第45話 VS赤熊
戌井は片手で逆立ちになって赤熊隊長の刀をかわし、ブレイクダンスのように倒立状態で回転して鋭い足蹴りを返した。
赤熊隊長もつま先回転しながら後退し、戌井の蹴りを避けると同時にくるりと回って刀で斬り掛かってくる。
戌井はあえて赤熊隊長の方に向かって前転し、彼女のすぐ真下に潜り込むと跳び上がってアッパーカットを繰り出した。直撃させるつもりだったが、赤熊隊長はすんでのところで顔をそらし、顎をかすめただけだった。
赤熊隊長は息もつかせぬ連撃を繰り出した。つま先をくるくると回転させ、流れるような刀の軌跡を描く。ほんの少しでも隙を見せれば、どこか体の一部を切断されるだろう。戌井は顔を見られないようフードを押さえながら、切り裂くような気流の変化を嗅ぎつけてぎりぎりでかわした。
人狼の鋭敏な嗅覚は動きによって生じる、わずかな気流の変化をにおいで感知できる。におい分子は空気の流れに乗って移動するからだ。そして鼻は情報を脳に届ける最速のルート。他の感覚よりも速く、かつ相手の感情状態も含めて多くの情報を検知できる。
剣撃をかわし続けると赤熊隊長の動きに苛立ちが見えてきた。戌井はまるで未来を見ているかのように最小限の動きで避け続ける。しかもフードを押さえているのでほとんど前を見ていない。ただ気流の変化を嗅覚で感知し、目で見るより、音で聞くよりも素早く反応しているのだ。
戌井はじっと待った。赤熊隊長の攻撃のリズムにほころびが生じるまで。やがて、その時が来た。それまで防戦一方だった戌井は、一瞬の隙を見逃さず、赤熊隊長の手首を狙って鋭く足を振り上げた。刀が手からひっこ抜けて路地の壁にぶつかる音がする。
赤熊隊長はすぐに拳を握ると素手攻撃に切り替えた。女とは思えぬほど力強い拳だ。先ほどから休みなく攻撃を繰り出しているのにまるで衰えることがない。並の人間ならやられていただろうが、戌井は拳をパシリと受け止めると顎に肘鉄を喰らわせる。手加減はできなかった。赤熊隊長はなおも踏ん張って拳を突き出そうとしたが、急に動きを止めた。ふらりと膝をついてしまう。さっき顎をかすめたアッパーカットと、肘鉄が多少は脳を揺さぶったのだろう。立ち上がれるまで数秒かかるはずだ。
戌井は赤熊隊長の横を通り過ぎ、黒鶴の手を引いて路地裏の奥に走った。曲がり角では日和が待機していた。戌井は急いでレインコートを脱ぎ、小さく折りたたんで日和の持っていたエコバッグに突っ込んだ。さらに日和からキャップを受け取ると黒鶴の頭に無理やりおっかぶせる。
「待て!」
脳震盪から立ち直った赤熊隊長が追いついてきた。曲がり角にいた3人を見ると驚いた顔をする。
「ここで何をしているんだ!?」
「通信を聞いて心配になったので……」日和が言った。「今しがた2人組が走っていきましたよ」
「くそっ! 危ないからそこにいろ!」
戌井と黒鶴をちらりと見ただけで、赤熊隊長は走って行ってしまった。戌井の背丈はレインコートの男と一致していたし、黒鶴は帽子を被っただけで他の服装は同じだ。日和と一緒にいるだけで無条件に信用度が上がってしまうのだろう。
「どういうことだ?」黒鶴が言った。「なんで2人がここに……どうして俺を助けた?」
「ああ……赤熊隊長ごめんなさい……私は悪い預言者です……」
日和の言葉に黒鶴は目を丸くした。
「預言者なのか!?」
「こんなの聞いてませんよ、戌井くん!」
「説明は後だ。どこか別の場所で変装を解け、猫屋敷さん」
「「なっ……!」」
黒鶴と日和が同時に声を上げる。
「なんでわかった?」
「アカリちゃんなの……?」
黒鶴は申し訳なさそうに日和を見つめた。
☂
3人は電車に乗ってSTがうろついている場所から離れ、人気のない公園にやって来た。黒鶴は女子トイレで変装を解いている。
その間、戌井と日和はベンチに座って待っていた。日和は質問したいことが山ほどありそうだったが、戌井には休む時間が必要だった。ウォールナットとの戦いの直後、赤熊隊長との連戦はさすがに堪える。
日和はふくれっ面をしていた。赤熊隊長の邪魔をするとは思わなかったはずだ。つい一月前、日和は戌井を見逃すために、赤熊隊長に嘘の占い結果を報告をしている。その上、赤熊隊長を傷付け、他の人狼を逃がす手助けまでさせてしまった。
だから日和についてきてほしくなかったのだ。しかし何も言わずともフォローしてくれたことには感謝している。日和がいなければ事態はより面倒なことになっていただろう。
今も日和は戌井の疲れた様子を察したのか何も言わずにいてくれる。戌井は彼女が隣にいるだけで心地よさを覚えた。今のうちに目をつむって瞑想し、集中力の回復に努める。
しばらくしてトイレから出てきた黒鶴は別人になっていた。黒く短い髪だったのが、きなこ色に染められ、肩のあたりまで伸ばされていた。高身長に見えていたのに出てきたのは小柄な女の子、猫屋敷アカリだった。
