表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人狼は静かに暮らしたい  作者: 古月
第2部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/64

第49話 麻薬ディーラーの妻

 獅子丸(ししまる)静江(しずえ)は物憂げにテーブルの上にあるタッチパネル式の予約リモコンを見つめていたが、戌井(いぬい)日和(ひより)が入ってくると顔を上げた。


 事前にネットで調べた情報では40代ということだったが、静江(しずえ)はそれよりもずっと若く見えた。ほうれい線は深く刻まれているのにどこかあどけなさがあり、瞳は水面に光が揺らめくように時に少女のような輝きを放ち、かと思えばはかり知れない深さをたたえている。


 静江(しずえ)は驚くほど落ち着いた様子で立ち上がり、戌井(いぬい)日和(ひより)に対して上品に会釈をした。


獅子丸(ししまる)静江(しずえ)です。どうぞよろしく。戌井(いぬい)時雨(しぐれ)くん、猿渡(さるわたり)日和(ひより)さん」


 夫にドラッグを盛られて娘を失ったにしては暗い雰囲気は感じず、声には力強い響きがある。その不気味な冷静さは、燃え尽きた灰の下の熾火おきびのように見る者の視線を無意識に引き寄せていた。


 戌井(いぬい)日和(ひより)はよろしくお願いします、と言って猫屋敷(ねこやしき)の隣に座った。


 静江(しずえ)戌井(いぬい)の方をじっと見つめている。


「動物園で会ったわね。あなたが松鷹(まつたか)を止めなければ、今頃すべて終わっていたわ」

「あの状況では無差別テロにしか見えませんでしたから」日和(ひより)反駁はんばくした。「戌井(いぬい)くんは悪くありません」

「それにトラを止めたでしょう? あのまま夫を食べてくれたら良かったのに」

「そしたらトラが殺処分になる」戌井(いぬい)が言った。

「確かに……そこまでは考えてなかったわ」


 静江(しずえ)は頬に手を当てておっとりと言った。


「あんなに罪深い人を食べて、トラが罰を受けるなんて間違っているわね」

「過ぎたことを話しても仕方がない。獅子丸(ししまる)慎吾(しんご)は俺達がこれから始末する。それについて話したい」


 静江(しずえ)は眉をひそめた。


「あなた達が?」

「俺は松鷹(まつたか)を2度退(しりぞ)けた」

「あたしを助けるためにあの赤熊隊長とも戦ったわ。全くの無傷でね」猫屋敷(ねこやしき)が付け加えた。「戌井(いぬい)くんならできると思う」


 静江(しずえ)戌井(いぬい)を覗き込むように見た。


「あなた何者なの?」

「俺が何者かなんてどうでもいい。重要なのは今置かれている状況だ。獅子丸(ししまる)の部下が血眼ちまなこになって俺を探しているし、家にも帰れないし、学校にも行けない。俺の望みは静かに暮らすことだ。そのために獅子丸(ししまる)が邪魔なら消してやってもいい」

「……どうやって?」

「方法はいくつかあるが、一番簡単なのはあんたの家に行って夫の息の根を止めることだ。報酬としていくらか貰おう」

「家は大勢の部下が見張っているわ。殺すことはできても、間違いなく通報されるから逃亡するのは難しいでしょうね。だからこそあの人を動物園に誘ったの。あの時も部下はいたけど、家より数は少ないしトンネルという特殊な状況下だったから、スタングレネードと煙幕で無力化できた」

「家がどれほど見張られていようと必ず隙はある。どんな場合でも、いつも何かしらの突破口はあるものだ。とはいえ観察と準備で1ヶ月くらいはかかるがな……それだと中間テストに間に合わない」


 静江(しずえ)戌井(いぬい)が喋るたびに眉間にシワを寄せていたが、今度は顔全体をしかめた。


「中間テストが何だというの?」

「学生にとっては人生に関わることだ」

「私は成績が良かったけど、人生はより良くならなかった」

「大切なのは勉強の習慣づくりを通じて自己制御を学ぶことだ。成績を上げる過程で身につく能力や習慣がその後の人生の役に立つ。運が悪くてどん底に落ちることはあるが……俺みたいにな。でも過去に身に付けた力で、自分なら対処できると思える」

