第43話 トライカラーの獣
「その前に怪我の手当てをします。戌井くんも素足じゃ危ないので、隣に座ってください」
日和はクローゼットの中の狭いスペースをぽんと叩いた。
「俺はいい。それよりウォールナットの話だ。どこで俺のにおいを嗅いだんだ?」
日和はむうと頬を膨らませた。
「怪我はちゃんと治さないとだめだって、以前私に言いましたよね? 戌井くんもそうしないとだめです」
「そんなこと言ってない」
「言いましたよ。私と記憶力で勝負するつもりですか?」
日和はおっとりしているように見えて、意外に押しが強い。相手のことを想っている故だとわかっているので悪い気はしなかったが。
「……わかった。手当てしながら話してくれ」
2人は狭いクローゼットに並んで腰掛けた。日和がストッキングを脱いで裂き、肩に巻いて止血してくれる。ほとんど密着しているので、彼女の胸元が呼吸に合わせて微かに上下するのが感じられた。そのぬくもりに安心感を覚えると共に、胸の奥がややざわつく。
「動物園の現場の手がかりから戌井くん=白狼だと特定するのは難しいかと思います」
日和が何事もなく話し始めるので戌井はその内容に集中した。
「いくらSNSでバズっているからといって、いきなり家に侵入してくるほどの確信を持てるとも考えられません」
「ウォールナットは動物園で俺のにおいを嗅いでいる。白狼の時のにおいだが。そのにおいと俺を結びつければいいわけだ」
「ここ数日の間に戌井くんに接触した人は誰ですか?」
戌井は1日に起きたことをスマホに逐一メモしていた。日記というほど整然としておらず、乱雑なメモだ。それを動物園事件から遡って見ようとしたが、集中力が持たなかった。
「頭に入ってこない。君が見てくれないか?」
「お任せください。ふむふむ……草鹿総一郎。スマトラトラの飼育員。動物園事件の翌日に会ってますね」
「そいつがウォールナットか?」
「いいえ、もしそうなら今頃襲ってくるのは変です。あれから1週間以上は経ってますし」
「なら最近会った奴だな」
「黒鶴ナギ君が怪しいです」
「誰だっけ?」
「昨日ジャージを貸したでしょう? 不登校だったのにGW明けにいきなり登校して、わざわざ面識のない戌井くんにジャージを要求しました」
「改めて口にするとかなり奇妙だな。他に候補は?」
「戌井くんは不用意に人を近付けませんから、他ににおいを嗅げそうな人は見当たりませんね。やはり黒鶴くんがウォールナットに繋がっている、と考えてよさそうです」
「奴自身がウォールナットだとは考えないのか?」
「戌井くんのにおいを嗅ぐだけなら、直接会って少し顔を近付ければよいだけです。偶然を装って廊下でぶつかり合うだけでも。でも彼はわざわざジャージを借りに来ました。ジャージについている戌井くんのにおいを他の誰か……ウォールナットに嗅いでもらうために」
「その翌日、ウォールナットは俺の住所を特定して襲撃してきた」
「ええ。もう一つ不可解なのが――」
その時、専用アプリの通信から男性隊員の声が響いた。
「警官から通報あり。オトハ公園のトイレ内にて2名の男を発見。1人は怪我をしており、もう1人を人狼と告発。もう1人の男は獣化して東南方面へ逃亡しました」
オトハ公園はこのマンションの近くにある小さな公園だ。あそこの遊具は汚れていて、トイレも汚いので基本的に人がいない、と戌井が地図に記したメモには書いてある。
「毛並みはトライカラー。ウォールナットではありません」
トライカラーとは黒、白、茶などの3色で構成された模様のことだ。三毛猫の犬版みたいなものである。
「別の人狼でもかまわん」と、赤熊隊長が返事をした。「手の空いている者はオトハから東南、150秒圏内のポイントを捜索せよ」
戌井はその通信内容を聞きながら、自分の最近のメモをぼんやり眺めた。黒鶴ナギはウォールナットと繋がっている。トライカラーの獣は何者なのか……
突然、あることに思い当たり彼はクローゼットを漁り始めた。
「戌井くん?」
「レインコートがあったはずだ。帽子もほしい。探してくれないか?」
「いいですけど……」
戌井はガラスの破片に気を付けながらトイレの洗面所に向かった。こちらは壊されておらず、鏡も問題なく使えた。鏡の裏にある戸棚から黒のヘアカラーワックスを取り出すと、手早く髪を染める。前髪を掻き上げながら洗面所を出ると、日和が黒いレインコートとキャップを手にしていた。
「雨は降ってませんよ。どうして黒髪に?」
「説明は後だ。君のスマホを借りたい。ちょっと外に出てくる」
「私も行きます」
「危険だ。赤熊隊長が来るまでここにいろ」
「嫌です。理由を説明してください」
押し問答をしている暇はない。
「仕方ない。玄関まで運ぶから抱えてもいいか?」
「へ? あ、はい、お願いします……」
少しかがみ込むと日和はまるで抵抗なく首に両腕を回してくる。戌井は彼女の背中と足に手を回して軽々と横抱きにした。
瓦礫に気を配りながら進み、玄関で日和を下ろす。2人は靴を履いてマンションの外廊下を進み、エレベーターに乗った。戌井はその中でレインコートを羽織り、フードを被った。
「帽子はそのまま持っててくれ」
「そろそろ理由を説明してほしいのですが……」
「トライカラーの人狼を探しに行く。この近くにいるはずだ」
エレベーターが1階についた時、日和のスマホから赤熊隊長の声が響いた。
『捜索中の隊員は全員、私の車の位置情報に集合しろ。路地裏に入るトライカラーを発見。おそらく着替え中だ。あの地図のおかげだな。戌井くんサンキュー!』
「赤熊隊長の車の位置情報はわかるか?」戌井が訊いた。
「ええ、わかりますけど……」
「急いで教えてくれ。頼む」
日和は戸惑いつつも手を動かしてくれる。預言者とSTは密に連携を取っていて、日和ならSTのサーバーにアクセスできる。赤熊隊長の車は戌井のマンション付近、走って1分ほどの場所で止まっていた。こちらへ向かっている途中でトライカラーの隠れそうな場所を探し回り、首尾よく見つけてしまったようだ。
「よりにもよって赤熊隊長か。走るぞ」
「え、ちょっと戌井くん!?」




