第59話 作戦決行前
獣影館に到着したのはその20分後。残り10分だ。
獅子丸慎吾は殺し屋たちの仲介役に電話をかけてブラスターは来ないしSTを呼ぶことにしたから、依頼はキャンセルすると連絡した。
「ああ、伝えておこう」仲介役は言った。「しかし困ったね。すでに2人が現地で待機している。その2人にはあんたから伝えてくれないか? 名前はセミとアメンボだ」
「セミとアメンボ?」
「信じられないかもしれんが、セミとアメンボは生物学的には同じ仲間なんだ。見た目は全然違うのにな。その2人も見た目は似てないが兄弟だ。見ればすぐにわかるよ」
「わかった」
やはりSTを呼んだのは正解だ。セミとアメンボとかいうふざけた名前の殺し屋に白狼をどうこうできるとは思えなかった。
「私は裏口からケースを館内に運んでおくわね」静江は淡々と言った。「このお金を殺し屋さんたちに見られたら横取りしてくるかもしれないし」
「STもすでに裏口で待機している。君に接触してくるだろうから、彼らをこっそり中へいれるんだぞ」
静江は頷いて車を下り、キャスター付きのケースを引いて獣影館の裏口に向かった。
獅子丸慎吾は表門に向かった。その時、異常に細くて長身の男とすれ違った。黒髪で前髪が長い。黒い服を全身に身にまとい、手足が異様に長く、まるでアメンボのようだった。
細身の男は獅子丸慎吾に軽くぶつかると、何も言わずに去っていく。獅子丸慎吾はジャケットのポケットが振動するのを感じた。いつの間にか知らない携帯電話が入っている。獅子丸慎吾はこれがセミとアメンボの通信手段なのだとすぐに理解した。携帯電話を耳に当てる。
「弟はやめておけと言ったんだ」電話の向こうの男が言った。「弟ってのはお前がさっきすれ違った男だ。アメンボみてえだろ?」
「それで、あなたがセミというわけですか」
「俺はいつかデカい仕事をしたいと思ってた。まとまった金を手に入れて生まれ変わりたい。今までと全く違う自分になりたいとずっと夢見てた。サナギから脱皮してセミになるみてえにな」
「セミは短命ですから」獅子丸慎吾は言った。「サナギのままの方が長生きできますよ。キャンセルの連絡は聞きましたか?」
「どうして始めからSTを呼ばなかったんだ?」
「それはあなた方には関係ありません。プロなら余計な詮索はしないでいただきたい。とはいえ、私のせいで無駄な御足労をかけてしまったことはお詫びします。交通費が必要なら後で請求してください」
「博物館の中で白狼を仕留めきれなかったらどうする? 白狼は博物館から出てくるだろう。俺たちはそいつを追跡する。白狼は150秒後に人間に戻る。そうなりゃ俺たちだって十分戦える。あんた、白狼に1億円を要求されているんだろう?」
獅子丸慎吾は一瞬面食らい、慎重に答えた。
「なぜそう思うんです?」
「俺が白狼ならそうするからさ。予測できなかったのか?」
「私にはならず者たちの考え方は予測できませんね」
「俺達にはいい考えがある」
セミは2文くらいで終わるシンプルな作戦を話した。
「なるほど……それでもしあなた方が白狼を捕まえたら報酬を支払いますよ」
「1億円だ。白狼討伐の賞金をもらいたい」
「それはあくまで生け捕りにした場合です。そうでない場合は1人あたり1000万は確約しましょう」
「ま、いいだろう」
「STも追跡はするので彼らの邪魔はしないようにお願いします」
電話を切ると獅子丸慎吾は正面玄関から博物館の中に入った。今日は白狼の指示で休館にしており、誰もいない状態にしている。裏口から侵入したSTを除いて。
「いやはや、圧巻ね」
展示室に行くと、いつでもバイクに飛び乗れると言わんばかりにライダースーツを身にまとった女が剥製をまじまじと眺めていた。STの隊長、馬庭ヤヨイだ。
「私が退治した人狼はこの中にいないわ」
「きっとありふれた毛色だったのでしょう。どんな毛色だろうと人狼退治には意義がありますが、収集価値となると話は別です。STが退治した人狼なら、ほらっ、あの金色の獣がそうです」
「ああ」馬庭ヤヨイは口をとがらせた。「赤熊の討伐した」
「綺麗な金色で、目を覆うほどの長毛種は珍しい。それに人狼そのものの背景も重要です。彼女は黒き月の人狼で、教師でありながらいじめられっ子を喰っていた。この恐るべき手口は後世に警鐘しなければなりません。なんというか、展示することに教育的価値があるのですよ」
「ふん、赤熊は運が良かっただけよ。高校生の言うことを信じて、通常の手順を外れて行動するなんて認めるべきじゃないわ」
