表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人狼は静かに暮らしたい  作者: 古月
第2部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

46/64

第46話 高級ホテルへ

 日和(ひより)戌井(いぬい)の希望する条件のホテルを見つけて予約をしてくれた。戌井(いぬい)は銀行のATMで現金を下ろした。この金は海外の隠し銀行口座をいくつも経由して、ハワイにいる育ての母親から送金されたという体になっている。育ての母親なんていないが、金を払えば演技をしてくれる女はいる。


 五つ星のラグジュアリーホテルだった。部屋は27階にあり、洗練された和モダンなデザイン、温かみのあるオーク材のインテリア、非常に広い窓には東京の高層ビル群が広がっている。


 戌井(いぬい)は部屋に入るなりまずカーテンを閉めた。


「せっかくいい眺めだったのに……」猫屋敷(ねこやしき)が残念そうに言う。

「狙撃されたいのか?」

「わかってる。あーあ、せっかく初めての高級ホテルなのに、こんな状況でなければなあ」

「私もここまでのホテルは初めてです」


 日和(ひより)猫屋敷(ねこやしき)は目を輝かせながら部屋の中を歩き回った。


「ベッドは一つしかありませんが、大丈夫ですか?」

「人狼は眠らない。俺と猫屋敷(ねこやしき)さんには不要だ」

「眠らなくてもあたしは寝っ転がりたいにゃー。ほらほら、ひよりんも」

「きゃっ」


 猫屋敷(ねこやしき)日和(ひより)を巻き込んでベッドに飛び込んだ。


「ひよりんはジャスミンティーのにおいがするにゃ」

「アカリちゃんはラベンダーの香りがします。戌井(いぬい)くんはどんなにおいですか?」

「うーんとね」猫屋敷(ねこやしき)はこちらに向かって鼻をくんくんした。「白樺しらかばのにおいかな。近くに行って嗅いでみたら?」

「それは……」


 日和(ひより)は頬を染めながら戌井(いぬい)を見ると、慌てて上体を起こした。


「はしゃいでいる場合じゃありません! 戌井(いぬい)くんは今、大変な状況なのに」

「俺も少し休みたい。先にシャワーを浴びてもいいか?」

「ええ、どうぞ。それなら紅茶を入れておきますね」


 バスルームの前に広い二台のシンクがある。戌井(いぬい)はシンク台の上に服を脱いでおき、シャワーを浴び始めた。


「あ……」


 日和(ひより)の声がしたので振り向く。バスルームは全面ガラス張りなので中の様子が丸見えだ。この部屋は回遊動線かいゆうどうせんになっており、トイレ以外の各部屋が扉なしで繋がっている。おそらくシンクを探していてうっかり来てしまったのだろう。


「ごごご、ごめんなさい!」


 日和(ひより)は小動物のように走り去った。戌井(いぬい)は何もなかったことにしてシャワーを浴び続け、新しい服に着替えた。髪を黒く染めていたのでシャワー後は白髪に戻っている。戌井(いぬい)が濡れた髪を拭きながら部屋に戻ってくると、日和(ひより)は湯気が立ち上りそうなほど顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。


「ひよりんの紅茶美味しいよ~」

「もらおう」


 女子2人は窓際にあるデイベッドに並んで腰掛け、仲良く紅茶を飲んでいた。戌井(いぬい)は一人掛けの椅子に座り、センターテーブルに置いてあった紅茶を飲んだ。


「あと20分ほど瞑想させてくれ。2人はゆっくり風呂に入るといい」

「一緒に入ろうよ、ひよりん。女の子同士だし」


 日和(ひより)は顔を俯けて考え込んだ。猫屋敷(ねこやしき)は悲しげな表情をする。


「ダメ、かな……あたしが人狼だから……」

「お風呂に入る前に、お互い腹を割って話しておきたいです。でも戌井(いぬい)くんには休養が必要ですから……」

日和(ひより)さんを傷付けたら」と、戌井(いぬい)は言った。「俺が猫屋敷(ねこやしき)さんを殺す。必要な情報を聞き出してからな」

「そんなことしないもん!」


 日和(ひより)は立ち上がって猫屋敷(ねこやしき)の手を取った。


「お風呂に入るだけならかまいません。行きましょう」


 戌井(いぬい)は2人の背中を見届けた。日和(ひより)は人狼を惹き寄せてしまう体質なのだろうか。4月には戌井(いぬい)を見逃したばかりなのに、5月にはまた別の人狼を見逃すのかどうか葛藤かっとうしなければならない。戌井(いぬい)の方も、猫屋敷(ねこやしき)のことをもっとよく知る必要がある。彼女を始末するかどうかは日和(ひより)とよく話し合って決めることにしよう。


