第55話 ウォールナット戦
「歯ァ食いしばれよ、レイン!」
戌井はミニバンの屋根に乗っていた。道路交通法違反だが事は一刻を争うため、車のドアを開けている暇さえない。
雉真のメッセージのおかげでまっすぐ日和のもとへ向かうことができた。そこへ辿り着いた時、ちょうど大通りに雉真の姿が見えた。その後ろからウォールナットの獣が追いつき牙を剥いている。
戌井が何か命じるまでもなく、鳩貝ウツロはアクセルを踏んだ。ためらうことなくウォールナットの横っ面にミニバンを激突させる。
戌井はその勢いで前に跳び出し、空中で身を捻りながら、リヴォルヴァーを大きな瞳に向けて発砲する。
すると同じタイミングでウォールナットの頭上から発砲した者がいた。ブラスターだ。妙に嬉しそうな表情をパネルに映している。
「おや、どーも」
こちらは帽子を被っているので誰かはわからないはずだ。戌井はウォールナットの目を、ブラスターは日和を掴んでいる腕をショットガンで撃ち抜いた。獣化した人狼は装甲のように頑丈だが、2箇所を同時に攻撃させられてはたまらない。ウォールナットは掴んでいた日和を離してしまった。
戌井は着地と同時に力強い脚力で地を蹴り、日和が地面に落ちる前に抱きとめた。首に痣ができており、意識を失っている。首を絞められたのか。
ウォールナットが戌井に向かって鉤爪を振り下ろした。ウォールナットは今や両目を負傷している。においでこちらの位置を特定しているのだ。戌井はぎりぎりでかわしたが、日和を抱えたまま避け続けるのは厳しいだろう。
「お前、地面に伏せて一斉射撃に備えろ!」
赤熊隊長がウォールナットの頭上に乗り、日本刀を獣の片目に深々と突き刺した。その痛みでウォールナットが咆哮を上げる。大きな隙ができたので戌井はできるだけ遠くに離れて地面に伏せた。
耳をつんざく銃声が絶え間なく響く。
ウォールナットは地面に倒れた。体中から血を流し、瀕死の状態にも関わらず、近くで伏せている戌井と日和に向かって這いずってくる。凄まじい生に対する執着だ。
「往生際が悪いですねえ」
ブラスターと赤熊隊長がウォールナットの頭に飛び乗って一緒に踏みつける。
「トドメは私にやらせろ」
「もちろんですとも」
赤熊隊長がブラスターからショットガンを受け取り、頭頂部に銃口を向けてぶっ放した。ウォールナットは目玉を半ば飛び出し、地面に弾むように叩きつけられた。舌をだらりと垂らし、もはやぴくりとも動かない。
「ふうぅー。これでスッキリした。今夜はぐっすり眠れそうだ」
赤熊隊長はそう言うと戌井の方を見た。
「誰だか知らないが、その子を守ってくれて助かった。感謝する」
「銃刀法違反は見逃しますー?」
ブラスターが余計なことを言う。
「私の管轄じゃない」
「ひったくり犯捕まえてたくせに」
「うるさいぞ。それより彼はいいな。STに勧誘しよう――」
その時、戌井の前にミニバンが割り込んできた。助手席の扉が開いて雉真が降りてくる。ウツロが車に乗せて一時避難してくれたのだろう。半ば放心状態で何が起きているのか理解してなさそうだった。
「彼女の後頭部を支えてくれ。地面は固いから」
戌井が喋ると雉真は目を見開いた。訝りながらも日和の頭を支えてくれる。
「お前、戌井か……?」
戌井が決まり悪そうに帽子の鍔をつまむと、雉真は軽く首を振った。
「……いや、ありがとう。何も聞かねえよ」
「きゃあっ」
ウツロが女の子みたいな悲鳴を上げた。
「ブラスターがこっちを覗き込んでるうぅ。早く乗ってくれ!」
戌井は立ち上がって助手席に乗り込んだ。扉を閉めるとウツロはアクセルを踏んで、猛スピードで走り去った。
☂
高級ホテルに戻った戌井は、猫屋敷に電話して松鷹が死んだことを話した。
「それじゃあ、ひよりんは無事なんだね。良かったあ……」
「製作は順調か?」
「余裕で間に合うよ。ねえ、松鷹は獣化した状態で死んだの?」
「ああ」
「それならその死体を手に入れられないかな? ひよりんに頼んでさ。あたし、いいことを思いついちゃった」
「……まさかアレを作るつもりか?」
「因果応報だね。静江さんにも相談してみるけど」
「日和さんには連絡しておく。もし実現可能なら、そのやり方で行こう」
「うん。明日、いよいよ決着だね。あたしも一歩間違えれば松鷹みたいになってた。獅子丸に脅されていたとはいえ、最低なことをしてきたと思う……動物園にも迷惑かけちゃったし」
「これから償っていけばいい。まずは元凶を倒す」
「アイツは自分の欲望にしか興味がない。人狼の剥製を収集するというただそれだけの欲望で、大勢の人間を貶めてきた。野放しにしたらワイルドショットの被害者が増えるばかりよ」
猫屋敷の声色からは獅子丸慎吾への怒りが滲み出ている。
「アイツを倒さない限り、真の自由は手に入らない」
「改めて言うまでもないことだ」
「ごめん、本当はちょっと緊張してるにゃ。君が凄い人だってことはわかるけど、相手は人海戦術が得意な金持ち実業家だからね」
「組織の相手なら慣れている。一番トップに話をつければ終わりだ」
「行うは難し、だよ」
