第40話 猫屋敷さん
GW明けの朝の教室。
今日は1限目から、連休中に出されていた宿題の範囲でテストがあった。手応えは……まあまあだ。
気持ちを切り替えて、次の授業に臨むために集中力を回復しなければならない。戌井は腕を組んで目をつむり瞑想にふけっていた。すると肩をぽんと叩かれた。目を開けなくても、においで雉真だとわかる。彼には昼休み以外、余程のことがない限り話しかけるなと言ってあるが、なんだろうか。戌井は目を開けた。
「起こしてすまんな。黒鶴がお前にジャージを貸してほしいんだとよ」
「黒鶴?」
目の前に背の高い男子生徒が立っていた。細身で中性的な顔立ち。ほのかにラベンダーの香りがする。同じ教室の生徒ではないことはわかるが、誰だろう? クラスメイトの顔と名前も覚えていないのに、他クラスの生徒のことなどまるでわからない。
「黒鶴ナギだ。3組の」と、彼は爽やかな笑みを浮かべた。
「なんで俺のことを知っているんだ?」
「そりゃあ君は目立つからね。見た目も特徴的だし、一時期は学校中でイケメンって騒がれてただろ。その隈消せばいいのに」
「目立つから嫌だ。ジャージか。貸してもいいがわざわざ俺に頼まなくても」
「身長が同じくらいだから、戌井のがいいかなって。明日洗って返すから、頼むよ」
断る理由はない。戌井は頷き、立ち上がって廊下に向かった。ロッカーからジャージの入った袋を取り出すと、「別に洗わなくてもいい」と言って手渡した。
「いやいや、ちゃんと洗うよ。ありがとな!」
☂️
昼休みになると、戌井は手作り弁当を持って人通りの少ない廊下の隅で日和と落ち合った。
以前は彼女に手作り弁当を持ってきてもらい、雉真に受け取りを頼んでいたが、そんな手間をかけられたのも以て2週間だ。始めのうちは雉真も面白がっていたが、すぐに飽きて「2人で直接やり取りしてくれ」と言われてしまった。
戌井は人目を気にしていないが、日和はこのことを他のクラスメイトに知られたくないようだ。雉真曰く、彼女のような美人はちょっとしたことでよくない噂を立てられ、友達作りに支障をきたすのだという。日和にとっては由々《ゆゆ》しきことだ。彼女の今の目標は女の子の友達を作ることなのだから。
そこまで気にするなら昼食を各自で用意すればいいのに――そう思わないでもないが、戌井も彼女の料理がないと物足りなくなってしまった。今では一方的に作ってもらうだけでなく、交代して弁当を作っている。今日は戌井の番だ。といっても、昨日の夕方に日和と一緒に作り置いたものを温めて箱に詰めただけだが。
戌井はすれ違いざまにさりげなく弁当を日和に差し出した。彼女も歩みをとめず流れるような仕草で弁当を受け取る。怪しげなブツの受け渡しをしているみたいだった。
「にゃ!? 今お弁当受け渡ししなかった!?」
猫屋敷アカリに見つかってしまった。戌井達のクラスの学級委員長だ。きなこ色の癖っ毛が肩のあたりではねていて、その髪と同じくらい軽やかで親しみやすい雰囲気の女の子だった。
戌井は落ち着いていた。日和の方はビクッと肩を震わせ、犯罪を目撃されたような顔で立ちすくんでいる。
猫屋敷は戌井と日和を交互に見て、「ふうん」と意味ありげに口角を上げた。
「ひよりん、隅に置けないねえ」
「ち、違うんです猫屋敷さん!」
日和は弁当箱を背中の後ろに隠すと、もじもじしながら言った。
「私と戌井くんはただのお友達です」
「ただのお友達同士で手作り弁当、渡したりするかにゃー。てか戌井くんから渡してなかった?」
「今日は俺が作る番なんだ」
「手作り弁当交代制? 斬新だねー」
「今日はお休みかと思ってました。体調は大丈夫なんですか?」
「うん。月のものだから休もうかなって思ってたんだけど」
「月のもの?」戌井は首をかしげた。
「言わせないでよ、女子のお腹痛い日のこと。聖書だと月のものって言い方するんだよ。なんかかっこよくない?」
生理のことだろう。ある年齢以上の女からは月に何日か、濃く甘い血のにおいがする。
だが、猫屋敷から血のにおいはしなかった。彼女からただよってくるにおいと言えば、ほのかなラベンダーの香りだけだ。猫屋敷は午前中休んだ理由について嘘を吐いていることになる。なぜだ?
