第38話 戌井、ファンに会う
上半身裸になると、日和の息を呑む音が聞こえる。
「これ……背中を擦りむいたなんて嘘ですよね?」
「人狼に引っかかれたんだ。そして現場には2人の人狼の争った形跡がある。ブラスターが見たら、俺が白狼じゃないかって言い出すだろうな。血液検査されたらおしまいだ」
「預言者が白だと言ってるのに?」
「あいつはなぜか俺のことを執拗に疑っているからな。そのうち君が俺に情を移し、嘘の預言をしたと考え始めるんじゃないか」
「そんな……」
「白狼に肩入れするような発言もやめた方がいい」
「わかっています。でも……戌井くんのおかげでみんな助かったのに」
「君が知ってくれてる。それで満足だ」
日和は鏡越しに戌井の目を見つめた。恐る恐る、濡らしたハンカチで血を拭き取る。
「……痛くないですか?」
「ひと思いに手早くやってくれ」
「わかりました。痛かったら教えてくださいね」
戌井は目をつむって痛みに耐えた。傷口を綺麗にするとガーゼを当てて包帯を巻いていく。
それが終わると日和は戌井の背中にある紫色のくぼみに指を這わせた。銃弾が掠めた時の傷痕だ。日和の小さな指先の動きを意識すると、否が応でもぞくぞくとした感覚が駆け巡る。
戌井は振り返った。日和は慌てて手を引っ込め、顔を赤らめる。
「あ、ごめんなさい……戌井くんの背中、他にも色んな傷痕がありますね。凄く痛かったでしょう?」
「もう過ぎたことだ」
「普通の生活を手に入れるために尋常ではない苦労をしてきたはずです。なのにこんなことに巻き込まれて……私が動物園に行きたいなんて言ったから」
「君のせいじゃない。むしろ俺達がいたおかげで惨劇を食い止められた。犯人の姿も見たしな。ウォールナット色の毛並みで、首筋を深く負傷している。性別はわからないが」
「では都内の病院に連絡して、首を怪我している患者が来てないか確認しましょう。ウォールナットですか……人狼データベースに載ってるかも」
「何かわかったら教えてくれ。俺は先に帰る。君も早めに切り上げて、赤熊隊長に車で送ってもらえ」
戌井がシャツのボタンを閉めていると、日和が言った。
「あの、後で夕食作りに行ってもよいですか? 戌井くん、怪我をしてますし」
「君も煙を吸って気分が悪いだろう」
「大丈夫です。少し息苦しいだけで……夕方までには治りますよ」
「顔色が悪い。お互い家で安静にしていよう」
「今日は戌井くんと1日過ごす予定だったのに……残念です……」
戌井は少し考えてから言った。
「だが通話しながら『けもクラ』ならできる。雉真も誘って、3人で遊ぶか」
日和は嬉しそうに微笑んだ。「ええ、そうしましょう」
☂
次の日の午後は『リバーブ・リトリート』――愛称『リトリト』でバイトだった。学校の最寄り駅の近くにある開放的なカフェだ。
午前中は宿題や中間テストに向けた勉強をし、午後はバイト、その他の時間は散歩や運動やお絵描きに費やす、というのが戌井のGW中の過ごし方だった。
1日中出かける用事があったのは昨日の動物園の時だけだ。せっかくの休みも事件に巻き込まれたせいで楽しめず、怪我まで負ってしまった。動物園から帰った後はずっと安静にしていたので傷は塞がったが、まだ背中にヒリヒリとした痛みを感じる。
「あのう、戌井くんですよね?」
男性客にリトリト・ラテを提供するところだった。戌井がシフトに入っている間はいつも女性客が大勢並んでいるので、男性客はしり込みしていなくなってしまう。戌井はその男を見つめた。常連客の顔さえ覚えていなかった。金色と黒の混ざった髪の男で、トラみたいだなと思っていたら、彼が続けて言った。
「僕、トラの飼育員なんですけど。あなたにお礼が言いたくてですね」
戌井は険しい顔をした。全くぴんときてないが、飼育員と言えばあの事件で会ったのだろう。名前を知っているのは、日和が戌井の名を口にするのを聞いたからだ。ではどうやってこの場所を突き止めたのか?
