第48話 ラウンジでプリンを
「また黒髪に染めてくる。少し待っててくれ」
戌井はそう言ってバスルームの前にあるシンク台に行き、手早く黒のヘアーワックスを塗り、コンシーラーで隈を消して伊達メガネをかけた。ここへ来る前に衣料品店や雑貨店に寄って色々買い揃えておいたのだ。クローゼットルームで黒のジャケットを羽織ると学生らしさは欠片もない、爽やかなビジネスマンに見える。
リビングルームに戻ると日和は何だかぼうっとした顔で戌井を見つめた。
「……何か変か?」
「戌井くんが隈を消したらまた目立つのではないかと思いまして」
「伊達メガネがある」
以前、大きな隈を消して学校に行ったら大騒ぎになったことを思い出した。戌井は未だにその理由をわかっていないが、隈の有無によるものという因果関係は認め、伊達メガネで対策することにしたのだった。
「むしろかっこよさが増し……」日和は言いかけて溜息を吐いた。「よく今まで捕まりませんでしたね」
「大体いつもフードを被っていたからな」
一方、日和も制服のままではまずいのでホテルに来る前からスマートカジュアルなワンピースに着替えてもらっていた。2人はまるで恋人のように並んで歩き、エスカレーターでメインロビーまで下りた。ラウンジへ向かう途中、2人は大勢の人間の注目を集めていた。あまり見られたくなかったが、白髪はもちろん大きな隈があっては獅子丸や松鷹の興味を引くかもしれない。悪目立ちするよりはマシだ。
ラウンジは吹き抜けになっており、上品な照明が空間全体を柔らかく包み込んでいた。大きな窓からは、巧みにライトアップされた日本庭園が見え、石灯籠の温かな光が水面に揺らめいている。
この店自慢のオリジナルスイーツはプリンだ。二人ともプリンとダージリンティーを注文した。ウェイターが離れていったのに、日和はまだメニューを面白そうに眺めている。
「すごい……! ミネラルウォーターでも1000円以上しますよ。経費を獅子丸慎吾に請求するなんて、本当にできるんですか?」
「ああ」
「…………具体的には?」
「電話をかける」
「戌井くんが電話をかければ誰でも言うことを聞くんですね」
「悪党は特にな」
「獅子丸慎吾は控えめに言っても大悪党ですよ。静江さんにしたこと……考えるだけでゾッとします」
「復讐を肯定できるくらい?」
日和は押し黙った。その間にウェイターがダージリンティーを運んできたが、二人の間に流れる殺伐とした空気にややたじろいでいた。
「俺はこの件を片付けるためにいくつも法を破るつもりだ。獅子丸慎吾も生かしてはおけない。それをあらかじめ伝えておきたかった」
「……話があると言ったのはこのことですね。私がダメだと言ったらどうするんです?」
「それでもやる。俺を生かしたのは間違いだったと思うなら、STに突き出せばいい」
「ずるいです。私にそんなことできないってわかっているくせに」
「いや、君のことは何もわからない。ただ俺は……日和さんが苦しむところは見たくないから。後悔されるくらいなら、ひと思いに通報された方がマシだ」
「それって……どういう理屈なんですか? 私が裏切っても戌井くんは怒らないの?」
「君はいい人だから怒れない」
「でも私がやっぱり真実を打ち明けると言ったら、戌井くんにとっては都合の悪い人になりますよ」
「そうだな。だからといって君が死んで当然の悪党だとは思わないし、俺にはどうしようもない。今の身分を捨てて裏社会に戻ることもできないし」
「法を破るなら同じことのような気もしますけど……」
「目的が違う。昔は『生きるため』『金のため』だった。今は高校生活と、大切な人達と過ごす日常を守るためだ。ついでに賠償金も貰っておくが」
戌井は言いながらティーカップを持ち上げ、一口飲んだ。
