第57話 恐喝
※獅子丸視点
毎朝、獅子丸慎吾が起きるとすでに朝食が用意されている。
エッグベネディクトに緑のサラダが添えられ、同じ皿の上にスープボウルに入ったコーンポタージュが乗っていた。黄色と緑の色合いに食欲をそそられる。さらにキウイやミカン、バナナにナッツを散りばめた自家製ヨーグルト付き。毎日食べているが全く飽きないし、健康的だ。
妻の静江はおっとりしていて頭もトロいと獅子丸慎吾は考えているが、家事については超一流である。一緒にいてもはっきり言ってつまらない女だが、未だに離婚しないのは掃除、洗濯、料理をそつなくこなせるからだ。しかも文句も言わずに。
もっとも頭が鈍くなったのはワイルドショットの副作用もあるかもしれない。獅子丸慎吾の記憶上では、妻は始めからそうだったと都合よく改ざんされているけれども。
静江は夫の向かいの席に座り、彼が朝食を食べるのを黙って見つめていた。眉をひそめて自分がなぜこんなところにいるのかわからないという様子で。これもいつものことだ。結局は何も言わずに自分の仕事へ戻っていく。
しかし今日は違っていた。静江が突然口を開いた。
「ねえ、あなた……どうして私たち、動物園に行ったのかしらね」
「お前が行きたいと言ったんだろう」
「私が?」静江は不可解そうに目を細めた。「なぜ?」
ワイルドショットのせいで静江は記憶があやふやになることがある。
「娘が動物園に行くのが好きだったから。あの日は娘が行方不明になった日だった」
「でも……」
静江の細められた目が、冷徹な光を帯びたような気がした。
「娘は動物園になんか行ったことないわ」
「何だと?」
「なのにどうして私が動物園に行きたいなんて言うの?」
獅子丸慎吾は苛立った。彼は娘の詩織が動物園に行ったことがあるのかどうかすら知らなかった。
静江が娘の失踪した日に『あの子が好きだった動物園に行きたい』と言い出したのだ。何度断ってもしつこくせがんでくるし、離婚しそうなほど真剣な様子だったので、仕方なく付き合ってやったのだ。おかげで人狼事件に巻き込まれて痛い目に遭い、入院するハメになった。
白狼の存在を知れたのは儲けものだったが、怪我をしたのは静江のせいだと思っている。なのに娘に無関心だったことを浮き彫りにされ、何だかそれを責められているように感じる。
「そんなの知るか」獅子丸慎吾は投げやりに言った。「くだらない話をしている暇はない」
静江は無表情になって立ち上がり、台所に歩いていった。獅子丸慎吾のスマホが鳴ったのはその時だ。
「白狼について情報があるという方があなたと話をしたいそうです」
白狼の捕獲のために獅子丸慎吾は特別な窓口を設けていた。そこに電話が入り、二言三言話をして、相手がまともそうな奴だったら自分に繋げるよう指示している。
白狼の情報なら大歓迎だ。白く美しい獣の剥製が獣影館に展示される様子を思い浮かべる。獣化した人狼は普通の狼よりも大きいので迫力があるだろう。白狼の剥製を手に入れるためなら生涯をかけても構わない。
「お電話変わりました。獅子丸慎吾です」
「私は白狼だ」
彼は息を呑んだ。が、すぐに冷静になった。白狼に1億の賞金を懸けたのだ。当の本人が迷惑して連絡してくる可能性も想定済みだ。
松鷹や黒鶴ナギによれば白狼は戌井時雨という少年だとわかっている。ところが電話の声は女のものだ。ボイスチェンジャーを使っているのだろう。
戌井は松鷹に家を破壊され、今はどこかに身を潜めているはずだ。こちらの情報網をもってしても見つからない場所に。どうやらただの高校生ではないらしい。
獅子丸慎吾は言った。
「ほほう。白狼ですか。女性だとは思いませんでしたよ」
「ワイルドショットの秘密を知っている」
今度は長い沈黙があった。ワイルドショットのことは獅子丸慎吾しか知らないはずだ。剥製への愛が高じて、獣化した人狼の研究に力を入れていたら偶然発見したのだった。念には念を入れて、一緒に研究した科学者は始末している。