「戌井くん、笑顔。笑顔」
先輩の女の子が小声で注意してきた。
「すみません」と、戌井は表情を和らげてトラの飼育員に向かって言った。「あ10分で仕事上がりますので、待っていただけますか?」
「ええ、もちろんです」
10分後、戌井は隈を消すためのコンシーラーを洗い落として、店内でトラの飼育員を探した。
「こっちです」と男が手を挙げた。「隈、ない方がかっこいいのに」
「なぜこの店がわかったんですか?」
戌井の端的な物言いに面食らったようだが、男は柔和な笑みを浮かべて答えた。
「あの事件が報道されてから、トラを手懐けた謎の男は君じゃないかって話題になっているんですよ。SNS上でね。もしかして君のファンクラブあるの知らない?」
「ファンクラブ……?」
「隈がなければ国宝級のイケメン店員としてSNSで拡散されてますよ。常連客の間で作られた非公式のファンクラブが大きくなったみたいですね。それでファンの子達がトラを手懐けた若者と戌井くんの見た目が一致すると話題にしているんです」
ニュースでも自分のことが話題になっていることは知っていた。被害者達の何人かが朦朧としながらもトラをなだめる戌井を目撃しており、白髪に隈のある背の高い若者と証言したらしい。だが名前までは名乗らなかったので、その正体は誰も知らないはずだ。そう思っていた。
「けっこうバズってますよ~。僕もカフェにいる君の写真を見て、こうして会いに来たわけです。プラムが人を襲っていたら殺処分になっていたでしょう。止めてくれて本当にありがとう」
「いえ……」
「ちなみに僕もファンクラブの会員になりましてね。このコーヒーカップにサインいただいても? ソウイチロウ君へって書いてください。あ、僕、草鹿総一郎って言うんですけど」
「俺のことを他の誰かに話しましたか?」
「いいえ。何人かの記者に聞かれましたが、迷惑かなと思いまして」
戌井は安堵した。SNS上で大きな噂になったのは想定外だが、あくまでも噂は噂だ。放っておけばいい。
「俺のことは誰にも言わないでください。騒がれるのは好きじゃないんです」
「わかりました。プラムの恩人は、僕の恩人ですから。困らせたくはありません」
「プラムは元気ですか?」
「ストレスで少し体調を崩していますが、問題ないと思いますよ。それより動物園の経営の方がピンチですね。展示場は修繕して煙幕対策をしないといけないし、危険物を探知するセキュリティゲートも設置するよう要請されてます。あんな事件があった後ではしばらく人も来ないでしょうし。寄付金だけでやりくりするのも限界がある。サイアク廃園するかも……って、こんな話されても困りますよね。忘れてください」
可哀想な話だが、戌井にはどうしようもない。
「ではこれで」
戌井は立ち去ろうとしたが、草鹿総一郎はサインペンを持ったまま期待するようなまなざしを向けてくる。
「……なんて書けばいいんでしたっけ?」
「ソウイチロウ君へ、と。カタカナでいいですよ」
戌井はコーヒーカップにその通りに記載した。
「あああぁあありがとうございます。休みの日はこのカフェに通うようにしますね」
戌井は別のバイト先を探そうかと考え始めていた。
☂
カフェを出て駅に向かう途中で、何者かの視線を感じた。
横目でちらりと見るとスーツ姿の女だ。靴は歩きやすいもので、靴先がすり減っている。この手の輩は大体、警察か記者のどちらかだ。
尾行してくる理由は動物園の事件関連だろう。この女もSNSから戌井のバイト先を突き止めたのだ。それなら、なぜすぐに声をかけてこない? このまま尾行して、住所を特定する気だろうか?