 戌井(いぬい)は紅茶をさらに一口飲んでから背もたれに沈み込み、瞑想にふけった。


 これから獅子丸(ししまる)に懸賞金を取り下げさせ、損害賠償も請求し、中間テストの勉強もしなければならない。考えるだけでげんなりしてしまう。それらを片付けたら今度は引っ越しの手続きをしなければならない。


 大体、動物園に行っただけなのにどうしてこんなことになってしまったのか? 態度には出さないが戌井(いぬい)もこの理不尽な状況に憤懣ふんまんやる方ない気分になっていた。こんな精神状態では何も考えられない。


 瞑想の本質は「問題解決」ではなく「受け入れる練習」だ。タスクが山積みで頭が混乱している状態も、まずはそのままの状態として受け入れる。


 最初の5分で外部の音や感覚を「ただある」ものとして受け入れる。次の10分では呼吸の微細な変化を観察。思考や感情が生まれては消えていく様子を観察する。そうすると最後の5分間ではすべての執着から解放される。


 もちろん彼には集中力がないので途中で何度か呼吸や意識が乱れるが、気付いたらゆっくり戻ればいいだけだ。完璧な瞑想を目指す必要はない。むしろそういった執着すらからも自由になるのが真の瞑想と言えよう。


 20分後、戌井(いぬい)は目を開けて立ち上がった。壁際の広いデスクに歩いていき、そこに置いてあるメモ帳にやることリストを書き出していく。バスルームの方ではシャワーの音は止んだが、穏やかな話し声と湯船の水のはねるかすかな音が聞こえる。


 バスルームにも窓があるから、のんびり湯船に浸かりながら景色でも楽しんでいるのだろう。仮に獅子丸(ししまる)の部下がこのホテルを突き止めていたとしても、バスルーム側の窓を見張る意味はあまりない。彼女達の好きにさせておこう。


「ねえねえ、戌井(いぬい)くんもこっちに来なよ!」猫屋敷(ねこやしき)が言った。「あたし達、バスタオル巻いてるから。こっちの景色見ながらお話したいな」

「……リビングで話し合えばいいだろう」

「あと冷たいストレートティー持ってきてね~」


 図々しい学級委員長だ。


「アカリちゃん、戌井(いぬい)くんを困らせちゃだめですよ。すみません無視してください」

「いや……持ってこよう」


 戌井(いぬい)はミニバーでアイスティーを作り、おぼんに乗せてバスルームへ運んでやった。2人の方はあまり見ないようにしながらガラス張りの戸を開けておぼんを床に置く。


「自分で取りに来い」


 戌井(いぬい)はバスルームの前にあるシンク台の席に腰掛けた。シンク台の上には2人の下着が置いてあったので、それも見ないよう横向きで座った。


「ありがと戌井(いぬい)くん、紳士だねえ」

日和(ひより)さんのためだ。色々と迷惑をかけたから」

「迷惑って、何のことですか?」


 戌井(いぬい)はその時だけ日和(ひより)の方を見た。


「君に相談せずに猫屋敷(ねこやしき)さんを助けた。赤熊隊長にも嘘を吐かせてしまった。すまない」


 彼がまっすぐ目を見つめるので、日和(ひより)はバスタオルの端をつかんで恥ずかしそうにした。


「それについては少し怒ってましたけど……いいんです。説明している時間はありませんでしたし」

「そもそもなんであたしを助けたの?」

「ウォールナットは俺の住所を突き止めた。それでこの裏にはもっと大物がいるんじゃないかと思ったんだ。日和(ひより)さんが獅子丸(ししまる)のことを怪しんでいたしな。案の定、奴が関わっていた。赤熊隊長に君を殺されたら獅子丸(ししまる)の情報は聞き出せない」

「情報のためってことね」

「そうだ。さっきの話の続きをしよう。……何の話をしていたんだっけ?」

戌井(いぬい)くんってちょっと抜けてるよね」


 やることリストの最初のタスクは獅子丸(ししまる)慎吾(しんご)のことを知ることだ。


獅子丸(ししまる)は麻薬ディーラーです」日和(ひより)が思い出させてくれた。「それも未知のドラッグを作ってる。アカリちゃんはその正体を知っているそうですね」

「その正体は……」


 猫屋敷(ねこやしき)はそこで言葉を止めて、自信がなさそうに話し始めた。


「獣化した人狼から抽出ちゅうしゅつできる中毒性物質なの」


 戌井(いぬい)日和(ひより)が眉間にシワを寄せるので猫屋敷(ねこやしき)はますます不安そうな顔になりながら言った。


「ほ、ほらっ。人狼は獣化する時に骨を砕きながら変異するから、激烈な痛みを伴うでしょ? 本来なら痛みで死ぬレベル。なのに獣化したくないと思うどころか、むしろあたし達は獣化する時の高揚感を求めている。戌井(いぬい)くんも覚えはない?」

