第56話 動物死体処理施設へ
動物死体処理施設から日和に準備ができたと連絡が入った。
人狼の遺体は人間とは見なされず、自治体が運営する動物用の処理施設で小刻みに解体され、火葬される。
戌井と日和は高級ホテルの最寄り駅で鳩貝ウツロのレンタカーに乗り込んだ。ミニバンはウォールナットの獣に激突したため、しばらく修理に出さなければならなかった。
ウツロは日和の姿を見ると瞬きを忘れ、口は半開きになったまま、息をするのさえ忘れるほど、目の前に現れた天使のような美しさに言葉を失っていた。
「早く動いてくれ」
「いや、こんなに美しいお嬢さんは初めて見たものでね」
「見るな。彼女に話しかけるな。運転しろ」
「ほほう、どうやら相当入れ込んでいるようだな。お前も男だ! パパは嬉しいぞ」
「パパ……?」日和が首を傾げる。
「こいつの話を真面目に聞くな」
すると助手席に座っていたカモメちゃんがじぃっと日和を睨みつけた。
「レインお兄ちゃんの好きな人……?」
戌井はその言葉を遮るように言った。
「なぜ連れてきたんだ?」
「お前がいるなら来るって駄々をこねるから……」
「お姉ちゃん、おなまえは?」
カモメちゃんに尋ねられて日和は本名を教えるべきか迷う素振りを見せた。戌井が代わりに答えた。
「彼女のことは何も教えられない。ウツロは黙って目的地に行くんだ」
「むうぅ……」
カモメちゃんは頬をふくらませて、前に向き直った。
動物死体処理施設に到着した。戌井と日和だけ車を降りて、日和は近くの街路樹の後ろでガスマスクを被り、オーバーサイズのミリタリージャケットを羽織った。
預言者サニーと共に処理施設に入る。戌井は黒髪に伊達メガネをかけ、スーツを着たボディーガード然としていた。
受付窓口に行くと、死んだ魚の眼をした中年男がスマホで漫画を読むのをやめて顔を上げる。
「ああ、預言者様。頭部の用意ならできてまっせ。そこにあるやつだ」
中年男は床を指差した。黒いビニールシートに包まれた巨大な物体が置いてある。
「すんげえ重いから、車に運ぶの手伝いますかい?」
「不要だ」戌井が言った。
「あ、そう。頭部なんか何に使うんだい?」
「研究用にね」サニーが答える。
質問したくせに中年男は興味なさそうだった。動物や人狼の遺体を扱うというのに、命というものに対してほんの少しの敬意も払っていない。空っぽの男だ。自分に与えられた仕事だけを淡々とこなし、余った時間は暇つぶしに費やしているのだろう。
戌井1人でウォールナットの頭部を持ち上げ、頭の上で掲げてみせると男は「ほえ~」とアホみたいな声を上げた。戌井は苛立ちを覚えた。
施設の出口をくぐり、暗闇にたたずむ建物全体をちらりと振り返った。反吐の出る場所だった。
「あの男、勤務態度が良くないな」サニーが言った。「後でクレームを入れておこう。あそこの制度も見直さないとね」
「預言者ってのはそんなに権限があるのか?」
「こう見えてけっこう稼いでいるんだよ」
戌井は微笑んだ。
「サニーの時の君は愉快だな」
「む」日和はガスマスクとミリタリージャケットを脱いで言った。「日和の時はつまらないですか?」
「いいや、日和さんの時も素敵だ」
「もうっ。またストレートに褒めるんですから」
日和は火照った頬を両手で覆い、ぷんぷんする。戌井はなぜ怒っているのか理解できなかったが、日和はいちいち仕草が愛らしいと感じるのは本当だった。
2人はウツロのレンタカーに戻った。ウォールナットの頭部は車のトランクに入れてもらう。
「いい匂い……」
カモメちゃんが黒いビニールシートに包まれた頭部を見て涎を垂らしている。
「後で食べられるかもしれない。必要な箇所を摘出したらだが」戌井が言った。
