第42話 襲撃②
※冒頭は別人の視点
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松鷹は扉をこじ開けて中に入った。ラグビーでもやっていそうな肩幅の広い大男だ。
まず玄関に並んだ靴に目を向ける。小さいサイズのローファーが一足だけだ。戌井時雨は高身長の男だからこの靴は小さすぎる。
女のものか?
戌井はカフェでアルバイトをしている時だけ隈を消しており、その姿は松鷹から見ても眉目秀麗と言えた。女などよりどりみどりだろう。松鷹はそれだけでむかっ腹が立った。
何がトラを手懐けた男だ。ヒーロー気取りのガキめ。人狼なのはわかっているんだぞ。しょせんは人を喰う化け物のくせに。
松鷹は首筋に痛みを感じて歯を食いしばった。白狼に噛みつかれた傷が治りきっていないのだ。危うく生死の境目をさまよい、闇医者に高額の医療費を支払った挙げ句、貴重なRJを全て消費しなければならなかった。この落とし前は必ずつけてやる。
松鷹はサプレッサー付きのワルサーP22を握りしめた。22口径ロングライフル弾という小口径の弾を使用するため、発射音が小さいという特徴がある。
松鷹は玄関をまたいで廊下を忍び足で進んだ。廊下の途中に少し開いた扉があり、シャワーの音が聞こえてくる。留守かと思ったが、インターホンに応答できなかったのは入浴中だからだ。
リビングの方は暗い。仄かにミートソースのにおいがする。戌井は先ほどまで女と食事をしていたが、今は浴室でよろしくやっているのだと松鷹は考えた。
リビングをろくに見渡しもせず、脱衣所の中に入る。女の喘ぎ声は聞こえない。仲良くシャワーを浴びているだけなのか。どうでもいいことだ。まず戌井を撃ち、奴の目の前で女を喰ってやる。
浴室の扉を開けた。誰もいない。松鷹は反射的に振り返って拳銃をかまえた。戌井が音もなく迫っていた。その手には包丁。――この男何者だ? 銃口を見ていない。俺の目をまっすぐ見ている!
包丁が脇腹に突き刺さるのと同時に、松鷹は獣化した。体がみるみる隆起し、包丁が半ばで通らなくなる。痛みは気にならなかった。骨格が組み変わる激痛には慣れているし、獣化する際の酔いしれるような高揚感が痛みを和らげてくれる。
戌井の方も獣化したようだ。松鷹――ウォールナットの獣は戌井が白狼になりきる前に突進した。
白狼は脱衣所の壁に背中を打ち付け、壁を破壊しながらリビングに倒れ込んだ。ウォールナットは鉤爪を振り下ろした。が、白狼は腕で防御し、馬乗りになっているというのに凄まじい力でこちらを突き飛ばしてくる。白狼の方が一回りも体格が大きいのだ。
あっさり押しのけられたウォールナットはとっさに瓦礫をつかみ、ふと考えた。女はどこだ? においを嗅いでみる。
松鷹は内心ほくそ笑んだ。そこにいたか。
ウォールナットは瓦礫をクローゼットに向かって投げた。白狼がすばやく手を伸ばして瓦礫をつかんで粉砕する。思ったとおりだ。どういうわけか、戌井は女を守っている。人間の女を。
ウォールナットは続けて瓦礫を両手につかみ、2つ同時にぶん投げた。白狼はクローゼットに当たらないよう、左右の手でそれぞれ瓦礫を受け止める。その無防備な体勢を狙ってウォールナットは突進した。首筋に噛みつくため牙を剥く。
白狼の首に噛みついた。やったぞ! 動物園での借りを返してやる。
顎に力を込めようとするが、以前に噛みつかれた首筋と、先ほど刺された脇腹に白狼の鉤爪が食い込んでくる。的確に傷口を抉りながら押しのけてくるのでなかなか体重をかけられない。
バンッ
ウォールナットは目に激痛を覚えて後退った。もう一方の目でクローゼットの隙間から銃口を向ける少女の姿を捉えた。どういうことだ? 銃を持っているということは預言者か霊媒師? なぜ人狼と一緒にいるのだ?
混乱しながらもウォールナットは追撃を恐れ、瓦礫をつかんでクローゼットに投げた。白狼がその瓦礫を受け止めている間、ウォールナットは窓をぶち破ってバルコニーから飛び降りた。これ以上は争い合ってもSTに捕まる確率が高まるだけだ。
くそっ、くそっ、くそっ!
