第46話 高級ホテルへ
日和が戌井の希望する条件のホテルを見つけて予約をしてくれた。戌井は銀行のATMで現金を下ろした。この金は海外の隠し銀行口座をいくつも経由して、ハワイにいる育ての母親から送金されたという体になっている。育ての母親なんていないが、金を払えば演技をしてくれる女はいる。
五つ星のラグジュアリーホテルだった。部屋は27階にあり、洗練された和モダンなデザイン、温かみのあるオーク材のインテリア、非常に広い窓には東京の高層ビル群が広がっている。
戌井は部屋に入るなりまずカーテンを閉めた。
「せっかくいい眺めだったのに……」猫屋敷が残念そうに言う。
「狙撃されたいのか?」
「わかってる。あーあ、せっかく初めての高級ホテルなのに、こんな状況でなければなあ」
「私もここまでのホテルは初めてです」
日和と猫屋敷は目を輝かせながら部屋の中を歩き回った。
「ベッドは一つしかありませんが、大丈夫ですか?」
「人狼は眠らない。俺と猫屋敷さんには不要だ」
「眠らなくてもあたしは寝っ転がりたいにゃー。ほらほら、ひよりんも」
「きゃっ」
猫屋敷は日和を巻き込んでベッドに飛び込んだ。
「ひよりんはジャスミンティーのにおいがするにゃ」
「アカリちゃんはラベンダーの香りがします。戌井くんはどんなにおいですか?」
「うーんとね」猫屋敷はこちらに向かって鼻をくんくんした。「白樺のにおいかな。近くに行って嗅いでみたら?」
「それは……」
日和は頬を染めながら戌井を見ると、慌てて上体を起こした。
「はしゃいでいる場合じゃありません! 戌井くんは今、大変な状況なのに」
「俺も少し休みたい。先にシャワーを浴びてもいいか?」
「ええ、どうぞ。それなら紅茶を入れておきますね」
バスルームの前に広い二台のシンクがある。戌井はシンク台の上に服を脱いでおき、シャワーを浴び始めた。
「あ……」
日和の声がしたので振り向く。バスルームは全面ガラス張りなので中の様子が丸見えだ。この部屋は回遊動線になっており、トイレ以外の各部屋が扉なしで繋がっている。おそらくシンクを探していてうっかり来てしまったのだろう。
「ごごご、ごめんなさい!」
日和は小動物のように走り去った。戌井は何もなかったことにしてシャワーを浴び続け、新しい服に着替えた。髪を黒く染めていたのでシャワー後は白髪に戻っている。戌井が濡れた髪を拭きながら部屋に戻ってくると、日和は湯気が立ち上りそうなほど顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「ひよりんの紅茶美味しいよ~」
「もらおう」
女子2人は窓際にあるデイベッドに並んで腰掛け、仲良く紅茶を飲んでいた。戌井は一人掛けの椅子に座り、センターテーブルに置いてあった紅茶を飲んだ。
「あと20分ほど瞑想させてくれ。2人はゆっくり風呂に入るといい」
「一緒に入ろうよ、ひよりん。女の子同士だし」
日和は顔を俯けて考え込んだ。猫屋敷は悲しげな表情をする。
「ダメ、かな……あたしが人狼だから……」
「お風呂に入る前に、お互い腹を割って話しておきたいです。でも戌井くんには休養が必要ですから……」
「日和さんを傷付けたら」と、戌井は言った。「俺が猫屋敷さんを殺す。必要な情報を聞き出してからな」
「そんなことしないもん!」
日和は立ち上がって猫屋敷の手を取った。
「お風呂に入るだけならかまいません。行きましょう」
戌井は2人の背中を見届けた。日和は人狼を惹き寄せてしまう体質なのだろうか。4月には戌井を見逃したばかりなのに、5月にはまた別の人狼を見逃すのかどうか葛藤しなければならない。戌井の方も、猫屋敷のことをもっとよく知る必要がある。彼女を始末するかどうかは日和とよく話し合って決めることにしよう。
戌井は紅茶をさらに一口飲んでから背もたれに沈み込み、瞑想にふけった。
これから獅子丸に懸賞金を取り下げさせ、損害賠償も請求し、中間テストの勉強もしなければならない。考えるだけでげんなりしてしまう。それらを片付けたら今度は引っ越しの手続きをしなければならない。
