第6話 靴探し①
満月の夜まで、あと12日。
戌井が教室に入ると、猿渡日和は驚いた顔をしていた。なぜ逃げないのか、と言いたげにこちらをじっと見つめてくる。戌井は彼女の視線を無視して席に着いた。
もはやこれは意地だ。外部からの圧力によって、自分の信念を曲げるのは率直に言って腹が立つ。占いたければ占えばいい。だが戌井は逃げない。むしろ制限をかけられた分、残りの高校生活をよりいっそう大切に過ごしてやるのだ。病気で動けなかった時とは違うのだから、今の状況の方がずっとマシだと言えよう。
1時限目の英語の授業が始まった。教師は白鳥マリア。日英のハーフで、このクラスの担任の先生だ。おそらくはチュベローズの香水を付けている。和名は月下香とも言われ、甘美で官能的な花の香りだ。戌井はその匂いを嗅いで、受験の日、試験官としてフォローしてくれた先生でもあることに気付いた。
「じゃあ次の文章は戌井くんね」白鳥マリアが言った。
英語の授業では主に教科書の英文を訳す。戌井は集中力を回復するために、自分の呼吸に意識を向ける瞑想を行っていたので、自分が当てられたことに気付けなかった。
「戌井くん?」
彼はようやく自分が呼ばれていることに気付いた。
「はい」
「次はあなたの番だから、英文を読んだ後、日本語訳を答えてちょうだい」
「……すみません、どの行か教えてくれませんか」
「前の人が読んだところ聞いてなかったの? ちゃんと起きているように見えたのに」
白鳥マリアは呆れた様子で金髪を掻き上げた。
「戌井」と、左隣の席にいる雉真が小声で言った。見ると教科書の該当部分を指差してくれている。
戌井は自分の教科書に目を向けた。予習はきちんとやっているので、教科書には英文の読み方を振ってある。ノートには日本語訳。戌井は立ち上がって読み上げた。
「訳はばっちりね。別に立たなくても良かったのだけれど」
くすくすと笑い声が起こった。戌井はむしろなぜ座って授業を受けねばならないのだろうと思った。運動しながらの方が記憶力や学習能力が向上するという研究もあるのに。
「あの、立っていた方が集中できるのでこのままでいいですか」
軽いどよめきが起こった。こいつは頭がオカシイのか? とクラス中の人間が考え始めている。戌井が伸脚運動を始めると、クラスの誰かが「やべえやつだ」とささやき声で言うのが聞こえた。
「Shut Up!」
白鳥マリアが教卓を叩いた。
「人にはそれぞれ特性がある。世間では性的指向や性自認の話ばかり取り沙汰されるけど、それは個人の問題で好きにすればいいわ。ぶっちゃけどうでもいい。でも仕事の場では、その人の能力や特性の方がよっぽど重要よ。『電話は苦手だけど文章は得意』とか『朝は弱いけど夜は集中力が高い』とか。戌井くんみたいに座りっぱなしだと集中できない体質とかね。そういう仕事に直結する多様性こそ理解されるべきだと思うわ。あなた達も自分が勉強しやすいと思う姿勢を取りなさい。他の人の迷惑にならなければ何でもOKよ」
しんと教室が静まり返る。椅子を引く音がした。見ると日和が立ち上がっていた。彼女は両手を組んで前に伸ばすストレッチを始める。その次に立ち上がったのは雉真だ。その2人を皮切りに、ちらほらと立ち上がる生徒が出てきた。
「ま、理解できない先生もいるから私の授業だけにしておきなさいね」
白鳥マリアが茶目っ気たっぷりにウインクすると、教室の空気が和やかになった。
☂
「いやあ、どうなることかとハラハラしたぜ」
英語の授業が終わると雉真が言った。
「お前のおかげでこれからは英語の授業で立ったり座ったりできるな」
「さっきはありがとう」
「これくらい何でもねえよ。むしろ日和さんに先を越されちまったなあ。彼女にも礼を言った方がいいんじゃないか?」
戌井は日和の方を見た。今度は彼女が目を逸らしている。次の授業は体育なので女子は別の更衣室に行かねばならない。日和はすぐに出ていってしまった。
「俺と話したくなさそうだ」
「何言ってんだ? 絶対お前に気があると思うんだよなあ。俺の恋愛脳がそう言ってる」
「ジャージに着替えるか」
「完全スルー!?」
☂
放課後になった。昇降口へ向かって廊下を歩いている時に雉真が言った。
