第54話 日和の危機
何か重要なことを忘れている気がする、と戌井は思った。
準備は着々と進んでいる。煙幕の材料も納期を待たずにある程度の量を準備でき次第、鳩貝ウツロが車で猫屋敷のラボに届けている。獅子丸静江は獣影館の内部の図面とあらゆる箇所を撮影した写真を提供してくれた。猫屋敷はその広さから展示室を煙で充満させるのに必要な煙幕の量を見積もり、製作日数に問題はないと請け合った。
戌井の方も獣影館の周辺を念入りに下調べし、逃走ルートを確保した。明日には獅子丸慎吾と決着を付けられるだろう。そしてその翌日には中間テストがある。勉強計画も含めて段取りは全て決まっており、あとは淡々と実行するのみだった。
何かを見落としているような気がするのはいつものことだ。戌井は記憶力が低下しているのでどうしても至らない部分はでてくる。鰐淵恭也がそばにいた時には、彼がその欠け落ちたものを拾い上げて穴がないようにしてくれた。上手く行っているように思えている時こそ、今一度全体を振り返って見直せ、とは彼の言葉だ。
戌井は清水野自然公園を散歩しながらこれまでの経緯を振り返った。清水野動物園の事件から今日に至るまで、自分のメモを見ながら一つ一つ思い出して検討していく。過去を振り返る際には「後ろ向きに歩く」のも役立つ、と鰐淵恭也から教わった。時間と空間の認識が関連しているのかもしれない。
戌井は人の邪魔にならない場所で後ろ向きに歩いていた。不知火池を取り囲む柵に背中がぶつかり、危うく池に落ちかける。ふわふわの雛を連れたカイツブリとびっくりして目があった時にようやく重要なことを思い出した。
ウォールナットの獣――松鷹はどういう行動に出るのか。それを検討するのを忘れていた。松鷹はここ数日、怪我を癒すために大人しくしていたはずだ。その間に獅子丸慎吾を始末できれば、松鷹が戌井にこだわる理由はなくなる。痛い目に遭わされたという恨みを除いて。だがその恨みだけで付け狙ってくるほど愚かではあるまい。
松鷹は獅子丸慎吾から白狼を捕まえないと殺すと脅されている。自分の命のためにあっさりと黒鶴ナギを切り捨てるような男だ。獅子丸慎吾を憎んではいても、まず自分の安全を確保するために全力を尽くすだろう。
松鷹が怪我から立ち直り、動けるようになったとしたら。まず戌井の居場所を見つけ出そうと情報を掻き集める。ところがなかなか見つからない。やがて松鷹は思い出す――戌井の部屋のクローゼットに隠れていた少女のことを。しかも拳銃を持っていたことから考えて預言者だ。なぜ人狼と預言者が同じ部屋にいるのか全く理解できないだろうが、あの少女と戌井は特別な関係にあると思うはずだ。
戌井が結城高校に通っていることは知っているので、あの少女もきっとそうだと考える。校門を見張ってあの少女が出てくるのを待てば良い。
日和は安全だと思っていたが全くそんなことはない。戌井は駅に向かって走り出しながら鳩貝ウツロに電話をかけた。
「車を出してくれ。学校の最寄り駅で俺を拾ってほしい」
「え? 緊急事態か?」
「そうだ。ハジキは持っているか?」
「ロシアン・ルーレットに使ったやつなら。カモメちゃんが宝物にしてる」
「弾丸は?」
「1発だけ残ってたから保管しているが……必要なのか?」
「それも持ってきてくれ」
★★★
雉真怜は授業が終わった後、机に自分のノートを広げて写真を撮った。試験範囲はテストの前日までだ。チャットアプリで戌井にノートの写真を送る。先週も同じように送ったから写真のみでメッセージはなしだ。
戌井の身に何が起きているのかは知らない。土日にメッセージで話した時には、
戌井:【命を狙われていて学校に行けない】
雉真:【え……? だい、じょう……ぶ?】
戌井:【中間テストまでには戻る】
雉真:【よくわかんねえけど、お前なら心配いらないよな。ノートの写真だけ送ってやるよ】
戌井:【ありがとう】
戌井は謎に包まれていて、時々怖いことをするが、いい奴だということは知っている。それにとんでもなく強い。物理的にも、精神的にも。命を狙われながら勉強するなんて、どんなメンタルしているんだ?