大体、動物園に行っただけなのにどうしてこんなことになってしまったのか? 態度には出さないが戌井もこの理不尽な状況に憤懣やる方ない気分になっていた。こんな精神状態では何も考えられない。
瞑想の本質は「問題解決」ではなく「受け入れる練習」だ。タスクが山積みで頭が混乱している状態も、まずはそのままの状態として受け入れる。
最初の5分で外部の音や感覚を「ただある」ものとして受け入れる。次の10分では呼吸の微細な変化を観察。思考や感情が生まれては消えていく様子を観察する。そうすると最後の5分間ではすべての執着から解放される。
もちろん彼には集中力がないので途中で何度か呼吸や意識が乱れるが、気付いたらゆっくり戻ればいいだけだ。完璧な瞑想を目指す必要はない。むしろそういった執着すらからも自由になるのが真の瞑想と言えよう。
20分後、戌井は目を開けて立ち上がった。壁際の広いデスクに歩いていき、そこに置いてあるメモ帳にやることリストを書き出していく。バスルームの方ではシャワーの音は止んだが、穏やかな話し声と湯船の水のはねる微かな音が聞こえる。
バスルームにも窓があるから、のんびり湯船に浸かりながら景色でも楽しんでいるのだろう。仮に獅子丸の部下がこのホテルを突き止めていたとしても、バスルーム側の窓を見張る意味はあまりない。彼女達の好きにさせておこう。
「ねえねえ、戌井くんもこっちに来なよ!」猫屋敷が言った。「あたし達、バスタオル巻いてるから。こっちの景色見ながらお話したいな」
「……リビングで話し合えばいいだろう」
「あと冷たいストレートティー持ってきてね~」
図々しい学級委員長だ。
「アカリちゃん、戌井くんを困らせちゃだめですよ。すみません無視してください」
「いや……持ってこよう」
戌井はミニバーでアイスティーを作り、お盆に乗せてバスルームへ運んでやった。2人の方はあまり見ないようにしながらガラス張りの戸を開けてお盆を床に置く。
「自分で取りに来い」
戌井はバスルームの前にあるシンク台の席に腰掛けた。シンク台の上には2人の下着が置いてあったので、それも見ないよう横向きで座った。
「ありがと戌井くん、紳士だねえ」
「日和さんのためだ。色々と迷惑をかけたから」
「迷惑って、何のことですか?」
戌井はその時だけ日和の方を見た。
「君に相談せずに猫屋敷さんを助けた。赤熊隊長にも嘘を吐かせてしまった。すまない」
彼がまっすぐ目を見つめるので、日和はバスタオルの端をつかんで恥ずかしそうにした。
「それについては少し怒ってましたけど……いいんです。説明している時間はありませんでしたし」
「そもそもなんであたしを助けたの?」
「ウォールナットは俺の住所を突き止めた。それでこの裏にはもっと大物がいるんじゃないかと思ったんだ。日和さんが獅子丸のことを怪しんでいたしな。案の定、奴が関わっていた。赤熊隊長に君を殺されたら獅子丸の情報は聞き出せない」
「情報のためってことね」
「そうだ。さっきの話の続きをしよう。……何の話をしていたんだっけ?」
「戌井くんってちょっと抜けてるよね」
やることリストの最初のタスクは獅子丸慎吾のことを知ることだ。
「獅子丸は麻薬ディーラーです」日和が思い出させてくれた。「それも未知のドラッグを作ってる。アカリちゃんはその正体を知っているそうですね」
「その正体は……」
猫屋敷はそこで言葉を止めて、自信がなさそうに話し始めた。
「獣化した人狼から抽出できる中毒性物質なの」
戌井と日和が眉間にシワを寄せるので猫屋敷はますます不安そうな顔になりながら言った。
「ほ、ほらっ。人狼は獣化する時に骨を砕きながら変異するから、激烈な痛みを伴うでしょ? 本来なら痛みで死ぬレベル。なのに獣化したくないと思うどころか、むしろあたし達は獣化する時の高揚感を求めている。戌井くんも覚えはない?」
「さあな。俺は人を喰わないせいで忘れっぽい。獣化するとハイになるというのは知っているが、その時の快感は忘れている」
猫屋敷は驚きのあまりアイスティーを吹き出しそうになった。