「なんであたしだってわかったの?」
「においだ」
「ああ、そっか。においね」
「2人だけで納得しないでください」
日和は戌井のスマホのメモを見ながら言った。
「確かに黒鶴くんとアカリちゃんはどちらもラベンダーのにおいがすると書いてあります」
「昔、変装の達人に会ったことがある」と、戌井は言った。「見た目はもちろん歩き方も仕草も年齢すらも完璧に変えられる女だった。だが一つだけ変えられないものがあった。それがにおいだ」
「じゃあ、昨日の時点であたしと黒鶴が同一人物だって気付いてたの?」
「いや、確信は持っていなかった。獣の鼻で嗅いだわけじゃないからな。あとは違和感の積み重ねだ」
「あたし何か変なことしてた?」
「もう忘れた。日和さん、頼む」
「違和感は2つです」
日和は戌井のメモを見るだけで全てを推測したのか、当たり前のように説明を始めた。
「1つは昨日の午前中に休んだ理由を『月のもの』だって嘘をついたこと」
「なるほどね~、人狼は血のにおいで嘘かどうかわかっちゃうんだ」
「午前中は黒鶴くんに変装していたから、アカリちゃんとしては休む必要がありました。でもわざわざ午後に登校しなくてもよかったのでは? 黒鶴くん、午前中だけ来て、ジャージを借りて早退したことになりますよ」
「だって学校行きたかったんだもん。黒鶴は隠れ蓑に過ぎないから、変な生徒だって思われても別にいいの。あと少しで存在を抹消するつもりだったし」
「もう1つの違和感は黒鶴くんがジャージを借りたのに、アカリちゃんが返しに来たこと。これもアカリちゃんが学校に行きたかったから?」
「うん、多少不自然でもバレないって思ったから」
「なぜ猫屋敷アカリと黒鶴ナギ、2つの顔を持っているのですか?」
そこで戌井が口を挟んだ。
「一旦そこまでにしてくれ。ホテルを取りたい。家を壊されたし、身を潜める場所が必要だ。その前に確認しておくが、ウォールナットと君はなぜ俺を疑い、どうやって俺の住所を突き止めた?」
「あたし達は獅子丸慎吾の部下で、白狼を探すように命じられたの」
「獅子丸慎吾……やはり彼も関わっていたのですね」
「怪しんでたの?」
「動物園には大勢の人がいたのに、最初に狙われたのが人狼の剥製コレクターというのは出来すぎです。何か裏の顔があるかもって調べたら、麻薬課で過去に捜査されていましたね。それも徹底的に。でも……」
「証拠は見つからなかった」と、猫屋敷が言った。「あいつは麻薬ディーラーよ。でも普通の麻薬じゃない。今の薬物検査じゃ検出できない未知のドラッグ。中毒症状は存在するのに、原因物質が不明だった」
「ええ、捜査資料にもそう書いてありました」
「あたしはその正体を知っている。それは――」
「詳しい話は後だ」
戌井はさえぎった。難しい話をされても今は疲れていて頭に入ってこない。
「獅子丸の力があれば都内の賃貸物件情報にアクセスすることも可能か?」
「ええ、白狼を探すための手がかりがないから、まずはSNSでバズっている戌井くんを調査しようと思ったの。で、黒鶴に変装してジャージを借りるでしょ。そのにおいを松鷹――松鷹はウォールナットのことね――に嗅いでもらって戌井くんが白狼だと突き止めた。あとは君の言ったとおり。一緒に帰った時に戌井くんの乗る電車の路線を知ったから、不動産業界にいる獅子丸の部下に頼んで、その路線で15歳前後の白髪の少年が住む物件を絞り込めばいいだけ」
「わかった。君のケータイはプリペイドか? 追跡はされてないな?」
「それは問題ない。普段遣いのスマホは持ってきてないし」
「獅子丸の息のかかったホテルは特定できるか?」
「うーん、どうかな……正確には難しいかも」
日和が答えた。
「麻薬課のデータベースにありますよ。全て暗記しているので、そこは避けてホテルを検索しましょう」
「それはすごい。高級ホテルで3階以上の部屋がいい。金は俺が出す」
「高級ホテルで大丈夫ですか?」
「安いところは従業員の教育がなってないから、個人情報をべらべら喋る。高級ホテルならプライバシーの保護もしっかりしている」
「なるほど。3階以上というのは外から入りにくい高さだからですね。でも本当にお金は大丈夫ですか? 私、預言者のお仕事でいくらかもらってますので、お出ししますよ」
「いや、いい。なぜなら金は後で俺をこんな目に遭わせた奴に請求するからだ」
「戌井くんをこんな目に遭わせた人……」
「松鷹は大して持ってないよ」猫屋敷が言った。「あたしもだけど。まさか――」
戌井はベンチからすっくと立ち上がった。
「全ての元凶は獅子丸慎吾だ。俺に賞金をかけ、ウォールナットをけしかけて家を破壊した。中間テスト1週間前にな。奴には責任を取ってもらう」