「お前さ、なんでスポーツ部に入らなかったわけ? 体力テストの結果、学年1位だろ? いや、2年と3年も含めてもトップだったらしいぞ。スポーツ部入ったら大活躍しそう」
「ルールを覚えられない」
「忘れっぽいってそのレベルなのか」
「ルール無用のスポーツならいいんだがな」
「ねえよ、そんなスポーツ」
昇降口に到着すると、日和がうろうろしていた。自分の下駄箱を開けたのに靴は履き替えず、何かを探すように昇降口の傘立ての中を覗き込んだり、シューズラックの上を見ようと背伸びしたりしている。
「どうしたの、日和さん?」
雉真が声をかけた。
「あ……」
日和は明らかに困った様子だったが、戌井の存在を確認するとすぐにこう言った。
「……何でもありません。お疲れ様でした」
戌井と雉真が靴を履き替えている間、日和はくしゃくしゃの紙切れを手に持ち、その紙を撮影するようにスマホをかかげていた。撮影音はしなかったから、QRコードか何かを読み取ったのだろう。スマホの画面をスクロールするたびに、彼女の顔が青ざめていく。
日和は、半ば放心状態で校舎の外へ歩き出した。
「靴、履き替えなくていいのか?」
戌井はつい気になって声をかけた。日和は反応せずに歩き続ける。戌井と雉真は顔を見合わせた。
「事件のにおいがするな……」
「特別なにおいはしないが」
「靴を履き替えなかったんじゃない」雉真は続けた。「履き替えられなかったんだ。ちょっと失敬して……」
雉真は日和の下駄箱を開けた。
「ほらな、靴がない」
「どうして? ただのローファーだ。盗む価値があるとは思えない」
「盗難じゃなくて、器物損壊が目的だ。日和さん美人だから敵を作りやすいんだろうなあ」
「美人だと靴を壊されるのか?」
「いじめの定番だろうが。靴をどっかに隠して嫌がらせするんだよ。古典的なやり方だがダメージはでかい。上履きで帰らなきゃいけない羞恥心と、帰ったら上履きを洗って別の靴を用意しなきゃいけない面倒くささ、新しいローファーを買うお金……想像するだけで嫌な気分になるな」
「いじめとは何だ?」
雉真は驚きのあまり口をぱくぱくさせた。
「お前、異世界から転生してきたの? いじめ問題も知らねえのかよ」
学校特有の問題なら戌井には縁がない。さすがに怪しまれると思ったが、雉真は詮索してこなかった。
「ま、いじめと言うより名誉毀損とか暴力行為と呼ぶべきだな。犯罪者のクソ共がよってたかって1人の人間に苦痛を与えるんだよ」
「なら警察を呼ぶべきか?」
「いや、騒ぎを大きくすると日和さんに迷惑がかかるかも……とりあえず靴を見つけてあげたいな。その後どうするかは本人の意思を確認すべきだ」
「どうして彼女は靴がないと言わなかったんだ?」
「人を頼るのが苦手なんだろ。そういう人はけっこう多いぜ。入学したばかりだから友達も少ないし」
もしくは戌井に頼み事をするのはきまりが悪かったからだ。占い宣言をした相手に助けてくれなどと言えるわけがない。雉真だけだったら彼女は気兼ねなく相談できたのだろうか?
こうなったのは戌井のせいではないが、日和の間の悪さにはどこか親しみを覚えてしまう。彼女の立場になってみると、受験当日に訳もなく人狼に襲われ、助けてくれた相手には人狼疑惑があり、普通に感謝したいだけなのに預言者としての責務の間で板挟み状態といったところだ。その上、入学早々、何者かに悪意を向けられている。
戌井が靴を見つけてやったら、日和はどんな反応をするだろう? 自分の印象を良くするための打算的な行為だと思われるか。もしくは……いや、楽観的な期待はできない。すでに日和は命を助けられた上で占い宣言をしてきたのだ。靴を見つけたくらいで何が変わるというのか。だが残りの12日間、彼女と全く関わりを持たないというのも違う。
猿渡日和がどんな人間か知っておきたい。彼女が冷酷な人間でないことは知っている。もしそうなら占い宣言などするものか。日和と関われば何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。たとえ何も変わらずとも心情的に納得はできるだろう。やれることはやっておくべきだ。
まずは靴を見つけるとしよう。
戌井は言った。「靴は校舎にあるのか? 学外に捨てられた可能性もあるが」
「俺は校舎にあると思う。だって面倒だろ。わざわざ外に持っていくなんて」
「探すか」
「おうよ」