第58話 金の用意
皿の割れる音がしたので、静江が台所から出てきた。
「どうしたの? あなた」
どこかのんびりした口調に獅子丸慎吾はますます苛立ちが募った。
「うるさい。お前には関係ないことだ」
「電話の声が聞こえたんだけど」静江は言った。「白狼に脅されてるの?」
獅子丸慎吾は眉を持ち上げ、少し意外そうに妻を見つめた。彼女は育ちの良い箱入り娘で、世間知らずでか弱い女のはずだった。夫が皿を割ったこの状況ではただ怯えて動揺し、「大丈夫ですか?」と震える声で尋ねるか、あるいは黙って床の破片を片付け始めるものだろう。だが静江の表情には驚くほどの落ち着きがあり、まるでこの状況を完全に理解しており、対処する準備もできているという表情だった。
「私にできることはあるかしら?」
「……破片を片付けてくれ」
獅子丸慎吾は冷たく言った。妻に何ができるというのだ? 相談相手にもならない。静江は大人しく頷き、チリトリで破片を集め始めた。
白狼に対処できる人間が必要だ。それは妻ではない。
STに通報するか? 白狼に賞金をかけたことで恨みを買い、1億円を渡さねば殺すと脅されたと言えばいい。STも白狼を討伐したいので獅子丸慎吾を囮にすることに同意するだろう。しかし戌井がSTの動きに気付いてしまう恐れもある。一歩間違えるだけでワイルドショットの秘密が公開されてしまうのだ。そうなれば獅子丸慎吾は警察に目を付けられ、世間の非難の的になり、あらゆる地位を失うだろう。迂闊なマネはできない。
くそっ。STはダメだ。他に白狼に対処できる人間と言えば……
獅子丸慎吾はスマホを鷲づかみ、電話帳から霊媒師ブラスターを探し出した。昔、事件を起こした人狼の剥製が欲しくて現場を訪問し、そこでブラスターと知り合ったことがある。何かの役に立つかもしれないと連絡先を交換しておいて良かった。
「これはこれは、獅子丸慎吾氏ではありませんか!」ブラスターが元気いっぱいに言った。「そろそろ電話してくる頃だと思いましたよ」
「なんですと? どういう意味です?」
「あなたは白狼を怒らせた。そのせいで厄介なことになったんじゃありません?」
「……あんたは白狼を知っているのですか? 白狼の正体も……」
「さあねえ。私が知っているのは、白狼を怒らせたらもう誰にも手を付けられないということですよ」
「あの霊媒師ブラスターにも、ですか? STの隊長くらいお強いと聞きましたよ」
ブラスターは「ふうん」と言って、少し考えるような間があった。
「なぜSTに通報しないんです?」
訝しむような口調だったが、獅子丸慎吾は落ち着いて答えた。
「STに通報したら殺すと脅されたからですよ。あんたなら、白狼の目をかいくぐって奴の不意を付けるでしょう。私は他にも用心棒を雇うことができます。ちょっとした即席の部隊を作り、白狼を迎え撃ちたい。あんたにその指揮を取ってほしいのですよ。人狼討伐のプロに」
「それは実に楽しそうだ! タイムリミットはいつです?」
「え?」
「白狼は完全に準備をしてからあなたに電話をかけた。ぎりぎりの時間を指定してきたはずです。大体2時間ってところですかねえ」
ブラスターなら白狼に対処できる。獅子丸慎吾はそう確信した。
「まさに仰るとおり、2時間後です。それまでに1億円を用意して獣影館に来いと。1人で、と言われたので我々の部隊は注意深く隠れておかねばなりません」
「我々の部隊ねえ」ブラスターはその言葉をおかしむようにクックと笑った。「それじゃ、私は準備しておきますよ。また1時間後に」
そう言うとブラスターはこちらの返事を待たずに電話を切った。
よし。次は銀行に電話して事情を説明し、できる限り早く1億円を用意してもらう。その後、2時間以内に獣影館に集合できそうな殺し屋達を片っ端から集める。表向きは用心棒として。ブラスターが協力すると言えば、人狼相手でもやる気を出してくれるかもしれない。