「あなたいくつなの? 高校生とは思えない」

「……」


 戌井(いぬい)はバッテリーの切れたロボットのようにいきなりソファーに深く身を沈め、目をつむった。


「どうしたの?」

「彼は人肉を食べないせいで集中力と記憶力が落ちているの」猫屋敷(ねこやしき)が言った。「昨日の疲れが取れてないんだと思う。少し休ませてあげて」

「人狼なのに人を食べないの? なぜ?」

「さっきも言ってましたが、戌井(いぬい)くんの望みは静かに暮らすことですから」日和(ひより)が言った。「そのために自分を厳しく制御しているんです」


 すると静江(しずえ)日和(ひより)の方に視線を向けた。


「あなたも人狼?」

「いいえ、私は人間です。お二人の友達で、ただ力になりたくて……」

「そう……彼は誠実な人なのね。だからあなたも人間でありながら彼に協力している」


 静江(しずえ)はタッチパネル式の予約リモコンを見つめた。


「私も薬の後遺症とストレスで時々記憶がなくなるの。だから彼の辛さがわかる。カラオケに行くのは好きだったけど……今じゃ流行りの歌のメロディーも歌詞も覚えられない」


 それからゆっくりと戌井(いぬい)に視線を戻す。


「最初に見た時は冷酷そうな人だと思ったけど……少し話して彼の人柄がわかった。戌井(いぬい)くんには幸せになってほしいわ」


 静江(しずえ)はテーブルの上で両手を組み、親指でもう一方の親指を撫でさする。しばらく沈黙があった。やがて彼女は顔を上げて言った。


「夫は私が殺します」

「…………どういう意味だ?」


 ようやく戌井(いぬい)が目を開けた。


「これは私の復讐だもの。人に任せるのではなく、私が直接手を下すべきだわ」

「家にいる時に殺したら犯人は妻しかいない」

「ええ……捕まるのは仕方ないとは思うけど、夫のせいで捕まるのは嫌だわ。完璧な復讐とは言えないもの」


 淡々とそんなことを言う彼女には妙な凄みがあった。


「わかった」と、戌井(いぬい)は言った。「なら俺に考えがある。動物園で使ったスタングレネードと煙幕は余っているか?」


 猫屋敷(ねこやしき)は顎に手を当てて答えた。


「スタングレネードは1個余ってるけど、煙幕はない。ほらっ、トラの檻が壊れて空間が広がったでしょ。それで全部使い切っちゃった」

「また調達できるか?」

「あれは私が作ったの。材料があれば作れるよ。どれくらいいるの?」


 戌井(いぬい)静江(しずえ)の方を見た。


獣影館じゅうえいかんの広さによる。間取りを手に入れられるか?」

獣影館じゅうえいかんって……」

獅子丸(ししまる)慎吾(しんご)の私設博物館ですね」日和(ひより)が言った。「あそこで決着を?」

「ああ。金も融資ゆうししてくれるとありがたいんだが」

「ごめんなさい」静江(しずえ)が言った。「猫ちゃんや松鷹(まつたか)に払った分でお小遣いが尽きてしまったわ。すでにけっこうな額をね。これ以上ねだると怪しまれるかも」

「それならかまわない。獅子丸(ししまる)に要求する金額が上がるだけだ」

「間取り図は手に入れておくわ。連絡先を教えて」


 静江(しずえ)にチャットアプリのQRコードを読み取らせると、彼女はスマホの画面をまじまじと見つめた。


「高校生を友達追加するなんて変な感じ。……他にできることはある?」

「準備ができたら詳細を話す。それまではいつも通り過ごしてくれ。その時が来たら自分の手で夫を始末するんだ」


 ここでするべき話は終わったので戌井(いぬい)は立ち上がって部屋の扉に向かった。静江(しずえ)が財布を出して言った。


「ここの支払いは済ましておくから、先に行っててちょうだい」


     ☂


 静江(しずえ)はさっそく獣影館じゅうえいかんの間取りを確認してくると言って去っていった。


「じゃあ、あたし達は煙幕の材料を調達する?」

「そうだな。どれくらいで用意できる?」

「正規のルートだと2~3営業日かかるかなあ」

「製作日数は?」

「2日はほしいにゃ」


 今日は05/08の金曜日だ。土日は営業してないだろうから、05/11の月曜日から3営業日で換算すると05/13――材料が届くのは中間テスト前日になる。さらに製作日数を合わせるとテスト期間が終わるだろう。


「あたしもテスト受けたいにゃあ。内申に響くし。いい大学に行って、いい企業に就職して、たくさん稼いだお金で人工肉の研究に投資する計画が……」

 日和(ひより)が言った。「正規のルートでなければどうなるんです?」

「さあ。あたしはまっとうなやり方しか知らない。戌井(いぬい)くんなら裏ルートの調達屋を知ってるんじゃない?」


 戌井(いぬい)は駅に向かって歩き出しながら苦い表情をした。昔の知り合いにはできる限り会いたくない。刑を終えて出所した人間が最初に言われる言葉は『昔の知り合いには会うな』だ。戌井(いぬい)は自主的に引退したが、守るべきいましめは同じである。


 4月の事件では日和(ひより)の命がかかっていたし、預けていた金を回収する必要があったので仕方なくつてを頼った。でも今回はテストを諦めればいいだけだ。欠席した場合、一般的には過去のテスト結果に基づいて見込み点で評価されるが、初めてのテストなので全部0点になってしまうだろう。


 獅子丸(ししまる)は当然、戌井(いぬい)が通っている結城ゆいしろ高校を見張っている。戌井(いぬい)が学校に行くのは難しいが、猫屋敷(ねこやしき)なら問題ないはずだ。しかし……


 しかし、戌井(いぬい)もテストを諦めたくなかった。テストで点を取る気がないなら何のために学校へ通っているのか。さらに感情的な理由を言えば、獅子丸(ししまる)慎吾(しんご)のようなクソ野郎のために自分の成績が悪くなるのは腹立たしかった。


 犯罪に関わる調達屋と言えども、必ず違法なやり方で手に入れてくるわけではない。煙幕の材料自体は合法的なものだから、ただ納期を短縮してもらえばいいだけだ。その対応可否くらいは確認してもいいだろう。


 戌井(いぬい)は立ち止まって、後ろにいる女子達を振り返った。


「昔の知り合いに何でも調達できるプロがいた…………気がする」

「気がする?」

「どこにいるか忘れてしまった。思い出せればテストまでに獅子丸(ししまる)を始末できるだろう」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