あらかじめ逃走ルートは考えてある。ウォールナットは人気のない路地を進み、戌井のマンション近くにある公園のトイレ裏に隠れた。
☂
白狼は鋭い歯を剥き出して低く唸った。
2度も同じ相手を取り逃がした挙げ句、家までめちゃくちゃにされて頭にきていた。バルコニーから飛び降りて追いかけたい衝動に駆られるが、クローゼットの扉をおずおずと開けて出てくる日和を見て思いとどまった。
街中をこの姿で駆け回るわけにはいかない。
夕暮れの光が割れた窓から差し込み、散らばった瓦礫や破壊された家具に長い影を落としていた。壁や床には深い爪痕が何本も刻まれ、脱衣所との境目の壁は完全に崩れている。戌井は瓦礫を脱衣所の方に押しのけてスペースを確保し、伏せをして変身が解けるのを待った。
日和は荒れ果てた部屋の有り様を見て悲痛な面持ちになった。ガラスを踏まないように気を付けながら床に顎をつけている白狼に近付き、鼻先あたりをよしよしと撫でてくる。戌井は基本的に触れられることが苦手だが、獣の姿の時はなぜかスキンシップしたくなる。尻尾を振り、いかにも気持ちよさそうに目を細め、小さな手の平に頬を寄せる。
「肩を噛まれてましたね。クローゼットの中にいた私を守るために……戌井くん1人ならウォールナットを倒せていたはずです」
戌井はふんと短く鼻を鳴らした。吐き出された息が日和の前髪を揺らす。
「ウォールナットはなぜ戌井くんを襲ったのでしょう? 白狼だとわかっていた……? そもそもどうやって住所を特定したのか……」
日和は首元のふさふさの毛にもたれかかり、考えることに夢中になっている。このままだと150秒後には大変なことになってしまうので、戌井はそれとなく体を揺らして長い爪でクローゼットを指差した。
日和は彼の言わんとしていることに気付いて頬を染める。
「そ、そうですね。あらかじめ着替えを取り出しておきます。シャツとズボンと、下着はこの引き出しでしょうか?」
日和はクローゼットの引き出しを開けて中身を見ると、慌てて閉じた。
「ごめんなさい! その、まだ時間はあるはずなのでシャワーを止めましょう。水道料金がもったいないです」
水道料金が何だというのか。壁や床、窓の修繕、新しい家具の購入にどれくらいかかるのだろう? 概算で50万円~100万円程度か。転居も考慮すると時間と金と労力のコストは計り知れない。また怒りが込み上げてきた。日和がシャワーを止めに行っている間に戌井は近くの瓦礫に噛みついて粉砕した。
日和は戻ってくるとクローゼットに向かったが、瓦礫にけつまづいて転びそうになった。戌井はすばやく手を伸ばして彼女の体を受け止めた。日和は大きな手の平の中で白狼を呆然と見上げる。
「あ、ありがとうございます……」
ガラスも散らばっていて危ないのに動き回りすぎだ。戌井は日和を手の平に乗せたままクローゼットの近くに持っていった。彼女はその中に入ると、扉を閉める前に大きな指を抱きしめた。
「どうして150秒なんでしょう? もっとモフモフしたいです」
日和は言ってからしまったという顔になって、クローゼットの扉を慌てて閉めてしまう。
戌井は抱きしめられた指をしばし見つめた後、伏せをして残りの1分ほど考えた。彼は戸惑いを覚えていた。日和は距離が近すぎだ。以前は白狼の姿を恐れていたのに、もう慣れてしまったらしい。人の姿の時には適度な距離感を保っているから、獣姿だと犬みたいな認識になってしまうのだろうか。
人に戻った。戌井はクローゼットの引き出しから下着を取り出し、日和が用意してくれたYシャツとズボンを身に着けた。
「もういいぞ」
日和がクローゼットを明けると、戌井はその中に入れておいた荷物からスマホを取り出す。
「あ、STには通報しておきました。すぐに検問を敷きたいですし、赤熊隊長が到着する頃には人の姿に戻っていると思ったので」
日和のスマホから赤熊隊長の声が響いている。彼女の端末にはSTの秘密通信を傍受できる機能が備わっており、先程から隊員同士のやり取りが聞こえていた。
「ありがとう。足元が危ないからクローゼットからは出るな」
「あの、1つ人狼のご意見をお聞かせ願いたいのですが」
「人狼の意見?」
「この周辺で人に戻るのに最適なポイントをいくつかご存知ですか? そこに捜査官を向かわせて目撃者を探そうかと」
「なるほど……何で思いつかなかったんだ? スクショを送ろう」
獣から人間に戻る時が最も無防備であるから、戌井はもしもの場合に備えて人気がなく、監視カメラの死角になっている場所を地図アプリにメモしていた。あちこちを散歩しながらついでにやっているので東京23区のほとんどを網羅している。着替えもその付近に隠しているほどの盤石ぶりだ。
「わ、これすごいですね! あらゆる人狼事件で有力な情報になりますよ」
「自分で自分の首を絞めている気分だが……」
「赤熊隊長に共有しても大丈夫ですか?」
「そうだな。俺は預言者に白出しされているわけだし、問題ないだろう」
「戌井くんを正式に雇えたらいいのに。これでよし……っと。次はここ数日の行動を振り返ってみましょう」
戌井は眉をひそめた。
「思うに」と、日和は言った。「ウォールナットはにおいで白狼を特定したのです」




