第5話 約束と信念
預言者による占いの条件は2つ。
1つ、対象を目視したことがある。
2つ、人狼を占えるのは満月の夜ごとに一度だけ。
階段の踊り場は上にも下にも進める中間地点だったが、戌井にはどちらにも逃げ場がないように感じられる。日和は階段の縁に立っていた。突き飛ばせば落ちてしまいそうな位置だ。
戌井は少し間をおいて言った。
「こんなの馬鹿げている。能力を無駄にするだけだ」
「他に優先すべき占い先があれば変更します。実際、先月は他の人狼を占いましたし。でも今のところ、人狼候補は戌井くんしかいません」
「本当に俺を人狼だと思っているなら、占い宣言なんてしない。何を考えているんだ?」
「に……逃げる猶予を与えます。助けていただいた恩をまだ返していませんから。早めに逃げた方がいいですよ。占い結果が出るまで私達は手を出せませんから」
「俺が逃げて誰かを喰ったらどうするんだ?」
「戌井くんは……そんなことしない気がします」
「論理が破綻している」
「あ、あなただって人狼なのに預言者を助けました。破綻しているのはお互い様です」
「俺は人狼じゃない」
これ以上押し問答を続けても埒が明かない。
戌井は日和に向かって一歩踏み出した。彼は背が高く、鋭い視線もあいまって威圧感がある。日和は警戒心を滲ませ、スカートを少しまくり上げた。太もものあたりに小型の拳銃を隠し持っているのだろう。戌井が構わず歩を進めるので日和はその勢いに気圧されて後退り、階段から落ちそうになる。戌井は手を伸ばして彼女の手首を掴み、引っ張り上げてやった。
その時、一瞬だけ彼女と目が合った。瞳が潤んでいるせいか光があちこちに揺れて複雑な色を湛えていた。戌井の行動が理解できずに混乱しているようだ。もし助けなければ彼女は転落して都合よく口を閉ざしてくれたかもしれない。だが戌井はそれを望んではいなかった。彼女を助けたことを後悔などしていなかった。それがはっきりと彼にもわかった。
戌井は日和から目を背けて彼女の横を通り過ぎ、階段を下りていった。
☂
戌井は学校を出て散歩することにした。散歩はポジティブな気分を高め、記憶力を含む脳機能の向上にも効果がある。
歩道の植え込みから伸びた若葉が風に揺れ、その下でスズメがせわしなく出入りしていた。彼らは東京から姿を消しつつある。スズメは瓦屋根の木造住宅を好むのに、東京ではそういう家がめっきり少なくなったからだろう。戌井は足を止めてスズメが植え込みの中で雑草の種を突いたりするのを眺めた。いつかスズメも東京から絶滅してしまうのだろうか。
戌井は再び歩き出した。ただ周りの景色に目を向けることで頭の中をリセットする。50分ほど歩き続けると、彼は近くの公園のベンチに座って一休みした。
目を瞑ると、戌井は入院していた頃のことを思い出した。
彼は気分がマシな時に、病室の窓から外を見ていた。どんな景色だったかは覚えていない。彼は外に出たことがほとんどなく、幼稚園に行ったこともなく、同じ年頃の子供達が小学校という場所に通っていることだけは知っていた。
母が見舞いに来ると、彼はよくこう言っていた――『ぼくもいつか病気が治って、みんなみたいに学校へ行けるのかな?』
記憶に残っているということは、同じことを何度も口にしていたということだ。母には悪いことをした。息子の願いは叶わないと知っていただろうから。戌井が学校生活にこだわるのは、それが彼自身の夢だったということもあるが、今となってはそれが死んだ母の願いだからだ。普通の高校生として生きることで、彼なりに親孝行をしているつもりだった。
人狼は一種の病だ。人狼病を発症するとその時かかっていた病気は治るため、幸か不幸か、人狼になったおかげで生き延びたとも言える。そして今、人狼になったせいで死刑宣告を待つ身となっている。
自分は何のために生き延びたのか?
殺し屋に戻り、もう一度新しい身分を手に入れてやり直すべきなのか?