「そいつはありがたい!」ウツロが言った。「RJはできるだけ節約したいからな」
日和はそんな会話をやや居心地が悪そうに聞いている。
戌井と日和が後部座席に乗り込むと、カモメちゃんが戌井の膝に飛び乗ってきた。
「危ないから下りてくれ」
「やだ」
「俺は何かあった時のために即座に動けるようにしておきたい」
戌井が厳かに言うとカモメちゃんは素直に納得し、日和の膝の上に乗った。
「私、カモメっていうの。名無しのお姉ちゃん」
日和は困った様子ながらもカモメちゃんと一緒にシートベルトを締めた。ウツロはその様子を穏やかな目付きで確認すると、車を発進させた。
「お姉ちゃんも人狼?」
「いいえ、私は違います」
「カモメは優しい人間もいるってこと知ってるよ。お姉ちゃんも人狼のことは嫌いじゃない?」
「嫌いでは……ないです。全ての人狼が悪いわけではありませんから」
「じゃあカモメも学校に行けるかな? お姉ちゃんみたいに優しい人、いっぱい居る?」
「それは……どうでしょう。私は珍しい人間だと思います」
「カモメもレインお兄ちゃんみたいに学校に行きたいな」
「……」
ウツロが助け舟を出した。
「この仕事が終わったらレインが報酬を出してくれる。その金で学校に通えるさ。まずはお勉強からだ」
「わかった! カモメ、がんばる」
戌井が口を挟んだ。「また起業に失敗して金を溶かさなければな」
「心配無用だ。今は探偵業で安定しているんでね。どうやらボクには探偵の才能があるみたいだ」
少しの間、沈黙が訪れた。日和が唐突に言った。
「私の名前……日和って言うんですよ」
戌井は驚いた。いったい何を考えているのか。カモメちゃんは目を輝かせた。
「日和お姉ちゃん、日和お姉ちゃん。カモメね、お姉ちゃんが欲しかったの」
日和は優しく微笑んだ。「私も妹が欲しかったんですよ」
「だから日和お姉ちゃんはレインお兄ちゃんと結婚するんだよね」
「え、ええ……?」
「そしたらみんな家族になれるね」
「鳩貝ファミリーにようこそ」ウツロが嬉しそうに言った。「やはりうちの娘は天才だ!」
☂
戌井と日和は高級ホテルの最寄り駅で車を下りた。ウツロ達には猫屋敷のラボまでウォールナットの頭部を届けに行ってもらう。
「今夜は泊まっていってもよいでしょうか。もう外は暗いですし」
戌井は予想外の申し出に戸惑いを覚えた。
「……俺は眠らないから、どうしても物音を立ててしまうと思う。気が休まらないんじゃないか」
「戌井くんが見守ってくれるなら安心です。今は1人でいる方が心細くて……でも、さすがに厚かましいですよね」
「日和さんが安心できるならそれが一番だ。迷惑だの厚かましいだのは考えなくていい」
日和は何だか夢でも見ているように戌井の方をぼうっと見つめ、彼の服の袖をつかんだ。戌井は思わず手を握りたくなったが、理性で抑え込んだ。これ以上、近付きすぎてはならない気がした。戌井は気付かないふりをして早足に進み、日和の手を振り払った。
高級ホテルに戻ると、日和はシャワーを浴びた。戌井はその間に瞑想した。松鷹を倒した後、日和のことを考えるとどうも落ち着かない気分だったが、ようやく一息つけた気がする。彼女は無事だし、人狼である戌井のことも依然として受け入れてくれている。
ユイシロ・マスターを進めていると日和がナイトウェアを纏って戻ってきた。戌井は立ち上がって部屋の電気を消しに行った。
「今日は疲れただろうから早く寝るといい。電気を消すぞ」
「お願いします。サイドランプは付けますね。戌井くん、暗闇だと歩きづらいでしょう?」
「夜目は利くから問題ない」
戌井は電気を消した。暗闇の中を進んで一人掛けのソファーを見つけるとそこに身を沈める。
