第41話 襲撃
翌日の放課後。戌井と日和は図書委員の当番だった。
委員会決めの時はずいぶん白熱したのを覚えている。男女1人ずつメンバーを出すのだが、まず日和が図書委員に決まると、ほぼクラスの半数以上の男子が立候補したのだ。戌井もその1人だった。男子たちは日和とお近付きになりたかったのかもしれないが、戌井は純粋に図書委員になりたかった。
人狼はみんな読書が好きだ。
眠れない人狼にとって、頭がおかしくなるほど長い夜を乗り越えるには人を喰うか、何かに熱中するしかない。人を喰わない場合はものすごいストレスだ。読書にはこの世のあらゆる娯楽よりもストレス軽減効果がある。
また、脳の前頭葉を活性化し、集中力や判断力も鍛えられる。小説なら共感能力を高め、感情をコントロールしたり、相手の立場になってものを考える力も養える。
だが今や読書をする人間などほぼ絶滅危惧種だ。短い動画に慣れたせいで本を読むような長い集中力が失われているのだろう。そしてそれは、|不確実なものに耐える力の低下にも繋がっている。現代人はすぐに答えを欲しがり、曖昧さに耐えられない。要するに自制心がないのだ。人狼が自制心を失えば破滅に繋がるのは言うまでもない。
これらの能力を高めるのに、読書は最適な行為である。人間社会に溶け込みたいと思っている人狼なら、本能的に本を求めるはずだ。
そういうわけで、戌井はどうせなら読書時間の増える図書委員になりたかった。男子の立候補者が多いためジャンケンになったのだが、戌井は驚異的な動体視力で相手の出す手を瞬時に見極め、最後の1人になるまで勝ち抜いた。
「今日は2人が当番なんだ? いっぱい借りるからよろしく~」
猫屋敷がカウンターの上にどさりと本を置いた。『幹細胞と再生医療の最前線』『タンパク質工学の基礎と応用』『バイオマテリアルと人工臓器開発』『3D細胞培養の理論と実践』。
「難しそうな本ばかりですね」日和が言った。「それに分厚い。持って帰るの大変そうです」
「まあねえ。でも読みたい気持ちを抑えきれにゃい」
「駅までなら一緒に持ちますよ。図書委員が終わってからになりますけど」
「ほんと? ひよりん天使だにゃ~」
「んっ……アカリちゃんくすぐったいです」
猫屋敷は日和に抱きついて頬ずりしている。
「来週から中間テストがあるのに」と、戌井が言った。「読んでる暇があるのか?」
「うん、あるよ。勉強得意だもん」
「ほう。何か特別な勉強法があるのか?」
「特別かどうかはわからないけど、ポモドーロタイマーとかいいよ。25分集中して5分休憩するやつ」
「後で調べておこう」
戌井はスマホにメモしておいた。
「真面目にゃ。戌井くん、将来の夢とかあるの? 目指してる大学とか」
「ない。ただ集中力と記憶力をどこまで高められるか試している」
「なにそれ。まあ、君って忘れっぽいことで有名だからねえ。あ、そうそう、あたしも忘れるところだった」
猫屋敷は一度テーブルに戻ると、そこに置いてあった鞄から戌井のジャージ袋を取り出した。
「黒鶴くんから代わりに返してほしいって頼まれたの」
「なんで直接来ないんだ?」
「彼、不登校気味だから。出席日数足りなくて留年したんじゃなかったかな。昨日来たって聞いた時にはびっくりしちゃった」
「そんなふうには見えなかったがな」
「毎日学校に来てそうな雰囲気出すの上手いからね~」
「あれ? でも……」
日和が何かを思い出そうと唇に指を当てた。
「不登校とのことですが、黒鶴くんはどうして隈のない戌井くんがかっこい――」
日和はそこで言葉を切り、戌井の方を見て頬を染めた。
「い、いえ、もちろん隈があっても素敵ですが……って、そうではなく! 不登校にしては戌井くんのことをよく知っている様子だったので、そこが少し気になりますね」
戌井の方は黒鶴が何と言っていたのかなんて覚えていなかった。日和の記憶力にはいつも驚かされる。
「あー、それはあたしがアイツに話したからかも」
「黒鶴くんと仲が良いんですか?」
「別に。幼馴染だから何となく面倒見てあげてるだけ。アイツの方が1つ上なのにしっかりしてほしいにゃ」
