第47話 高級ホテルへ②
女子は風呂から上がった後も長い。30分経ってやっとドライヤーの音が止んだ。
戌井はその間やることがなかったので、猫屋敷の開発した『ユイシロ・マスター』の問題集をぽちぽち解いていた。教科書類は持ってきてない。家の周辺は獅子丸の部下が見張っているだろうから、今さら取りに戻ることもできない。だがこのアプリには試験範囲分の教科書の内容が穴埋め問題形式で載っている。しかも授業中の板書でしか出てこない内容まで解説されており、もはや教科書もノートも必要なかった。
「お待たせ~」
猫屋敷はホカホカしたにおいを漂わせながら、戌井の背後からスマホの画面を覗き込んだ。
「って、よくこんな状況で勉強できるね」
「このアプリがなかったらやる気も起きなかっただろうな。最高のアプリだ」
「き、君の褒め言葉はストレートすぎて、どう反応していいかわかんないにゃ」
日和が言った。「その気持ち、よくわかりますよ」
戌井はスマホをセンターテーブルに置き、メモ帳を手に取った。次のタスクは松鷹について聞くことだ。
「さて、君が獅子丸にこき使われていることは何となくわかったが、ウォールナット……松鷹と言ったか? そいつのことを教えてくれ」
「うん……」
猫屋敷はデイベッドに足を乗せながら腰掛けた。
「松鷹はあたしと同じで獅子丸に小さい頃から誘拐されて、殺さないことを条件に何でも言うことを聞くよう命令された奴隷よ。でも松鷹のことは出会った時から嫌いだし、全く信用してない。しまいにはあたしを裏切って逃げたでしょ。清々しいほどのクズ野郎よ」
「松鷹は黒鶴=猫屋敷ってことは知っているのか?」
「ううん、教えてない。あたしは黒鶴ナギを殺して、猫屋敷アカリとして新しい人生を歩む予定だった。だから慎重に隠し続けた。黒鶴もちゃんと学校に入学して、こっちの顔しかないように見せかけてね」
「黒鶴くんは留年したという話でしたから、2回受験したということですか?」
「あたしならちょちょいのちょいよ」
「信じられん」
戌井にはとても真似できない芸当だ。高校受験など一度で十分である。
「でしょー。誰も同じ学校に同じ人物が通っているなんて思わないし、ここまでやって偽装するなんてもっとありえない。まあ黒鶴の方は不登校って設定になっちゃったけど。動物園で獅子丸を暗殺できていたら、黒鶴にはそのまま消えてもらうつもりだった。男のふりするの疲れたもん」
「黒鶴ナギは獅子丸に与えられた名前ですよね? なぜ男性なんでしょう?」
「あー、獅子丸に誘拐された時、まずあいつの前で獣化しろって言われてさ。獣化した姿をジロジロ見られるから気持ち悪かったな」
「アカリちゃん……」
日和は猫屋敷の膝の上にある手をぎゅっと握った。
「心配しないで。あいつ人間の裸には興味なかったから。あいつにとってあたしは剥製にする価値もなかったみたい。三毛猫もオスの方が希少価値があるけど、トライカラーもオスの方がいいと思ったんだろうね。その当てつけなのか知らないけど、黒鶴ナギって男の名前を押し付けてきてさ」
「黒鶴は今追われる身だが、猫屋敷としては安全なわけだな」
「ええ。見つけるのはまず不可能ね」
「だが新しい戸籍を得るのは大変だったろう? きちんとした書類を揃えるには大金がいるからだ。君には協力者がいる。そいつは獅子丸慎吾を殺したがっていて、君に新しい名前を与える代わりに暗殺の手伝いをさせた」
「鋭いね。戌井くんも戸籍を偽造してるんでしょ」
「ああ」
人狼のほとんどは身分を偽っている。人を喰うには法を犯さねばならないからだ。書類の出来がいいかはともかくとして。
「獅子丸慎吾は死んでない。このままじゃそいつが君のことをバラす恐れがある。誰なんだ?」
「獅子丸の奥さんよ。獅子丸静江さん」
日和は顎に手を当てて思い出す仕草をした。
「獅子丸慎吾を調べるついでに彼女のことも調べました。数年前に娘が失踪した事件があって、静江さんはその時、少し目を離したことで世間から大バッシングを受けてましたね」