「……私がやったことを知ったら、母は私の首を絞めて殺してしまうかもしれません」
「こんなに巻き込むつもりはなかった。すまないな」
「いえ、後悔はしていません」
日和が布団を払って動く音がした。ベッドサイドランプが付き、ぼんやりと彼女の姿が見える。
「少しも悩まなかった、と言えば嘘になりますが。戌井くんは人を食べないからいいんですけど……猫屋敷さんみたいに人肉を食べないと生きていけない人狼には、どう向き合えばいいんだろうって」
戌井は黙って続きを待った。
「カモメちゃんに会った時に、あの子が学校に通えればいいなって思いました。カモメちゃんがあの処理施設で動物のように解体されると考えたらゾッとします。今まで私は預言者としてただ対象を占うだけでした。でもこれからは……人狼が生きやすい社会にしたい」
「鳩貝ウツロみたいなことを言うんだな」
「大それたことだというのはわかっています。でも戌井くんが人狼事件を沢山解決して、人の役に立てば受け入れられる土壌を作れるかもしれません。それにアカリちゃんが人工肉の研究に成功したら、人を襲う必要もなくなるでしょう」
戌井が沈黙しているので、日和は不安そうに布団をぎゅっと握った。
「……すみません、変なことを言いました」
「他人が変わるかどうかはわからない」戌井は言った。「俺は君も変わらないと思っていた。人狼と人間の確執は根深いから、決して解決することはできないだろうと諦めていた。でも君はこうして俺を受け入れてくれた。もしかしたら……社会を変えるのも不可能ではないかもしれないな」
「戌井くん……」
日和は嬉しそうに身を乗り出した。
「期待しすぎるのは禁物だ。変われるのは常に自分だけだから。ある程度の影響を及ぼすことはできるが、社会をコントロールできるとは思わないことだ。動機は自分本位な方がいい。人狼事件を解決するのは俺と君がそうしたいからだ。そう考えれば、社会が変わらなくても絶望することはない」
「戌井くんって、リスみたいですよね」
戌井は急に何だと言いたげに眉をひそめた。
「『シートン動物記 リスのバナーテイル』ですよ。前に貸しましたよね?」
「リスが毒キノコを克服する話だ。そこだけ覚えている」
「そこも感動しましたけど、私は冒頭が印象に残っているんです。リスが森を作るって話」
「どんな話だったかな」
「リスは後で食べるために木の実を地面に埋めるんですが、どこに埋めたか忘れちゃうんです。可愛いですよね。それで地面にはリスたちが埋めた木の実があちこちに放置されています。木の実はやがて成長して木になり、森が作られる」
「リスが森を作る、か。俺は別に森を作ってはいないが」
「比喩ですよ。リスはあくまで生きるための活動をしているだけです。ただ自分本位にやりたいようにやっただけ。でもその活動がいつの間にか他の人の役に立っているんです。しかもリスは自分がやったことを忘れている。ね? 戌井くんみたいでしょう?」
戌井は返事に困って唸り声を上げた。日和はその様子を楽しむかのようにクスクスと笑った。
「そろそろ寝るんだ」
「はーい」
日和は子供っぽい返事をするとベッドに寝転がった。そしてあくびをしながら言葉を続ける。
「私はきっとこの状況を楽しんでいます……目指すべき目標ができたから……私は……悪い預言者ですね……」
彼女はそう呟きながら眠りに落ちた。戌井は立ち上がってベッドに近付き、何気なく彼女の寝顔を覗き込んだ。安心しきった無防備な様子に戌井は安らぎと一抹の寂しさを感じた。眠っている人間がそばにいると、世界に取り残されたような気分になる。
戌井はベッドサイドランプを消してクローゼットルームに向かった。その部屋を歩き回りながらユイシロ・マスターに取り組むことにする。