「それに幼い頃は仕方がなかったが、一度引退してまた裏社会に逆戻りというのは節操がなさすぎる。命の恩人との約束もあるし」
「どんな約束ですか?」
「裏社会に戻ったら殺すと言われた」
「命の恩人の言葉とは思えませんね」
「俺は昔の生き方には戻れない。かといって完全に穏便なやり方で獅子丸に対処するのは不可能だ」
「私だって……綺麗事を言うつもりはありません。獅子丸慎吾が生きている限り、私達に平穏な日常など戻ってきません。彼は檻の中でも殺し屋を雇えるんですからね」
日和は自分の両手を見つめ、少し震えながら言った。
「私……自分がどんどん悪に染まっていく気がします。自分が怖い」
戌井は、無垢な少女を悪の道に引きずり込んでいるような気分になった。
「……これが終わったら、赤熊隊長に何か埋め合わせをしないといけないな。どうするかは後で考えよう」
「人狼をたくさん退治すれば喜んでくれると思いますが……」
「猫屋敷さんのことは本当にいいのか? 俺の時は13日もかけたのに、彼女のことはずいぶんあっさり受け入れるんだな」
「戌井くんがいるからです。もしアカリちゃんが暴走しそうになったら止めてくださいね」
「もちろんだ」
戌井は信頼されているのだと感じてふっと笑みを浮かべる。日和も微笑んだところへウェイターがプリンを運んできた。さっきまでの気まずい雰囲気が和やかになっているのを見て、どことなくニコニコしていた。
テーブルに置かれたプリンは琥珀色のカラメルが輝き、生クリームと季節の果物が添えられている。底には黒蜜が沈み、層になっていた。スプーンですくうとしっかりと形を保っているが、口に入れると舌の上であっという間にとろけていく。
高級ラウンジのプリンを楽しみながら、戌井が言った。
「君は狙われてないんだし、この件からは離れてもいいんだぞ」
「見て見ぬふりをする方が嫌です。私もちゃんと関わって、ちゃんと罪の意識を感じます」
「それで押しつぶされないといいんだが。でも静江さんと会ってみたら別の方法を思いつくかもしれない。彼女がいなくても事は運べるが、できる限りまっとうなやり方を模索したい。それが堅気ってもんだろ? 誰かがそう言ってた気がする」
「ふふ、何となくですが雉真くんっぽいですね」
☂
日和を駅まで送り届け、戌井はホテルの部屋へ戻った。スマホを見ると猫屋敷からメッセージが来ている。
【あの方に会う約束できたよー。明日の朝9時、新宿の『まねきいぬ』で。ひよりんにも連絡済み】
長い1日だった。
戌井はベッドに寝転がって20分瞑想し、それが終わるとアプリ『ユイシロ・マスター』の問題集を進めた。日本史は50問中、5問正解……ふうむ…………。
25分で勉強を切り上げ、5分瞑想し、25分また勉強した。ポモドーロ・テクニックだ。それを2セットやったら途中で集中力が切れた。戌井はさらに20分瞑想してから今度は運動を始めた。ウォームアップをした後、片手で腕立て伏せをするなど高負荷の筋トレを45分やる。シャワーを浴び、瞑想・勉強・瞑想・運動のサイクルを朝まで続けた。これをやらないと、まともに生活できるほどの集中力を維持できないのだ。
朝日が昇るとルームサービスで朝食を取る。シャワーを浴び、また黒髪に染めたりして身支度を整える。早い時間にホテルを出てゆっくり庭園を散歩してからカラオケ『まねきいぬ』に向かった。
「戌井くん、こっちです」
日和が手を振りながら駆け寄ってきた。今日の彼女はワイドパンツにシンプルなTシャツ姿でキャップを被っている。
「アカリちゃんと静江さんはもう中にいるみたいです」
戌井は頷いた。日和と一緒に中へ入り、カラオケの受付で猫屋敷の名を伝えると部屋番号を教えてくれる。2人はそこへ向かい扉を開けた。




