第4話 占い宣言
チャイムが鳴る。戌井は深い海の底から急に引き上げられたような感覚を味わった。まずい、ほとんど内容を覚えていない。
この日は先生の自己紹介や授業の進め方を聞かされただけだが、本格的な授業に入れば大問題だ。対策を考えねばならない。授業中にこっそり瞑想して集中力をこまめに回復すればあるいは……
「いぬいー。屋上で昼飯にしようぜ」
雉真がランチクロスに包まれた弁当箱を見せつけながら声をかけてくる。腕を組んで考え事をしていた戌井は、ゆっくり顔を上げ、寝起きの犬のように目を細めた。
「1人で食べればいい」
「まるで俺に他の友達がいないみたいな言い方するな。お前と食べたいの」
「俺は1人がいい」
戌井はカバンからコンビニの袋を取り出して立ち上がり、廊下に出た。
「どこ行くんだ?」
「屋上」
「じゃあ俺と食えや」
雉真は屋上まで付いてきた。フェンスのところにあるちょうど良い段差に腰掛けると、雉真も当たり前のように隣に座ってくる。
「へえ、鮭と梅おにぎりねえ。お前、一人暮らしなの?」
無視しようかと思ったがさすがに悪い気がしてきた。別に雉真が嫌いなわけではない。むしろ弱いくせに不良達からツバメを守ろうとしたことには好感を持っている。少々うるさいが。
「ああ、一人暮らしだ」
「いいなあ。そのうち遊びに行かせろよ」
「来るな」
「そういう時は『また今度な』って答えるんだぞ。まったくこの子は社交辞令ってもんを知らないんだから。一人暮らしは食生活が乱れるから気を付けなさいよ」
人狼はあらゆる病気にかからない、という性質がある。腹を満たす必要はあるが、栄養分が偏っていても病気になる心配はない。とはいえ人肉を食べないと色々な面で不調は発生してしまうが。
「ところでお前、部活とか入ったりすんの?」
「漫研」
「お、いいね。でも意外だな。漫画読むイメージないのに」
「あんまり読んだことない。絵を描くのが好きなんだ」
「お前の描くイラスト全く想像できねえ。すげえ興味ある。なあ見せてくれよ」
「……だめだ」
「うーん、もうちょい好感度上げなきゃだめか。俺も漫研入ろうかな……? いやでも俺はGHQ部だからなあ」
「そんな部活あったか?」
「Go Home Quickly――つまり、帰宅部だ。連合国軍最高司令官総司令部のことじゃないぜ」
「なんて?」
「日本史で習わなかったのか? いつか役に立つからメモしておけよ」
戌井はスマホを取り出し、雉真の情報に帰宅部と追記した。
「あ、こらっ。GHQ部だって言ってんだろ。帰宅部だと舐められるからかっこよく言い換えなきゃダメなんだ。名前のイメージは大事なんだぞ。『中古車』と『プレオウンドカー』だと同じものなのに後者の方が価値が高く聞こえるだろ? IPAも認めている『ラベリング』っていう印象操作テクニックだ」
「IPA?」
「プロパガンダ分析機構」
「へえ」
戌井は普通に興味を持ってしまった。人狼というラベルはなんと言い換えれば、悪いイメージを払拭できるだろう? 人間と獣、二つの魂を持つ特別な存在だから『双魂使い』? 古来より月の女神に選ばれし者で闇から人々を守るために与えられた力という物語を付け加えて『月の守護者』とか?
