクから転げ落ちる。戌井は彼女の後ろに回り込み、気絶するまで首を絞め上げた。
赤熊ならもっと苦戦していただろう。
ウツロの車が下で待機しているはずだ。戌井はナイフを拾って、外壁の開口部から下を覗いた。日和たちが見知らぬ2人の男たちに拳銃を突きつけられている。