警察ならこんな回りくどいことはしない。となると記者ということになるが、声をかけてこないのはやはり妙だ。取材を断りにくいように家まで押しかけたいのかもしれないが、戌井がトラを手懐けた男だとも確定していないのに、いきなりそこまでやるとは考えにくい。
尾行を撒く方が簡単だ。が、戌井は何かが引っかかり、女の正体を確かめねばならないと思った。駅には向かわず、大型書店に入った。本を探すふりをして1時間ほどゆっくりしていると、しびれを切らしたのか女が声をかけてくる。
「あのお~、失礼します。陽報新聞の者ですけどぉ。動物園の事件についてお話がありましてぇ」
女はできるだけくだけた口調でこちらの警戒を解こうとしていた。戌井はうんざりしたような顔を向ける。
「ああ、またですか」
「また、というと?」
「トラを手懐けたのは俺じゃないですよ。他人の空似ってやつです」
「でもォ、こんなに特徴が一致するなんてあるんですかね~? 髪の色や大きな隈は百歩譲るとしてぇ、高身長ってところはちょーおっと出来すぎじゃありません?」
甲高い声で苛つく喋り方をする女だ。戌井は不愉快さを隠そうともせず言った。
「そう言われましてもね。昨日は友達と食事に行ってたんで、動物園には行ってないんですよ」
「なんで隠すんですか~? あなた、凶暴なトラから怪我人を救ったヒーローでしょう? 取材を受ければみんなから賞賛されて、進学も就職も有利になるんじゃありません? もちろん謝礼も出しますし」
「それは確かに魅力的ですが、嘘を吐いても罪悪感に苦しむだけです。本当に行ってないんですよ。どうすれば信じてくれるんです?」
すると女は周りを気にするように視線を巡らせた。
「ここだけの話、あなたが本物でなくてもかまわないんです。本物はどうやらメディア嫌いみたいですし、別人が名乗り出ても気にしないと思いますよ。それにあなたの方が素材としては完ぺきよ。隈がなければ信じられないほど端正な顔立ちをしているから、メディアに出ればとんでもない有名人になれるはず」
「お話になりませんね」
戌井は呆れ果てて歩き出した。女が後をついてくる。戌井は書店の裏手にある暗い路地で立ち止まり、壁に背を向けてもたれかかった。
「いくら貰えるんです? 前金をいただければ考えましょう」
女はにやりと笑った。バッグから財布を取り出した瞬間、戌井は手を伸ばして財布をもぎ取った。
「ちょっと!」
財布から運転免許証を取り出し、スマホで写真に撮る。
「あんたの名前と住所はわかった。どういう意味かわかるな?」戌井は言った。「質問に答えろ。俺を尾行した本当の目的は何だ?」
「何を言ってるの? さっき言ったじゃない。あなたがトラを手懐けた若者だと思ったからよ」
「ならどうしてさっさと声をかけてこない?」
「それは……声をかけるタイミングを見計らっていたからよ」
「それにしては遅すぎる。本屋に1時間もいたのに、あんたは一向に声をかけてこなかった。何を企んでいる?」
「あなた変よ。どうやら相手を間違えたようね。トラから人を救ったヒーローはあなたじゃない」
「わかってくれて何よりだ」
「財布と免許証を返して」
戌井はあっさりと返却した。
「はあ。こんな目に遭うなんてサイテー」
女はそう悪態をつきながら踵を返した。財布をしまうためにバッグに手を入れたまま。
女がくるりと振り返った。まるで「あ、そうだ」と言いたげな、自然な動きだった。違和感に気付くよりも早く、女はつかつかと戌井の懐へ入り込む。
バチッ
スタンガンの電極から紫電がはじける。皮膚の焦げるにおいが鼻を刺した。
「ぐっ……!」
戌井は後方の壁に背中を打ちつけ、ずるずると地面に座り込んだ。 足裏からアスファルトの冷たさがじわりと染みてくる。