獅子丸慎吾はジャケットを羽織って家の扉に向かった。
「私も行くわ」
静江の言葉に獅子丸慎吾は驚いた。
「何だと? 私がこれから何をするつもりか聞いていたんだろう?」
「白狼を討伐するんでしょう? あなたの身が心配なの」
「……どういうことだ?」
静江はきょとんと首を傾げた。
「どういうこともなにも……あなたを愛しているからよ。私の落ち度で娘を失った時、あなたは私を責めたりしなかった。私を妻としてそばにいることを許してくれた。私にとってあなたはかけがえのない存在なのよ」
そう言って静江は夫の腕にそっと手を置いた。彼女の愛がここまで大きいとは思わなかった。正直言って彼女にできることは何もないが、自分のそばには間違いなく貞淑な妻がいるのだと思うと、自信が湧いてくる気がする。獅子丸慎吾は妻に対するこれまでの自分の態度を恥じ入った。ほんの少しだけ。
★★★
30分後、白狼――戌井時雨が再び電話をかけてきた。
「1億円は用意できたか?」
「今から銀行に取りに行くところだ」
「大きなジュラルミンのアタッシュケースに1億円を入れろ。錠前は中央に埋め込みタイプのロータリー錠、左右に留め具がある頑丈なものを。キャスター付きでな」
「そういうことは早めに言ってほしいものだな」
戌井はわざと遅めに言ったのだろう。ブツを用意するのに忙しくさせてこちらの考える時間を奪うのだ。
「ケースがなくて遅れたなんて言い訳は聞かない。次は1時間半後だ。それまでに獣影館に待機していろ」
獅子丸慎吾は頭に血が昇った。高校生なんかに振り回されている自分が腹立たしい。静江が落ち着くようにと二の腕をさすってくれたので、彼はどうにか言葉を飲み込んで電話を切った。
ブラスターは何をやっているんだ? 1時間後と言っていたが、それでは遅すぎる。相談したいことが山ほどあるというのに。獅子丸慎吾は痺れを切らして電話を鳴らしたが、ブラスターは出なかった。
「くそっ」
「今できることをしましょう」静江が言った。「指定されたケースはどうやって用意するの?」
「特殊なケースではなかったから、トランク製作所の知り合いに頼んでみる」
獅子丸慎吾はその知り合いに電話をかけ、10分ほど押し問答をしてから、要求を飲ませることに成功した。
「用意してくれるそうだから、お前が車で取りに行ってくれないか?」
「わかったわ」
「その間に銀行側の手続きを進めておく」
★★★
1億円を指定されたジュラルミンケースに詰めるのに45分かかった。すでに1時間以上、経過しているがブラスターから連絡がない。
獅子丸慎吾は静江に運転を任せて助手席で電話をかけた。今度は繋がった。
「あと35分です」獅子丸慎吾は焦った口調で言った。「いったい何をしているんです?」
「チーズケーキ食べてますけど」ブラスターはもごもごした声で言った。「私は甘い物に目がないんですよ。獣影館のそばには良い店がたくさんあります」
全く緊張感がない声に苛立ちを覚えたが、ブラスターが獣影館の近所にいるというのは良い知らせだった。
「私の雇った者たちが獣影館の近くで待機しています。彼らと合流して指示を出してくれませんか。私は荒っぽいことの専門家ではないのでね」
「なんでそんなことしなきゃならないんです?」
獅子丸慎吾は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「私は協力するとはヒトコトも言ってませんよ」
「準備をすると言ったではないか!」
「ええ、1億円を奪われる男を間近で見る準備ができました。さぞかし見ものでしょう」
「ふざけるな! なぜこんな仕打ちを――」
「お前は私の友人を傷付けた」
ブラスターが機械的な低い声で言った。
「あんたの友人……? 誰のことだ? 私はそんなことしていない!」