「おい、何ぼーっとしてんだ」
「なんでもない。だが、覚えておこう」
「意外と素直だよな。お前」
☂
「じゃあ俺は帰るけど、漫研部の雰囲気がゆるゆるかどうか教えろよな」
「ゆるゆる?」
「そう、ゆるい部活なら30分くらい絵を描いて帰るのもいいなって。連絡先教えるから、ゆるゆるかガチガチか報告するように」
「めんどくさい」
「いいからQRコード出しな」
断るのも面倒だったので連絡先を交換してやると、雉真は満足そうに教室を出ていった。
5分だけ瞑想をした後、戌井は荷物をまとめて教室を出た。すると猿渡日和がそっと後をついてくる。彼女は学校に来てからずっと戌井の様子をうかがっていたが、話しかける素振りを見せてはやめるのを繰り返していた。ただ恥ずかしがっているという雰囲気ではない。何か重要な話を切り出そうとしているが、ためらっている。そんな様子だ。
戌井が横目で見ると日和は両手を胸の前で組みながら、自然な動きで足を速めていく。ジャスミンティーの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「戌井くんも漫研部ですか?」
日和は胸の前にあった手を背後に回し、いかにも気さくな調子で話しかけてきた。
戌井はどう反応すべきか考えた。猿渡日和は預言者だ。それはメモ帳には書いてないが、重要な情報なので記憶に刻み込まれている。彼女の態度からは嫌なものを感じた。どう思われようと完全に無視することもできるが、日和に今後も付きまとわれるのは面倒だし、ここらで真意を確かめておかねばならない。
「人の会話を盗み聞きしていたのか?」
「それについては申し訳ありません。私も漫研部に興味があったのでつい……戌井くんと一緒で嬉しいなって」
その言葉は本心のようにも聞こえたが、日和の表情はどこかもの悲しげに見えた。
「どんな漫画がお好きなんですか?」
「漫画は読まない。絵を描くだけだ」
「なんだか意外です。1人で黙々と描いてそうなイメージだったので。もしかして漫研部に好きな絵柄の先輩がいるとか?」
「いる。でも名前を思い出せない」
戌井は手に漫研部の冊子を持っていた。
「文化祭の時にこれの表紙を描いていた」
「それなら青山羊部長ですね。あの方の絵は平凡な日常をどこか懐かしく描くのが魅力だと思います。そう思いませんか?」
「ああ」
「でも不思議ですよね。実際には体験したこともないのに懐かしいと感じるなんて」
「この表紙は美術室での活動を描いている。中学の時に似たような体験をしたはずだ」
「私は部活に入っていなくて……その、預言者のお仕事があったので」
部活に入ってないということはGHQ部だ。そんな冗談が口をついて出かけたがやめておいた。彼女とお喋りを楽しみたいわけではない。それに預言者はただ家に帰るだけではないだろう。
「放課後はひたすら銃の訓練をしてました。それに人狼事件に巻き込まれて転校することも多かったんです。だから、普通の高校生活には少し憧れがあります」
「青山羊部長の絵に惹かれるのは、懐かしさというよりは憧れかもしれない」
「どういうことです?」
「憧れも懐かしさも、望みを手に入れてないという状態では似ている。俺も君も平凡な日常に憧れているから、青山羊部長の絵に心を惹かれる」
「なるほど……戌井くんも普通の学校生活を送れなかった?」
「病弱だったからな」
「中学3年まで。それにしては凄い身体能力ですよね」
戌井は階段の踊り場で立ち止まった。西日が窓から差し込み、踊り場に長い影を落としていた。校庭のざわめきは遠くに聞こえ、ここだけ時間が止まったような静けさがある。
日和は一段下に立ち、見上げるような姿勢になっていた。戌井が無言で見下ろしていると、彼女はまっすぐこちらを見つめて言った。
「戌井くんのことは調べさせていただきました。書類上では怪しい点はありませんが、病気を克服して約半年であの身のこなしには違和感があります。白狼が現れるタイミングもあなたがいなくなってすぐでしたし。それに現場に残った服の切れ端を分析したところ、戌井くんのDNAが検出されました」
「慌てて逃げたからあの辺で転んだような気がする。その時に汗とか皮膚の一部とかが付着したんだろう。あの布切れは最初からそこにあったんじゃないか」
「ええ、これについては何とでも説明できるでしょう。全て状況証拠に過ぎません」
「俺が白狼なら」と、戌井はあえて言った。「なぜ預言者を助けるんだ? こうして疑われる危険を犯してまで君を助ける理由がない」
「そうなんです! それがどうしてもわかりません」
日和は勢いよく階段を一段登って戌井と同じ踊り場に立った。
「なぜ私を助けたのですか?」
「俺は人間だからだ。人狼なら助けない」
「私もそう信じたいです……でも、信じるためには一度疑わねばなりません」
戌井は次に何を言われるのかわかっていた。西日に照らされた彼女の瞳が透き通るように輝いている。
「13日後の満月の夜、あなたを占います」