第50話 鳩貝ウツロ
殺し屋時代も記憶力の低下には悩まされた。どれも犯罪の証拠になるような情報ばかりだから、メモに残しておくのは危険過ぎる。自分の頭の中だけにしまっておくのが一番良いが、戌井には無理だ。そこで彼は絵を描くことにした。
お絵描き用のタブレットは家にある。瓦礫の山の中に埋まっているから使える状態なのか怪しいし、取りに戻るのはリスクが大きい。しかしイラストデータはクラウド上に保存されているのでスマホから見ることも可能だ。
戌井たちは一旦高級ホテルに戻った。窓際のデイベッドに座ってクラウド上にある大量のイラストを眺める。
忘れたことを思い出す時にはカテゴリークラスターリコールというテクニックが有効だ。記憶をカテゴリー別に分けて思い出す方法で、記憶力を高める効果がある。
クラウド上のイラスト達もカテゴリー別に整理されており、『鳩』と名付けられたフォルダにヒントがありそうだった。『鳩』は情報屋を意味する隠語だ。欲しいのはモノだが、情報だけを専門にして売るという人間はほぼいない。この『鳩』フォルダに必要なものを調達してくれる専門家と、それに繋がる手がかりが残されているはずだ。
「一見すると、風景画のスケッチに見えますね。どのイラストにも鳩が描かれています」
日和が隣からスマホを覗き込んでくる。
「ダメだ。何も思い出せない」
「記憶のことになると諦めが早いですね。こういうのは大体、法則性があるはずです。ね、アカリちゃん」
「うーーーん」
猫屋敷も反対側からスマホを覗き込んで唸った。
「数字なら得意なんだけどなあ」
「新聞紙とか看板に特定の企業名が書かれています。検索してみたら何かわかるかも」
日和は素早く検索した。
「業種は色々ありますが、創業者はみんな同じ人です。鳩貝ウツロ……起業しては倒産を繰り返してますよ、この方」
戌井の脳裏に鳩貝ウツロの言葉が蘇った。
『ボクは人狼が生きやすい社会を作るぞ、娘のために!』
戌井は首を振った。「会うのはよした方がいい気がしてきた」
「倒産させた企業数が多すぎます。大丈夫なんでしょうか……」
「でもイラストに残してるってことは、使える人間だったんじゃないの? 今の連絡先はわかる?」
「今は探偵をやっているみたいです。……電話してみますか?」
記憶の中に残っている鳩貝ウツロは大言壮語も甚だしい人物だったので、あまり気乗りはしなかった。が、やれるだけやってみよう。
戌井は鳩貝探偵事務所に電話をかけた。
「娘を返せ! このマフィア野郎!」
戌井は無言で電話を切った。別の方法を考えようかと思ったが、その時やっと鳩貝ウツロの娘のことを思い出した。カモメちゃんだ。戌井が11歳の頃、鳩貝ウツロが人狼を崇拝するカルト宗教を布教しようとして捕まったので、出所するまでカモメちゃんの面倒を見ることになった。1年くらい一緒に暮らしたのにすっかり忘れるとは。今は9歳くらいか。
戌井は再び電話をかけた。
「俺はレインだ」
レインというのは裏社会での通り名だった。戌井時雨という名前を手に入れるまで、彼には名前がなく、名乗りもしなかった。黒いレインコートを着ていることが多かったので、自然とレインと呼ばれるようになったのだ。
「レイン! 引退したと聞いたぞ。仲介から聞いて連絡してきたのか?」
「いや別件だ。カモメちゃんがマフィアに攫われたのか?」
「ああ、助けがいる。助けてくれるか? 頼む、助けてくれたら何でもするから!」
「落ち着け。誘拐された理由は何だ?」
「闇金業者のボスと寝て」
戌井は渋い顔をする。鳩貝ウツロは老若男女問わず誰とでも懇ろになれるのだ。
「利子無しで金を借りたんだ。その金はちゃんと返したさ。それでボスとの関係は切ろうと思ったんだが、あいつはボクが色仕掛けで利子を踏み倒したと言うんだ。そんなのお互い合意の上だと思ってた。元々愛のない関係だったはずなのに、何を言ってるんだ?」
「理解できない」
「ボクもだ。その時は電話越しだったからそのまま切ったんだけど。よくわからないがボスは大いに怒って、カモメちゃんを誘拐して、身代金を持って来いと要求してきた。利子があった場合の返済金額だとさ。そんな大金払えるなら金なんか借りるかよ、バカ」
「受け渡し場所はどこだ? こっちは電車で行くから最寄り駅で拾ってくれ」
戌井は最寄り駅の名前をメモして立ち上がった。
「ひと暴れしないといけなくなった。日和さんは帰ってくれ。君は動けるか、猫屋敷さん?」