戌井はさらに考えた。そしてある人間のことを思い出した。
彼には鰐淵恭也という恩人がいた。その男は何も知らない戌井に裏社会での生き方を一から叩き込み、仕事を斡旋し、書類を偽造する業者を見つけて話をつけてくれた。戌井が新しい身分を得た後には、きっぱりと縁を切ってくれ、二度と会わないと送り出してくれた。いや、正確には何と言っていたんだっけ…………そう、こうだ。
『お前とは二度と会わない。次にそのツラ見かけたら責任持って殺してやるよ。クソガキ』
およそ命の恩人の言葉とは思えない。だが言いたいことはわかる。
鰐淵恭也と再会する時――それは戌井が裏社会に戻った時だ。おそらく彼なりに人狼を育てることに葛藤があったのだろう。戌井が簡単に闇の世界へ戻るような腑抜けなら、今後も何か不都合なことがあるたびに言い訳をして何の苦悩もなく殺し屋へ戻るようになる。殺しのスキルを持った厄介な人狼に自制心がないとなれば、いつか暴走して手がつけられなくなるだろう。だから鰐淵恭也は戌井に釘を刺したのだ。それが二度と会わないという約束の意味だ。2人が再び出会った時には殺し合いになる。
殺し屋に戻るということは、鰐淵恭也が自分に与えてくれたものを踏みにじる行為だ。
戌井は公園のベンチから立ち上がった。彼には守るべき約束と信念がある。理想とする生き方がある。それを全部手放してどうしようというのか? 死んでしまった方がマシだ。
13日後。それが自分の命日になる。
☂
戌井は再び学校に戻り、漫画研究部の活動場所である美術室についた。
夕陽が斜めに差し込む室内では、ノミの跡が刻まれた作業机が整然と並び、絵の具と木材の混ざり合った独特のにおいが漂っていた。美術室は静寂に包まれ、奥の窓際で一人だけタブレットにペンを走らせる女子生徒の姿が、戌井の持つ冊子の表紙そのままに切り取られていた。
「あらあら。すごい髪色ね。新入生かしら?」
カーディガンを着た女子生徒が顔を上げた。青いリボンで髪をゆるくハーフアップにした、羊のように柔らかな雰囲気を持つ女の子だった。
「戌井時雨と申します。漫研部に入部希望でしたが……今日は出直した方が良さそうですね」
彼が散歩を始めると帰り道を考えずにあてもなくさまよい歩いてしまう。知らない場所から地図アプリを頼りに学校へ戻る頃には部活動が終わる時間になっていた。
「せっかく来たんだし、少しくらい絵を描いていったらどう? 先生が見回りに来るまでまだ時間あるし。ほら、こっちに座って」
戌井は勧められるままに女子生徒の向かいの席に座った。彼女はタブレット台をどかして両手に顎を乗せ、戌井の顔をまじまじと見つめる。
「その大きな隈はどうしたの? ちゃんと眠れてる?」
「これは生まれつきです。体調とは関係ありません」
「そんな生まれつきの痣みたいに隈ってできるものなのね。隈がなければ……」
女子生徒は人差し指を横にかざして身を引き、戌井の隈を隠した。
「うん、けっこう格好いいかも。隈があると悪い印象を与えちゃうから、隠した方がいいと思うけどなあ。それだけ大きいとコンシーラーを塗るのも一苦労だけど」
「……名前をうかがっても?」
「青山羊葵よ。漫研部の部長。よろしくね」
戌井はようやくぴんときた。彼女とは去年の文化祭で会ったが、顔を覚えていなかったのだ。
「去年の文化祭で部長の絵を見ました」
戌井は手に持っていた漫画研究部の冊子を机に置いた。
「この部長の絵に感動して高校を決めたんです」
「ああ、これねえ。みんなにはつまらない絵だって言われちゃった。いつもはもっとキャッチーな絵を描くから」
「俺はこの絵がいいです。サインいただいてもいいですか? この冊子に。裏面がいいです」
「え? ……ふふっ。いいわ、サインしてあげる」
「ありがとうございます」
戌井は目を輝かせながら、直筆サイン入りの冊子をクリアファイルに挟んで、丁寧にカバンにしまった。
「あなたはどんな絵を描くの?」
「描きかけのもので申し訳ないんですが」
戌井はお絵かき用のタブレットを取り出した。イラスト制作アプリを起動して、色ラフ段階の絵を見せる。
「これは……教室の窓から校門を見下ろした景色かしら? 何の変哲もない朝の登校風景だけど、光の表現が綺麗で温かい気持ちになる。私、この学校行ってみたいわ」
「もう行ってます」
「冗談だってば。でもお世辞抜きで上手だと思う」
「時間をかけただけです。ラフまではよくても、細かい塗りに入ると粗が出ます。絵の密度もまだまだですし……何があったか思い出せなくて」
「思い出せない?」
「忘れっぽいもので」
「ふうん…………」
青山羊葵は興味深げに少しだけ身を乗り出した。
「それって――」
彼女が何かを言いかけた時、美術室の扉が開いてどこかの先生が顔を出した。
「下校時間ですよー。帰りなさいー」
「はーい」
2人はタブレットをカバンにしまって立ち上がった。戌井は青山羊葵に向かって言った。
「活動のある日は部長に添削をお願いしてもよいですか?」
「私なんかでよければもちろんよー。うちは週1の活動だし、ゆるいところだから自分のペースで参加してね」
「つまり……ゆるゆるということですね」
「え? まあそうね。関係者以外も出入り自由だし。ゆるゆるとか言うのね、戌井くん」
青山羊葵は一度自分の教室に戻るため、2人は階段の辺りで別れた。
戌井は忘れないうちにチャットアプリを起動し、雉真にメッセージを送った。
戌井【ゆるゆるだった】
雉真【ゆるゆるかあ】