第49話 麻薬ディーラーの妻
獅子丸静江は物憂げにテーブルの上にあるタッチパネル式の予約リモコンを見つめていたが、戌井と日和が入ってくると顔を上げた。
事前にネットで調べた情報では40代ということだったが、静江はそれよりもずっと若く見えた。ほうれい線は深く刻まれているのにどこかあどけなさがあり、瞳は水面に光が揺らめくように時に少女のような輝きを放ち、かと思えば測り知れない深さを湛えている。
静江は驚くほど落ち着いた様子で立ち上がり、戌井と日和に対して上品に会釈をした。
「獅子丸静江です。どうぞよろしく。戌井時雨くん、猿渡日和さん」
夫にドラッグを盛られて娘を失ったにしては暗い雰囲気は感じず、声には力強い響きがある。その不気味な冷静さは、燃え尽きた灰の下の熾火のように見る者の視線を無意識に引き寄せていた。
戌井と日和はよろしくお願いします、と言って猫屋敷の隣に座った。
静江は戌井の方をじっと見つめている。
「動物園で会ったわね。あなたが松鷹を止めなければ、今頃すべて終わっていたわ」
「あの状況では無差別テロにしか見えませんでしたから」日和が反駁した。「戌井くんは悪くありません」
「それにトラを止めたでしょう? あのまま夫を食べてくれたら良かったのに」
「そしたらトラが殺処分になる」戌井が言った。
「確かに……そこまでは考えてなかったわ」
静江は頬に手を当てておっとりと言った。
「あんなに罪深い人を食べて、トラが罰を受けるなんて間違っているわね」
「過ぎたことを話しても仕方がない。獅子丸慎吾は俺達がこれから始末する。それについて話したい」
静江は眉をひそめた。
「あなた達が?」
「俺は松鷹を2度退けた」
「あたしを助けるためにあの赤熊隊長とも戦ったわ。全くの無傷でね」猫屋敷が付け加えた。「戌井くんならできると思う」
静江は戌井を覗き込むように見た。
「あなた何者なの?」
「俺が何者かなんてどうでもいい。重要なのは今置かれている状況だ。獅子丸の部下が血眼になって俺を探しているし、家にも帰れないし、学校にも行けない。俺の望みは静かに暮らすことだ。そのために獅子丸が邪魔なら消してやってもいい」
「……どうやって?」
「方法はいくつかあるが、一番簡単なのはあんたの家に行って夫の息の根を止めることだ。報酬としていくらか貰おう」
「家は大勢の部下が見張っているわ。殺すことはできても、間違いなく通報されるから逃亡するのは難しいでしょうね。だからこそあの人を動物園に誘ったの。あの時も部下はいたけど、家より数は少ないしトンネルという特殊な状況下だったから、スタングレネードと煙幕で無力化できた」
「家がどれほど見張られていようと必ず隙はある。どんな場合でも、いつも何かしらの突破口はあるものだ。とはいえ観察と準備で1ヶ月くらいはかかるがな……それだと中間テストに間に合わない」
静江は戌井が喋るたびに眉間にシワを寄せていたが、今度は顔全体をしかめた。
「中間テストが何だというの?」
「学生にとっては人生に関わることだ」
「私は成績が良かったけど、人生はより良くならなかった」
「大切なのは勉強の習慣づくりを通じて自己制御を学ぶことだ。成績を上げる過程で身につく能力や習慣がその後の人生の役に立つ。運が悪くてどん底に落ちることはあるが……俺みたいにな。でも過去に身に付けた力で、自分なら対処できると思える」
「あなたいくつなの? 高校生とは思えない」
「……」
戌井はバッテリーの切れたロボットのようにいきなりソファーに深く身を沈め、目をつむった。
「どうしたの?」
「彼は人肉を食べないせいで集中力と記憶力が落ちているの」猫屋敷が言った。「昨日の疲れが取れてないんだと思う。少し休ませてあげて」
「人狼なのに人を食べないの? なぜ?」
「さっきも言ってましたが、戌井くんの望みは静かに暮らすことですから」日和が言った。「そのために自分を厳しく制御しているんです」
すると静江は日和の方に視線を向けた。
「あなたも人狼?」
「いいえ、私は人間です。お二人の友達で、ただ力になりたくて……」
「そう……彼は誠実な人なのね。だからあなたも人間でありながら彼に協力している」
静江はタッチパネル式の予約リモコンを見つめた。
「私も薬の後遺症とストレスで時々記憶がなくなるの。だから彼の辛さがわかる。カラオケに行くのは好きだったけど……今じゃ流行りの歌のメロディーも歌詞も覚えられない」
それからゆっくりと戌井に視線を戻す。
「最初に見た時は冷酷そうな人だと思ったけど……少し話して彼の人柄がわかった。戌井くんには幸せになってほしいわ」