雉真は他人の事情に踏み込むタイプではないので、戌井から話し出さない限り、この件についても詮索するつもりはない。話してくれたら真剣に聞くが、おそらく聞いても雉真がどうこうできるレベルではないだろう。しかし戌井のいない学校は味気ないものだ。
学校から最寄り駅まで近道をすると、やや人気のない道を通らねばならない。その道に入りかけた時、猿渡日和が片目に包帯を巻いた、マスクをした男に詰め寄られるところを見てしまった。雉真は息を呑んだ。姿を見られる前に慌てて曲がり角に隠れる。
こういう時、戌井がいれば助けられるのに。雉真はまず戌井にSOSのメッセージを送り、それから警察に通報した。電話が終わると戌井からメッセージが来ていた。
戌井:【そいつは人狼だ。日和さんが連れ去られるとまずい。俺は既にそっちに向かっている。もうすぐ着くはずだ】
間に合うのか?
日和のかすかな悲鳴が聞こえた。雉真はそれを聞くとほとんど反射的に路地に飛び込んだ。相手は人狼だ。勝てるわけがない。それどころか喰われて、変身時間を伸ばすのに役立ってしまうかもしれない。死ぬより足手まといになることの方がずっと怖かった。普通なら恐怖で足が竦んでしまうが、戌井が来ると考えたら少しだけ勇気が湧いてくる。
日和は男に首を掴まれ、路地の壁に押し付けられていた。助けを呼ぼうにもあれでは声が出せない。気絶するまで首を絞めるつもりなのだろう。
「やめろ!」
雉真は叫びながら、持っていたカバンを男に向かって投げつけた。それと同時に体当たりをする。だが男は軽く腕を振って、無骨な手の甲で雉真の顔を殴りつけた。雉真は地面に頬を擦り付けた。焼け付くような痛み。メガネが外れてしまい、涙で視界がぼんやりと霞む。
「き、じま……くん、にげて」
日和が首を絞められながら言う。その言葉を最後に意識を失ってしまった。
逃げるわけにはいかない。時間を稼ぐのだ。ここで逃げたら一生後悔する。後悔は、雉真が何よりも恐れている感情だ。
「もうすぐ戌井が来るぞ。アイツが来たら……お、お前なんかすぐぶっ倒しちまうんだからな!」
「……ほう。あのガキの友達か」
男がマスクを外してにやりと笑った。
「この女は生かしておく価値があるが、お前は違う。ちょうど腹が減って仕方なくてなあ~。RJもないし、怪我を治すなら人を喰うのが一番手っ取り早い」
男の体がみるみるうちに隆起していく。ウォールナット色の毛がふっさりと生え、大きな牙がすぐ目の前に現れる。生暖かい涎がぼたぼたと制服にかかった。雉真は恐怖で動けなくなる。
大きな口がガバリと開いて目の前が真っ暗になった時、銃声が響いた。
「STだ! 今のうちに逃げろ!」
路地の反対側から赤いポニーテールの女が叫ぶ。彼女のことはテレビで見たことがある。赤熊隊長だ。背後から銃弾を撃ち込まれたウォールナットは一瞬怯み、雉真はハッとして足をばたつかせながら駆け出した。
ウォールナットは振り返って、手に掴んでいる日和を見せつけた。赤熊隊長は息を呑み、即座に射撃をやめさせる。ウォールナットは不気味な笑い声を上げ、逃げていく雉真をぎろりと睨んだ。
「逃がすと思ったか?」
「ひっ……」
雉真は大通りに飛び出したが、ウォールナットの獣が大きく足を踏み出してぐんと近付いてくるので、その迫力に驚いて躓いてしまった。ウォールナットは顔を斜めに傾けながら首を伸ばし、雉真を喰おうとする。頼みのSTは日和が人質になっているため射撃できない。
「戌井――っ!」
思わず名前を呼んだ時、横からミニバンが突っ込んできた。