「たとえ難しくても、計画通りに実行するだけだ。準備ができたら連絡してくれ。何か手伝ってほしいことがあれば遠慮なく言え」
「あはは。わかったにゃ、リーダー。それじゃあ、松鷹の死体については頼んだよ~。あ、必要なのは頭部だけだから」
「わかった」
通話を終えると、戌井は一人掛けのソファーに腰掛けた。日和は意識を失っていたから、2、3時間くらい間をあけて電話した方がいいだろう。
20分瞑想しようとしたがどうにも気が散ってしまい、上手くいかなかった。とりあえずシャワーを浴びる。その後、勉強しようとしてみるがいまいち身が入らない。
戌井はいつも自分の感情をコントロールしてきた。どんな状況でも平静を保ち、タスクを切り分けて、その時やるべきことに集中していたはずだ。なのに日和のことを考えると心が落ち着かなくなる。
上の空になっている間に時間が過ぎた。チャットアプリを開いてみると日和へのメッセージには既読が付いている。返事は来ていなかった。既読が付いているのだから無事目を覚ましたことは間違いない。それでひとまず満足したが、返事がないのはなぜだろうかと考えた。
彼女は人狼に襲われたばかりだ。人狼に対する恐怖を改めて呼び起こされ、戌井に会うのも怖くなってしまったのかもしれない。
戌井は溜息を吐いた。日和についてあれこれ推測を巡らせるのはよせ。何か得体のしれない感情に理性が狂わされるようなことはあってはならない。日和は無事だ。重要なのはそれだけだ。
運動なら無心でできそうだった。戌井は逆立ちになって片手で腕立て伏せをした。200回目に達した時、部屋の扉がノックされた。
「私です」日和の声だった。首を絞められた時に喉を痛めたのか、やや声が掠れている。
戌井はタオルで汗を拭き、シャツを着てから扉を開けた。帽子を被った日和が中に入ってくる。首には包帯が巻かれていて痛々しかった。彼女の首は、戌井の手の平に余裕で収まり、軽く力を込めるだけで折れてしまいそうだ。戌井は触れるか触れないかの位置まで手を伸ばした。
「首の具合はどうだ?」
「平気です。少し喋りにくいですが、声は聞き取れますか?」
「問題ない。家で休んでいればよかったのに」
「直接お礼を言いたかったんです。それに1人で家にいるのは何だか怖くて……お邪魔でしたか?」
「いいや。礼と言ったが……あれは俺のミスだ。松鷹が君を狙う可能性くらい想定しておくべきだった」
「それを言うなら私の方です。戌井くんは他に考えることが山ほどあって、記憶力にハンデもあるのに……」
日和は息苦しそうに首をさすった。
「紅茶を入れよう。少しずつ話してくれ」
「ありがとうございます」
戌井は温かい紅茶を入れた。それを一口飲むと、日和は言った。
「私、本当は松鷹の標的になるかもって不安がよぎりはしたんです。でも松鷹の怪我が治る前に全て決着がつくだろうって、楽観的に考えてしまいました」
「以前なら、少しの不安も赤熊隊長に話せていたんじゃないか」
日和の瞳に宿る光が一瞬だけ微かに揺れた。
「そうかもしれません……赤熊隊長は本当のお姉さんみたいな人です。しかし嘘を吐いている手前、気軽には相談できなくなりました」
日和は声が掠れているのに慌てて付け足した。
「でも戌井くんのせいではありませんよ」
「それはどうだろうな」
「次からはどんな些細なことも相談するようにします。これで反省会は終わりです」
日和はにこりと微笑んだ。冗談を口にする時の彼女の笑顔には見ているだけで心が和む愛らしさがあった。
「松鷹に襲われた時……雉真くんが殺されてしまうと考えたら、恐ろしくてたまりませんでした。また私のせいで大切な人を失うんだって」
「あいつは無事だ」
「ふふ。雉真くんは、戌井くんのそっくりさんが助けてくれたって言ってましたよ」
「俺はぎりぎり間に合っただけだ。先にSTが到着していなかったら危なかっただろうな」
「あれはブラスターさんのおかげらしいですよ。どうして私が危険だとわかったのかは謎ですが……」
不思議なことにブラスターなら駆けつけてきてもおかしくない、と戌井は考えていた。彼の能力を評価してというより、もっと直感的な深いレベルで信頼しているような感じだ。理屈では説明できないその感覚に困惑し、戌井は意識的にその考えを頭から追い出した。
「松鷹の遺体についてだが」
「それなら手配しておきました。獣化した人狼は通常すぐに解体されて火葬されますが、頭部だけ引き取ると連絡してあります。今夜、預言者サニーとして受け取りに行くので、車があると良いのですが……」
車なら鳩貝ウツロに頼めば運転してくれるだろうが、日和が預言者だと知られるのは面倒くさい。車だけ借りて戌井が運転することもできる。その場合は偽の運転免許証が必要だ。ウツロなら小一時間で調達できるだろう。しかし大きな犯罪の前に小さな犯罪を犯すのは得策ではない。違反する法律は最小限にしなければならない。
ウォールナットの頭部を受け取る時だけガスマスクを被ればいいのだ。ウツロにはその姿を見せなければ問題ないだろう。
「鳩貝ウツロに送ってもらおう。預言者だということは伏せてな。あらかじめ言っておくが、少々癖の強い男だから覚悟しておいてくれ」