「普通は学校を休むと気まずくなってしまいますよね。他クラスの子からジャージを借りるなんてできません。ましてや他の子から返してもらうなんて」
「それだけふてぶてしく振る舞えるなら、学校に来ればいいのに」戌井が言った。
「アイツにも色々あるんだろうけど、その辺の事情はあたしもよくわからないにゃあ」
猫屋敷は急にそわそわし始めた。
「じゃ、あたしはあそこで本読んでるから。委員会終わったら一緒に帰ろ~」
日和が本のバーコードを読み取り、貸出手続きを済ませると猫屋敷はそそくさとテーブルに戻っていった。
☂
3人は駅前の開放的なカフェ『リバーブ・リトリート』に寄ることにした。
「戌井くん、ここの有名人らしいねー。ファンクラブあるの知ってた?」
「ああ」
戌井は不本意そうに唸った。
「非公式だし、本人には迷惑かけないって規約あるから、あんまり害はないはずだよ」
本当に害がないなら戌井は気にしない。賞金目当ての人狼に襲われるきっかけになったし、今後も様々な災いのもとになるだろう。しかし戌井といえどもSNSの大きな流れを変えることはできない。ままならないことなら無視するだけだ。
「ファンクラブのことにずいぶん詳しいんだな」
「ふふーん」
猫屋敷はいたずらっぽい笑みを浮かべて、日和にこそこそ話をした。戌井は読唇術の心得があるので、彼女がなんと言っているのかわかった。「クラスの女子のほとんどは会員」らしい。日和は目を見開き、気の毒そうにこちらを見つめてくる。
本格的にバイト先を変えたくなったが、アイスティーを飲むとその作り方に思いを馳せてしまい、ようやく仕事に慣れてきたのにもったいなく感じてしまう。それにコーヒーや紅茶の香りを嗅ぐのが好きなのだ。トラを巡る噂も、白狼の賞金も一時的なものだろう。こんなことで辞めるべきではないと戌井は思った。
それに今のもっぱらの課題は中間テストだ。彼にとっては初めての定期試験。高校生たるもの、全力で望まねばならない。
「それより中間テストの相談をしていいか? 日本史はどこを覚えればいいんだ?」
「全部だね」
「丸暗記しかないのか?」
「残念ながら。でもあるモノを使えば君も集中力を高めて効率的に勉強できるよ。興味はあるかな?」
「違法ドラッグはダメですよ?」
「安心して。ただのWEBアプリだから。その名もユイシロ・マスターにゃ」
猫屋敷がスマホの画面を見せてきた。日本史の教科書が穴埋め問題になっているようだ。
「日本史だけじゃなくて全教科網羅してるよ。今回の試験範囲だけだけどね。正答率はもちろん、学習の進捗や継続日数なんかも自動で統計してくれるにゃ。しかもタイマー機能付き」
「すごいな。君が作ったのか?」
「まあね。プログラミング的には難しい処理はないし。問題文の入力に手間がかかるくらい」
「ぜひ使わせてくれ」
「アカウント登録用のURL送るね。試しにやってみたら? 一番正答率高かった人には2人から奢られるってことで」
「戌井くんに不利じゃないですか? 私はハンデを付けてもいいですよ。3問ミスしたらお二人に奢ります」
「ひよりん、それは強者の発言」
「受けて立とう」
結果は日和の圧勝だった。彼女は50問中、全問正解で、猫屋敷は47問、戌井は5問正解だ。
「うわあ……なんか逆に奢りたくなってきたにゃ」
「私……戌井くんがちゃんと勉強してること知ってますよ。ただ暗記が不得意なだけで……この勝負はなかったことにしましょう」
「同情するな。負けは負けだ」
毎日復習しているのに、この結果には正直焦った。記憶力と集中力のハンデがあるとはいえ、根本的に学習方法を間違えているなら改善しなければならない。それが気付けただけで良しとしよう。
「頼もしい学級委員長だ」
「ストレートに褒められると照れるにゃ」
「このアプリでクラスの偏差値が底上げされるのでは?」
「もう何人かには渡してるよ。あたしとしては成果が出たら就活のアピールに繋がるし、どんどん使ってほしいにゃ」
世の中にはとんでもない人間がいるものだ。戌井は猫屋敷と出会えたことに感謝した。