「さすがひよりん、よく調べてるね。でもあの事件には不自然な点があった。静江さんは急に幻覚症状に見舞われて数分間の記憶がないと訴えた。それも一度だけでなく普段の生活で何度も起きていたと。薬物乱用を疑われて検査も受けたけど何も検出されなかった」
「もしかして……」日和が息を呑んだ。
「ワイルドショットの秘密を突き止めた時、あたしはとんでもない真実に気が付いたの。静江さんはワイルドショットを服用していたんじゃないかって。でも彼女自身の意思じゃない。変装してしばらく彼女の様子を観察したけど、いかにも貞淑な妻って感じだった。それで違和感を持った。あたしは思い切って静江さんに接触し、ワイルドショットを知っているかどうか確かめたの」
猫屋敷は急に薄ら寒くなったのか自分の両腕をさすった。
「思った通り、静江さんに心当たりはなかった。どういうことかわかる? 彼女は自分の夫にドラッグを盛られてたのよ」
「でもどうして? 何のために?」日和が言った。
「それはわからない。一つ確かなことは獅子丸慎吾のせいで娘が失踪したということ。しかもその責任も世間からのヘイトも全部妻に押し付けて、自分はそんな妻を許す寛大な夫を演じていた。静江さんは今まで娘を亡くしたのは自分のせいだと思い込んできたけど、真実を知って復讐を誓ったの。あたしは新しい名前をもらう代わりに暗殺を引き受けた。あたしだけじゃ無理だから仕方なく松鷹も仲間に引き入れて。気に喰わないけど、獅子丸の支配下から逃れたいって気持ちは共通していたから」
「暗殺の打ち合わせはどうやっていた?」
「カラオケで会ってた。静江さんと松鷹は直接会ってない。松鷹には金だけ与えて、暗殺の依頼者が静江さんってことは教えなかった。静江さん、男の人はあまり信用してないから」
戌井はメモ帳に話をまとめた――猫屋敷アカリのことは獅子丸も松鷹も知らない。松鷹は静江のことも知らないから、彼女から辿ることもできない。猫屋敷アカリのことを知っているのは静江だけ。
「動物園では失敗しちゃったけど、静江さん、まだ復讐を諦めてないと思う。戌井くんも獅子丸をその……倒すつもりなんだよね? じゃないと永遠に狙われ続けるし」
〝倒す〟のではない。〝始末する〟だ。獅子丸慎吾を生かしておくことはできない。彼を何らかの罪で投獄したとしても、獅子丸のような男は金の力ですぐに出てくるか、刺客を送り込んでくるだろう。誰も死なずに決着を付けることはどうあがいでも無理だ。しかし日和の手前、猫屋敷は言葉を濁したのだ。
「つまり静江さんとあたし達の利害は一致しているってこと。明日会ってみるのはどう?」
「彼女は夫に怪しまれてないか?」
「獅子丸は完全に妻を侮ってる。静江さんが暗殺を企むなんて想像もしてないよ。少なくとも監視とかはされてないから安心して」
「それなら明日のできる限り早い時間に会いたい」
「わかった。連絡を取るにはあたしのスマホが必要なんだけど、帰ってもいいよね?」
今のところ獅子丸慎吾や松鷹に狙われているのは戌井だけだ。
「ああ。俺の連絡先を教えておく。明日現地で会おう」
「はあ~……ってことは学校休むの確定だね。ひよりんはどうする?」
「私も静江さんに会います。学校に行ってもお二人のことが気になって集中できませんし」
「ひよりんがいればあたしも安心できるにゃ」
「日和さんはちょっと残ってくれないか」戌井が言った。「話がある。ついでにラウンジで軽食でもどうだ? 夕食は途中までしか食べれなかったから」
「えっと、私だけ……ですか?」
「ほほう」
猫屋敷は興味津々に戌井と日和を交互に見た。
「猫屋敷さんは早く帰って静江さんに連絡を取ってくれ」
「あいあいさー。せっかくだし、ひよりん。戌井くんの誘い受けちゃいなよ」
「嫌なら別にかまわないが」
「い、いえ! 行きたいです」
「じゃあお二人とも楽しんで」
猫屋敷は妙にニヤニヤしながら部屋を出ていった。