静江はテーブルの上で両手を組み、親指でもう一方の親指を撫でさする。しばらく沈黙があった。やがて彼女は顔を上げて言った。
「夫は私が殺します」
「…………どういう意味だ?」
ようやく戌井が目を開けた。
「これは私の復讐だもの。人に任せるのではなく、私が直接手を下すべきだわ」
「家にいる時に殺したら犯人は妻しかいない」
「ええ……捕まるのは仕方ないとは思うけど、夫のせいで捕まるのは嫌だわ。完璧な復讐とは言えないもの」
淡々とそんなことを言う彼女には妙な凄みがあった。
「わかった」と、戌井は言った。「なら俺に考えがある。動物園で使ったスタングレネードと煙幕は余っているか?」
猫屋敷は顎に手を当てて答えた。
「スタングレネードは1個余ってるけど、煙幕はない。ほらっ、トラの檻が壊れて空間が広がったでしょ。それで全部使い切っちゃった」
「また調達できるか?」
「あれは私が作ったの。材料があれば作れるよ。どれくらいいるの?」
戌井は静江の方を見た。
「獣影館の広さによる。間取りを手に入れられるか?」
「獣影館って……」
「獅子丸慎吾の私設博物館ですね」日和が言った。「あそこで決着を?」
「ああ。金も融資してくれるとありがたいんだが」
「ごめんなさい」静江が言った。「猫ちゃんや松鷹に払った分でお小遣いが尽きてしまったわ。すでにけっこうな額をね。これ以上ねだると怪しまれるかも」
「それならかまわない。獅子丸に要求する金額が上がるだけだ」
「間取り図は手に入れておくわ。連絡先を教えて」
静江にチャットアプリのQRコードを読み取らせると、彼女はスマホの画面をまじまじと見つめた。
「高校生を友達追加するなんて変な感じ。……他にできることはある?」
「準備ができたら詳細を話す。それまではいつも通り過ごしてくれ。その時が来たら自分の手で夫を始末するんだ」
ここでするべき話は終わったので戌井は立ち上がって部屋の扉に向かった。静江が財布を出して言った。
「ここの支払いは済ましておくから、先に行っててちょうだい」
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静江はさっそく獣影館の間取りを確認してくると言って去っていった。
「じゃあ、あたし達は煙幕の材料を調達する?」
「そうだな。どれくらいで用意できる?」
「正規のルートだと2~3営業日かかるかなあ」
「製作日数は?」
「2日はほしいにゃ」
今日は05/08の金曜日だ。土日は営業してないだろうから、05/11の月曜日から3営業日で換算すると05/13――材料が届くのは中間テスト前日になる。さらに製作日数を合わせるとテスト期間が終わるだろう。
「あたしもテスト受けたいにゃあ。内申に響くし。いい大学に行って、いい企業に就職して、たくさん稼いだお金で人工肉の研究に投資する計画が……」
日和が言った。「正規のルートでなければどうなるんです?」
「さあ。あたしはまっとうなやり方しか知らない。戌井くんなら裏ルートの調達屋を知ってるんじゃない?」
戌井は駅に向かって歩き出しながら苦い表情をした。昔の知り合いにはできる限り会いたくない。刑を終えて出所した人間が最初に言われる言葉は『昔の知り合いには会うな』だ。戌井は自主的に引退したが、守るべき戒めは同じである。
4月の事件では日和の命がかかっていたし、預けていた金を回収する必要があったので仕方なく伝を頼った。でも今回はテストを諦めればいいだけだ。欠席した場合、一般的には過去のテスト結果に基づいて見込み点で評価されるが、初めてのテストなので全部0点になってしまうだろう。
獅子丸は当然、戌井が通っている結城高校を見張っている。戌井が学校に行くのは難しいが、猫屋敷なら問題ないはずだ。しかし……
しかし、戌井もテストを諦めたくなかった。テストで点を取る気がないなら何のために学校へ通っているのか。さらに感情的な理由を言えば、獅子丸慎吾のようなクソ野郎のために自分の成績が悪くなるのは腹立たしかった。
犯罪に関わる調達屋と言えども、必ず違法なやり方で手に入れてくるわけではない。煙幕の材料自体は合法的なものだから、ただ納期を短縮してもらえばいいだけだ。その対応可否くらいは確認してもいいだろう。
戌井は立ち止まって、後ろにいる女子達を振り返った。
「昔の知り合いに何でも調達できるプロがいた…………気がする」
「気がする?」
「どこにいるか忘れてしまった。思い出せればテストまでに獅子丸を始末できるだろう」