3人はその後、他愛のないお喋りをし、『リトリト』を出て駅に向かった。猫屋敷だけ別の路線の電車に乗るため別れ、戌井と日和は同じ電車に乗った。2人は同じ駅で降り、スーパーで夕食の材料を買ってから戌井の家に向かう。
恋人でもないのに当たり前のように夕食を共にするのは奇妙に思われるだろうが、2人は自然とそうなっている。始めのうち、日和は戌井への恩を返すために料理を振る舞ってくれた。戌井はただ友人と過ごす時間や食事に楽しみを見出すために料理を習いたいと思った。日和もそんな彼の気持ちを知ってこの時間を楽しんでくれている。2人の関係は信じられないほど純真だった。
今日はミートパスタとコンソメスープ、ほうれん草の炒め物を作った。日和の提案でゆで卵を固めに茹で、それをおろし金ですりおろしたものをソースの上からふりかけた。料理をテーブルに並べ、二人で「いただきます」を言って食べ始める。
「ゆで卵が美味しい。レストランとかだとあまり見ないトッピングだ」
「母がミートパスタを作る時には必ずついていたんです。父と兄が亡くなるまでは……」
日和は母との関係があまり良くない。暗い空気になりかけたので彼女は慌てて言った。
「いえ、なんでもないです。ゆで卵、まだ残っているのでどうぞ」
「全部かけよう」
インターホンが鳴ったのはその時だ。戌井はネットで何かを購入したりしない。彼は箸を置き、厳しい目付きで玄関を睨みつけた。
「配達じゃない」と彼は言った。
「何かの勧誘でしょうか……それか白狼の賞金目当ての人かも」
「居留守を使おう」
インターホンは2回鳴った。戌井は耳をそばだてたが、一向に遠ざかる足音は聞こえなかった。かすかに金属の擦れる音が聞こえる。戌井はすっくと立ち上がった。
「入ってくるつもりだ」
「え?」
「ピッキングしている。本当に留守だと思って、家の中で待ち伏せするつもりらしい」
戌井が声を潜めて言うので日和もつられてささやき声になった。
「でも私達はここにいますよ」
「ああ。待ち伏せされるのは奴の方だ」
戌井は台所に行ってまだ洗っていない包丁を手に取った。日和がそれを見ていよいよ緊張した面持ちになる。
「警察を呼んだって叫べば逃げてくれるのでは……」
「そしたら日を改めてまたやってくるだけだ。ここで捕まえて、正体を確かめてやる」
「わ……わかりました。それなら拳銃を突きつけて――」
「だめだ。拳銃を見た時点で逃げるかもしれないし、人狼だったら君が預言者だってバレる」
戌井は彼女に向かってゴミ袋を投げて寄越した。
「テーブルの上のものを全部袋に入れて、ゴミ箱に入れてくれ。食器も何もかもだ。ついさっきまで食事中だったとわからないように」
日和が疑問を口にしようとしたが、戌井はさえぎるように言葉を重ねた。
「理由を話している暇はない。頼む」
戌井はそう行って浴室に向かい、シャワーのハンドルを最大まで回した。その水で包丁についていた野菜の切れ端を洗い流す。シャワーを出しっぱなしにしたまま浴室の扉を閉め、脱衣所の扉はほんの少し開けた状態にしておいた。
リビングに戻ると日和はテーブルの上のものをあらかた片付け、最後のフォークをゴミ袋に入れているところだった。袋の中にある食べかけのパスタを見て悲しげな顔をしている。
普通の女の子ならパニックに陥ってもおかしくない状況だが、日和は食べ物のことなんか心配している。拳銃を所持しているから自分でも対処できると思っているのか、それとも戌井なら何とかしてくれると信じてくれているのか。どちらにせよ冷静でいてくれるのはありがたい。
戌井は彼女からゴミ袋を受け取り、ゴミ箱の中に皿が割れぬようそっと入れた。それからリビングの電気を消した。玄関扉の外からは電気が消えたことはわからないだろう。侵入者は相変わらず部屋の中には誰もいないと思っている。
「クローゼットの中に隠れよう。自分の荷物も持って」
先に日和を中へ入れた後、戌井も体をねじ込ませた。決して広くはないのでお互いに体を密着させる格好になる。
「すまない」
「い、いえ……」