戌井はある可能性に思い至ったが、確信は持てなかったし、それが何を意味するのかもわからなかった。たがこのことは心に留めておくことにしよう。
「今は痛みもマシになったから、午後は学校がんばろうと思ったの。ほらっ、学級委員長が休んでたら面目立たないでしょ? まさかこんな場面に遭遇するとは思わなかったけど」
「うう、お願いです猫屋敷さん。このことはくれぐれも内密に……」
「他の女子達にバレたらヤバいもんね~。まだ入学して1ヶ月くらいしか経ってないのにもう彼氏ぃ? しかも隈がなければ国宝級にイケメンなあの戌井くんとぉ? やっぱひよりんってアバズレなんだぁ。とか言われちゃうにゃ」
「おい」
戌井は不愉快そうに猫屋敷を睨んだ。彼女は「怖っ」と言って、日和の後ろに隠れた。
「あたしはひよりんのこと悪く思ってないよ? ただ女子は周りの目を気にする生き物だから、戌井くんはそこを気遣ってあげなきゃだめにゃ」
「メモしておこう」
「真面目にゃ」
「あの、猫屋敷さん」日和が言った。
「アカリでいいよー」
「アカリちゃん。も、もしよければ……一緒にお昼ごはん食べませんか?」
「もちろんにゃ! 前からひよりんとお喋りしたいなあって思ってたの」
「ほ、本当ですか? 私もアカリちゃんのこと気になってて……」
日和は目を輝かせた。女の子の友達ができて嬉しそうだ。
「じゃあ、俺は屋上に行くから」
「せっかくだしみんなで食べようよー。戌井くんに聞きたいこともあるし」
「何のことだ?」
猫屋敷はそれには答えず、日和と腕を組みながらどんどん階段を上っていく。
戌井は仕方なく彼女たちの後ろをついていった。屋上では雉真が先に弁当を食べていた。女子2人と戌井が歩いてくるのを見て、雉真は何かを察したらしい。箸の先をピッと向けてくる。
「当ててやろうか? 弁当渡すところ見られたんだろ?」
「当ったり~。雉真くんも知ってたんだ」
「この2人は猫屋敷さんが思っているような関係じゃないぜ。大体、戌井には恋愛の概念がないし」
「え? どういうこと?」
雉真はくいとメガネを上げた。
「俺が検証した限り、こいつは恋愛にまつわる話をされると3つの反応を示すことがわかっている。無視するか、記憶が飛んでなかったことにするか、急に耳が遠くなる。この3つのどれかだ。なあ、戌井?」
戌井は猫屋敷に向かって言った。
「俺に聞きたいことがあると言ってたな」
「今のは、完全無視だ」
「うん、聞きたいことっていうのはね……」
「2人とも俺を無視しないで」
猫屋敷はスマホを取り出し、ネットニュースの画面を見せてくる。清水野動物園で起こった事件の記事だ。
「これ、戌井くんのことだよね? トラを手懐けた謎の若者って」
「いや違う」
「頑なに否定するんだよなあ。こんな見た目のやつお前しかいねえよ」
「俺じゃない」
「ひよりんも戌井くんだと思うよね? なんで隠すの?」
「あの……それは違うと思います。戌井くんはその日、私と一緒に出かけてましたから」
雉真と猫屋敷は顔を見合せた。
「じゃあデートしてたの?」
「食事をしただけです。動物園には行ってません」
雉真が言った。「日和さんがそう言うなら別人かあ。だとしたらお前のそっくりさんだな」
「そいつのせいで記者が押しかけてきて大変だった」
あれから事件について話を聞きたいという人間が何人も訪れたが、戌井は辛抱強く別人だと説明した。幸い、女記者とずんぐり男のような大胆な襲撃をしてくる者はいない。今のところは。
「でも……」
猫屋敷はまだ何か言いたげだったが、小さく首を振って空を仰いだ。
「絶対戌井くんだと思ったのに。違ったかあ」
「トラを手懐けた男も気になるけどさ」雉真が言った。「誰が白狼を捕まえるのかも気になるよな。賞金1億だぜ」
「でも手がかりはなさそうですし、白狼を捕まえるのは難しいと思いますよ」日和が言った。
「だよなあ。だけど何で白狼だけなんだ? 現場にはウォールナットの毛もあったんだろ? なんでそいつには賞金をかけないんだ?」
「展示品としての価値がないからでしょ。ウォールナットって中途半端な黒って感じだし」
猫屋敷の口調にはどこか嫌悪感が含まれていた。
「みんな白いものが好きなのよ」
「ユリカモメもちやほやされてるもんな。冬にしか来ねえ渡り鳥のくせに、ハシブト先輩を差し置いて都鳥なんて呼ばれてよ」
「ハシブト先輩って誰?」
「ハシブトガラスのこと。世界中を見てもカラスがこんなに多い町は東京くらいなもんだぜ」
「あんまりありがたくないね」
「ユリカモメも中身はカラスと同じか、それ以上にタチが悪いんだぞ。カラスがヤクザなら、ユリカモメは海外マフィアだ。いつか東京の制空権を巡って仁義なき戦いが起きるかもしれない」
「へえ、逆に見てみたいかも。一度痛い目に遭わないと人間学ばないしねー」
「人間のエゴに振り回される方は可哀想だけどな。白狼も悪い奴じゃないかもしれないのに。現場には人狼同士で争った形跡があったんだろ? なんとなくだけど、白狼がウォールナットを止めてくれたんじゃないかな」
「人狼なんだから悪いやつに決まってるでしょ」猫屋敷が言った。「人を食べない人狼なんてありえないし」
「そうかもしれないけどさ」
「絶対浮気しない一途なイケメンくらいありえないよ」
「おっと、そいつはどうかな」
なぜか雉真がしたり顔で見つめてくるので戌井は眉をひそめた。