「さあな。俺は人を喰わないせいで忘れっぽい。獣化するとハイになるというのは知っているが、その時の快感は忘れている」


 猫屋敷(ねこやしき)は驚きのあまりアイスティーを吹き出しそうになった。


「人を食べないなんて嘘でしょ? そんなの不可能だよ。人の味を知らないならありえるかもだけど……」

「荒治療をしたんだ。2年間檻の中にいた」

「そんなの、一時的にはやめられても普通はリバウンドしちゃうよ。あたしも一度RJ(レッドジャーキー)を断とうとしたけど精神的に不安定になるし、頭がボーッとするし、普通に生きるのだって難しくなるんだから」

「RJ……レッドジャーキー。人肉を食べているのですね」


 日和(ひより)猫屋敷(ねこやしき)に背を向けて、窓の方を見つめた。


「ひよりん……」

「ドラッグの話を続けてください」

「うん……。あたしは獣化する時の痛みの緩和と高揚感に注目した。何か仕組みがあるはずだって。それで人狼の遺体を解剖かいぼうしたの。獅子丸(ししまる)の命令で人狼を探して狩ることが多かったから。そしたら人狼は特殊な分泌液ぶんぴつえきで獣化の痛みを和らげていることがわかった。獣化するための特別仕様ね」

「人狼には毒も薬も効かないはずだが。しかし体内で自然分泌されるものには影響されるのか」

「そうね。人間に投与すると他のどんなドラッグよりもブッ飛べる。通称『ワイルドショット』。ジャンキーの間でもだんだん流行り始めていて、国内外の麻薬カルテルもこの薬に注目しているわ」


 日和(ひより)は窓の外を見つめながら言った。


「どうりで警察が捜査しても証拠が見つからなかったわけですね。成分分析をしても何なのかわかりませんし、人狼の体から分泌される物質という発想自体がありませんから」

「……信じてくれるの?」


 日和(ひより)は振り返りはしなかったが、窓ガラスに反射する猫屋敷(ねこやしき)を見つめて言った。


「『幹細胞と再生医療の最前線』『タンパク質工学の基礎と応用』『バイオマテリアルと人工臓器開発』『3D細胞培養の理論と実践』」

「そ、それって……」

「アカリちゃんが借りた本です。私、アカリちゃんが人狼だって知った時にこの本のことを思い出したんです。どうしてあの本を読んでいるんだろうって。タイトルだけを見る限り、『人工肉』に繋がりそうな研究書ですよね」


 日和(ひより)はそこでようやく振り返り、やや困ったような笑みを浮かべた。


「信じる……というよりは。アカリちゃんなら、未知のドラッグの秘密にも気付けるだろうって思っただけで――ひゃっ」


 猫屋敷(ねこやしき)日和(ひより)が言い終わる前に彼女の胸の中に飛び込んでいた。


「そう、そうなの。あたし、こんなこと誰も信じてくれないって思ってた。松鷹(まつたか)はあたしを利用することしか考えてないし、味方なんてどこにもいなくて……」


 猫屋敷(ねこやしき)は涙で息をつまらせながら言った。


「でも、本当にいいの? あたし、人狼だよ? ひよりんは預言者なんでしょ?」

「もう戌井(いぬい)くんを見逃してますし。人狼の中にも良い人がいるって知ってるから」

戌井(いぬい)くんは人を食べないけど、あたしは違う……ひよりんのことは絶対襲わないよ? でも……闇市場に流通しているRJ(レッドジャーキー)を入手したり、悪人を殺して肉を手に入れることはすると思う。でないと生きていけない……」


 猫屋敷(ねこやしき)アカリの頭脳を腐らせておくのはもったいない、と戌井(いぬい)も考えた。彼女はクラスのみんなのために便利なアプリを開発しただけでなく、人狼の未来をひらけるかもしれない。それを行うには記憶力と集中力が必要だ。


「できれば法律はおかしてほしくありません……法を犯せば警察が動き、警察が動けば自己保身のためにさらなる犯罪を重ねてしまうから……」

「じゃあ、食べるのは人狼だけにする。人狼なら殺しても法律違反にはならないし。預言者の近くにいれば人狼事件にたくさん関われるでしょ。ひよりんのことも守れるし」

「そう……ですね」

「やっぱり不安だよね? ジャンキーを信じるって言うようなものだもん」

「ううん。アカリちゃんは普通のジャンキーとは違います。学級委員としての責務も果たしているし、人工肉の研究で社会をより良くしようと頑張ってる。ちょっぴり不安ですけど……必ず守ります。アカリちゃんも、戌井(いぬい)くんも」


 戌井(いぬい)はそれを聞いて顔を上げ、日和(ひより)と目を合わせた。思わず微笑を浮かべると日和(ひより)は照れくさそうに目を逸らしてしまう。戌井(いぬい)は立ち上がってリビングに戻った。続きは2人が風呂を出てからにしよう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