「ところで、その赤熊隊長は来られないのですか?」
その質問は彼女をいたく傷つけたようだった。
「彼女は爆睡中。休むべき時に休まなかったせいでね。とんだ体たらくだわ。体調を整えるのも仕事の一環だというのに! まあ、私に任せておけば心配はいらないわ」
「それに私もいますしね!」
獅子丸慎吾はびっくりして飛び上がりそうになった。ブラスターが当然のごとくいたからだ。彼は世界最小の人狼「アマラ」のそばにしゃがみ込み、興味深げに眺めていた。
「我々は子供の人狼も容赦なく殺す」ブラスターは言った。
「あら、子供とは限らないんじゃないの。獣形態の大きさと年齢に相関関係はないんだから」馬庭ヤヨイが言った。「子供といえども、獣化したサイズは大人とそう変わらない。危険な生物よ」
「この『アマラ』はどう見ても子犬サイズですがね。世界中を見ても、このサイズの人狼は珍しい。どこで手に入れたんです?」
「話している暇はありません」
獅子丸慎吾は静江の方をちらりと見て冷や汗を流した。
「ブラスターさん。あ、あんたは来ないと思っていましたが」
「特等席でこのショーを見物すると言ったでしょう? あなたには協力しませんが、STにはちょっとした助言をしておきました。このままだとあまりにも一方的でつまらないですからね」
「ちょっと」馬庭ヤヨイが噛みついた。「その言い方だとSTが白狼に手も足も出せないみたいじゃないの」
ブラスターはパネルに不気味な笑みを貼り付けながら少し沈黙し、そして言った。
「そろそろ約束の時間です。配置についてください」
☂️
午前7時。
戌井は朝の散歩からホテルに戻り、シャワーを浴びてからコーヒーを入れた。それからソファーに深く沈みこんで瞑想にふける。
日和がベッドからモゾモゾと起き上がる気配がした。戌井は気にせず瞑想を続けた。日和が歩み寄ってくる気配も感じたが、彼は目を瞑ったまま呼吸に意識を集中していた。するといきなり膝の上に柔らかいものがのしかかってきた。ジャスミンティーの匂いが強く香ってくる。
戌井は目を見開いた。日和が彼の膝の上に乗っているのだ。
「何をしている?」
彼女の目はとろんとしていて、自分が何をしているのかよくわかっていないようだった。戌井は寝ぼけるということがどういう感覚なのか理解できなかったが、日和の様子を見て寝ぼけた人間はこんなことをするのか、と理解した。
戌井はそっと日和を横抱きにしながら立ち上がり、彼女を1人でソファーに座らせた。
コーヒーを淹れてやろう、と戌井は考えた。カフェインを摂取すれば目を覚ますだろう。
それでコーヒーを淹れに行ったのだが、戻ってくると日和が戌井の飲みかけのコーヒーに口をつけていた。
「おはようございます」と日和が言った。「コーヒー淹れていただいたんですね。とっても美味しいです」
自分の飲みかけなのは黙っておこう。戌井は今淹れたばかりのコーヒーを一口飲んでテーブルに置いた。
「これから獅子丸慎吾に電話をかける。外でな」
戌井の言葉に日和は緊張した面持ちになる。
「いよいよなんですね」
「君は終わるまでホテルに待機していてもいいが」
「1億円は重いですよ。人手は多ければ多いほどよいでしょう。私がいると邪魔、ですか?」
「邪魔だと思ったことは一度もない」
そう言われたのが嬉しかったのか、日和は少し頬を染めて戌井を見つめた。
「俺が戻ったらすぐにホテルを出る。出発する準備をしておけ」
戌井はすたすたとホテルを出た。あらかじめ目をつけていた公衆電話ボックスに入り、プリペイド式携帯電話を取り出して獅子丸慎吾に電話をかける。1度目は賞金の取り下げを要求し、2度目には1億円を用意するよう要求した。タイムリミットは2時間後だ。
話が済むと戌井はプリペイド式携帯電話からSIMカードを取り出し、手の中で握りしめて粉砕する。端末をバラバラにして屋外のゴミ箱に小分けにして捨てた。携帯電話は2~3回使ったら捨てる。この一連の動作は体に深く染み付いており、戌井はほとんど無意識にやっていた。ホテルに向かって歩いている時、ふと自分がタイムスリップしたような感覚に陥る。学校に通っていたのは長い長い夢だったような気がしてくる。人狼は夢を見ないとわかっていても。
だがホテルに戻り、日和の姿を見ると地に足を付けた気分になった。家はなくなったし、学校には通っていないし、今やっていることもこれからやることも殺し屋時代の自分そのものだが、帰るべき日常は確かに存在する。
「獅子丸慎吾との話はどうでした?」
「全て順調だ」
戌井と日和はホテルを出た。