「人を食べないなんて嘘でしょ? そんなの不可能だよ。人の味を知らないならありえるかもだけど……」
「荒治療をしたんだ。2年間檻の中にいた」
「そんなの、一時的にはやめられても普通はリバウンドしちゃうよ。あたしも一度RJを断とうとしたけど精神的に不安定になるし、頭がボーッとするし、普通に生きるのだって難しくなるんだから」
「RJ……レッドジャーキー。人肉を食べているのですね」
日和は猫屋敷に背を向けて、窓の方を見つめた。
「ひよりん……」
「ドラッグの話を続けてください」
「うん……。あたしは獣化する時の痛みの緩和と高揚感に注目した。何か仕組みがあるはずだって。それで人狼の遺体を解剖したの。獅子丸の命令で人狼を探して狩ることが多かったから。そしたら人狼は特殊な分泌液で獣化の痛みを和らげていることがわかった。獣化するための特別仕様ね」
「人狼には毒も薬も効かないはずだが。しかし体内で自然分泌されるものには影響されるのか」
「そうね。人間に投与すると他のどんなドラッグよりもブッ飛べる。通称『ワイルドショット』。ジャンキーの間でもだんだん流行り始めていて、国内外の麻薬カルテルもこの薬に注目しているわ」
日和は窓の外を見つめながら言った。
「どうりで警察が捜査しても証拠が見つからなかったわけですね。成分分析をしても何なのかわかりませんし、人狼の体から分泌される物質という発想自体がありませんから」
「……信じてくれるの?」
日和は振り返りはしなかったが、窓ガラスに反射する猫屋敷を見つめて言った。
「『幹細胞と再生医療の最前線』『タンパク質工学の基礎と応用』『バイオマテリアルと人工臓器開発』『3D細胞培養の理論と実践』」
「そ、それって……」
「アカリちゃんが借りた本です。私、アカリちゃんが人狼だって知った時にこの本のことを思い出したんです。どうしてあの本を読んでいるんだろうって。タイトルだけを見る限り、『人工肉』に繋がりそうな研究書ですよね」
日和はそこでようやく振り返り、やや困ったような笑みを浮かべた。
「信じる……というよりは。アカリちゃんなら、未知のドラッグの秘密にも気付けるだろうって思っただけで――ひゃっ」
猫屋敷は日和が言い終わる前に彼女の胸の中に飛び込んでいた。
「そう、そうなの。あたし、こんなこと誰も信じてくれないって思ってた。松鷹はあたしを利用することしか考えてないし、味方なんてどこにもいなくて……」
猫屋敷は涙で息をつまらせながら言った。
「でも、本当にいいの? あたし、人狼だよ? ひよりんは預言者なんでしょ?」
「もう戌井くんを見逃してますし。人狼の中にも良い人がいるって知ってるから」
「戌井くんは人を食べないけど、あたしは違う……ひよりんのことは絶対襲わないよ? でも……闇市場に流通しているRJを入手したり、悪人を殺して肉を手に入れることはすると思う。でないと生きていけない……」
猫屋敷アカリの頭脳を腐らせておくのはもったいない、と戌井も考えた。彼女はクラスのみんなのために便利なアプリを開発しただけでなく、人狼の未来を拓けるかもしれない。それを行うには記憶力と集中力が必要だ。
「できれば法律は犯してほしくありません……法を犯せば警察が動き、警察が動けば自己保身のためにさらなる犯罪を重ねてしまうから……」
「じゃあ、食べるのは人狼だけにする。人狼なら殺しても法律違反にはならないし。預言者の近くにいれば人狼事件にたくさん関われるでしょ。ひよりんのことも守れるし」
「そう……ですね」
「やっぱり不安だよね? ジャンキーを信じるって言うようなものだもん」
「ううん。アカリちゃんは普通のジャンキーとは違います。学級委員としての責務も果たしているし、人工肉の研究で社会をより良くしようと頑張ってる。ちょっぴり不安ですけど……必ず守ります。アカリちゃんも、戌井くんも」
戌井はそれを聞いて顔を上げ、日和と目を合わせた。思わず微笑を浮かべると日和は照れくさそうに目を逸らしてしまう。戌井は立ち上がってリビングに戻った。続きは2人が風呂を出てからにしよう。