「ウォールナットの人狼とあなたが繋がっていることはわかっています。そしてあなたの裏の顔も。展示会という名目で剥製を頻繁に国外へ持ち出していますよねえ? そしてワイルドショットと呼ばれる謎のドラッグが徐々に海外でも流行り始めている。その出どころはあなたです。違いますか?」
「麻薬課がそんな言いがかりをつけてきたが、とことん調べ尽くして疑いは晴らしたはずだ。あんたもそんな絵空事を信じているとはがっかりですよ」
「本当に絵空事ならば、STに通報すればよいでしょう。あなたの即席部隊で人狼を倒すことの方がよほど絵空事と言えますがね」
獅子丸慎吾は返す言葉もなく歯噛みした。
「あと30分」ブラスターは愉しげに笑い声を上げた。「それではがんばってくださぁいねえ~」
「このくそったれが!」
獅子丸慎吾は悪態をついてスマホを放り投げようとした。静江が急ブレーキを踏んだので投げる寸前でそれは阻止された。赤信号で止まったらしい。
「投げないで。大事な連絡手段よ」静江は不気味なほど落ち着いていた。「殺し屋さん達にもブラスターが来ないことを伝えるべきだわ」
「15人ほど集まる予定だった」
獅子丸慎吾の声はすっかり意気消沈していた。
「正直に伝えれば1人も来ないだろう。人狼に対抗できるのは日々過酷な訓練を受け、装備も揃っているSTしかいない」
「それか人狼ね。でも人狼の剥製コレクターに協力してくれる人狼はいないでしょうね」
静江は皮肉っぽく言った。彼女がそんな生意気な物言いをするとは驚きだった。
協力してくれる人狼と言えば松鷹と黒鶴がいた。1人は死んで、もう1人はSTに追われて身を隠している。黒鶴ナギがいれば形勢逆転もありえたのだが、期待はできそうにない。
「大人しく1億円を支払った方がよさそうね。それで白狼は満足するでしょうし、命までは奪ったりしないでしょう」
「本当にそうか? 奴は私を殺すかも知れない。それなら金を持って海外へ高跳びした方がいいかもな」
「それは困るわ」
「えっ?」
「娘は日本にいるのよ。どこにいるかはわからないけど、この国のどこかにいるはず。私たちが海外へ行ってしまったら、娘の帰る場所がなくなってしまうわ」
「……」
彼女の言葉は言い得て妙だった。確かに娘は日本にいる。彼が収集した剥製たちと共に。海外へ逃げればせっかく集めたコレクションとおさらばしなければならない。
それに人狼由来の麻薬、ワイルドショットの秘密が公開されたら二度と人狼の剥製を収集することはできなくなるだろう。コレクターとしては辛いことだった。
「あなたの隠している秘密って何なの?」
獅子丸慎吾は妻の問いかけにドキリとした。
「私の事業に関わる機密情報だ。漏れれば私は全てを失う」
「なら白狼の言うとおりにすべきよ」
「いや……こうなったら一か八かだ。STを呼ぼう」
「でも……STに通報したことがバレたら白狼は来ないし秘密も暴かれてしまうわ」
「白狼は1億円を諦めたりしないだろう。1億円を簡単に諦める奴なんているのか? STを呼んだことがバレても、奴は受け渡しを続行するに違いない」
「どうしてそう言い切れるの?」
「一か八かだと言っただろう。私はこの選択で全てを失うかもしれないし、白狼はこの勝負に乗るかもしれない。しかし逃亡しても全てを失うのは同じだ。ならば、私も覚悟を決めよう」
「だけど……」
静江は苦い表情をしたが、首を振りながら言った。
「いえ、受け渡しの時には私も付き添うわ」
「白狼は1人で来いと言っていたぞ」
「妻がそばにいるから何だというの。それくらい許してくれるでしょう」
「付き添ってどうするんだ? 危険な目に遭うだけだぞ?」
「あなたのそばにいたいのよ。妻なんだから当然でしょ」
獅子丸慎吾は急に妻が美しい生き物のように見えてきた。
「君がそんな肝のすわった女性だとは知らなかった」
「お互いに、お互いのことを知らなかったみたいね」
「これが終わったら君のことをもっと知れるだろう」
静江は魅力的な微笑を浮かべた。
「ええ、きっとそうなるわ」