いったいどこから漏れたのか? 当てずっぽうとは思えない。獅子丸慎吾がワイルドショットと結びついていることは、取引している麻薬カルテルの重鎮しか知らない。麻薬課が徹底的に捜査しても証拠は上がらなかったのだ。なぜこんな若造がワイルドショットの秘密に辿り着けるのか。
「秘密をバラされたくなければ」戌井が言った。「懸賞金を取り下げろ」
「ふざけるな。そんなものは知らない」
「獣化した人狼から抽出できる中毒性物質なんだろう? その抽出方法をリークしてやる。麻薬課はお前に煮え湯を飲まされたのでこの情報に喜んで飛びつくだろう。麻薬カルテルは、警察に目を付けられたディーラーとこれ以上取引したいとは思わない。さらにワイルドショットの製法がわかればお前から買う理由もなくなる」
こいつは何者なんだ? 戌井の脅しは的確だった。裏社会のことを知り尽くしている人間の話し方だ。
「懸賞金を取り下げろ。メディアに連絡してニュースにしてもらえ。10分以内にお前のホームページにも掲載しろ」
「貴様のリークした情報なんて誰が信じる? 貴様はただの高校生だ。貴様の言うことなんか誰も――」
「10分待つ」
戌井はこちらの反論を無視して言った。
「10分待ってホームページが更新されなかったら、ワイルドショットの秘密を公開してやる」
電話が切れた。獅子丸慎吾は冷や汗を流した。最後の言葉は脅しではない。10分後に懸賞金の取り下げを掲載しなければ、戌井は言葉通りに実行するだろう。奴には自分の情報に信憑性を持たせる手段があるのだ。
こちらに選択肢はなく、時間もなかった。ふん、懸賞金を取り下げるくらいわけもない。あの白狼がどこへ身を潜めようと必ず探し出して殺してやる。獅子丸慎吾はホームページの管理者とメディアの人間に電話をかけた。
10分後、電話が鳴った。
「ホームページの掲載を確認したか?」獅子丸慎吾が言った。
「ああ。次の要求だが――」
彼は驚いた。
「まだ何かあるのか? 懸賞金を取り下げればそれでおしまいだろう」
「お前は松鷹という男を寄越してきた。奴は私の家をめちゃくちゃにした」
「そんな男のことは知らない。賞金稼ぎの1人だろうが、私の責任ではない」
「いや、あんたが責任を取るんだ。1億円でな」
「馬鹿な……それは白狼にかけた懸賞金だ」
「受け取りは私が直々《じきじき》に行く。この白狼がそっちに行くんだから、賞金を貰うのは当然だろう。2時間後に獣影館で、お前1人で来るんだ」
「2時間後だと? 1億円なんて2時間じゃ用意できない。数日はかかる」
「嘘を吐くな。あらかじめ銀行側に現金を用意させているはずだ。元々支払うべき懸賞金だったんだから」
「銀行はまだ開いてないぞ」
「命がかかっていると言えばいい。実際、そうなんだからな」
「5000万だ。それ以上は払えない」
「私はびた一文もまける気はない」
戌井はこれまで抑揚なく話していたが、その時の口調には怒りが垣間見えた。何か彼の逆鱗に触れるようなことをしたのかもしれない。まあ懸賞金をかけて人をけしかけ、家を破壊し、執拗に付け狙っているのだから当然だろうが。しかし戌井のような男が感情をあらわにするのだから相当に大切なものを奪ったか、危害を加えたかしたのだろう。
松鷹め。1ヶ月以内に白狼を捕まえなければ殺すと脅したが、奴は事態をただ面倒にしただけだった。
「きっちり1億円だ。2時間後に獣影館で受け渡しをする。1対1で。もし1分でも遅れたり、STに通報したり、他に誰かいるのがわかったら取引はなしだ。ワイルドショットの秘密は全世界に公開される」
「こんなことをしてただで済むと思っているのか? お前がどこの高校に通っているのか知っているぞ。お前の友人たちからまず痛めつけて――」
「2時間もあればネットニュースになるだろう」
戌井は脅しには全く反応しなかった。
「2時間以内に懸賞金取り下げのニュースが流れなくても取引はなしだ」
電話が切れた。獅子丸慎吾はライオンのように唸り声を上げてテーブルの上の食器をなぎ払った。