「マフィア相手か~。どちらかと言うと頭脳派なんだけど、いざとなれば獣化すればいいにゃ」
日和は自分にできることがないかを探すように少しオロオロして、戌井と猫屋敷の手をそれぞれ取った。
「お二人ともお気をつけて」
「預言者様にそんなこと言われるなんて。人狼冥利に尽きるにゃ」
「日和さんのおかげで鳩貝のことを思い出せた。ありがとう」
戌井は日和の手をぎゅっと握り返した。柔らかくて温かい。どういうわけか、しばらく離したくないような気がしてくる。獅子丸の問題を片付け、普通の高校生活を取り戻したら彼女とゆっくり過ごすことに思いを馳せた。
「戌井くん……?」
戌井は手を離した。今は両手を空にして、何が起こっても危険に対処できるようにしておかねば。
「駅までは一緒に行こう」
☂
鳩貝ウツロは少女のような顔立ちをしたボブカットの男だ。何歳なのかはわからないが少年にしか見えないので運転席に座っていると非常に違和感がある。
戌井と猫屋敷がミニバンの後部座席に乗り込むと、ウツロは言った。
「ちょい待ち。そっちのお嬢さんは誰だ?」
「助っ人だ。闇金業者について話せ」
「リンって男が率いる4〜5人の小規模グループだ。『瑞鳳会』の傘下にあって、末端も末端だが手を出せば組織ぐるみで報復される」
「『瑞鳳会』にお前のことは知られているのか?」
「まさか。数多いるカモの1人さ」
「ならそのグループを全滅させよう」
「いや、相手をするのはリン1人で済むと思う。リンは人狼なんだが、ボクにだけそのことを明かしてくれた。『瑞鳳会』や他の仲間に正体を知られたら殺されてしまうから、この件は1人で片を付けたいだろう」
猫屋敷が言った。「人狼だってことを明かすくらいの仲だったの?」
「前に人狼崇拝の教祖やったことあるから、すぐに心を開いてくれたよ」
「え?」
猫屋敷は目を見開いて戌井に耳打ちした。
「大丈夫かにゃこの人……」
「娘が人狼だから暴走気味なんだ」
「じゃあ鳩貝さんも人狼?」
人狼病は遺伝するので、娘が人狼なら親も人狼である可能性が高い。ウツロは首を振った。
「いや、ボクは人間だ。カモメちゃんは養子でね。悪い奴らの見世物にされそうだったから助けたんだよ。レインと一緒に」
「そんなことしたか?」
「相変わらず忘れっぽいんだな」
「どうして人狼を助けようと思ったの? ましてや養子にするなんて……」
「独りぼっちで怯えてたから。人狼かどうかなんて関係ないよ」
「そんなふうに言ってくれたら、あたしも惚れちゃうかも。そのリンって人も鳩貝さんに本気だったんじゃ?」
「ハッ。ボクを好きになる奴なんているわけないだろ」
ウツロの電話が鳴った。リンからだろう。スピーカーモードにして応答する。
「いつまで待たせる気だ? ショットガンを突きつけるのは疲れる。そろそろ引き金を引いてしまいそうだ」
「ま、待て! 腎臓でもなんでもくれてやるから、娘を傷付けるのはやめろ。今向かっているところだ」
「5分。これ以上は待てない」
電話が切れた。ウツロはミニバンを駐車場に停めた。路地裏にある寂れたビルを指差す。
「あそこに取り壊し予定のキャバクラがある。リンとカモメちゃんはあの中にいる。リンはカモメちゃんが獣化しないようにショットガンを突きつけている。妙な真似をすればすぐにぶっ放すだろう」
「裏口や非常口は当然、何らかの対策を施しているだろうな」戌井が言った。「監視カメラや警報装置とか」
「正面入口の映像をチェックしているはずだ。早いとこ入らないと……」
戌井はキャバクラのビルの側面に小窓があるのを見つける。おそらくはトイレの窓だろう。建物と建物の間は狭く、換気扇や壁の出っ張りを利用してよじ登れそうだった。
「あそこの小窓に入れるか、猫屋敷さん」
「うん。任せといて」
「俺達でリンの気を引く。気配を殺して奴に近付けるか?」
「あたしもプロよ。獣化したら猫みたいに静かに動ける。人狼を捕まえて剥製にするのが仕事だったから、隠密は得意なの」
猫屋敷は軽やかに壁を登り、小窓を蹴破って中へ入っていった。彼女のことはまだよく知らないが、頼りになりそうだ。戌井は正面入口に向かった。
「リンは1人で来いと言ってたぞ」
「俺を恋人だと言え。腎臓を2つ献上するから、それで身代金を支払うと交渉するんだ」
「レインが恋人か……最高だ! これが終わったらデート――」
「黙れ」




