第37話 動物園事件②
スマトラトラの檻の中には柔らかい土が敷き詰められ、草が豊かに茂っている。
戌井は草むらの中を転がり、すぐさま入り組んだ大木に手をかけて身を持ち直した。
檻の中には煙は充満していないので相手の姿が見える。毛並みはウォールナット。影の中ではほとんど黒色だが、光が差した部分には赤みや金色が現れる。首の付け根は今、おびただしい血で鮮やかな赤色に染まっていた。
「なぜ邪魔をする!?」と、ウォールナットの獣が言った。
邪魔をしたのはそっちだろう。せっかくの休日を台無しにされて、戌井は苛立っていた。問答無用で飛びかかろうとした時、トラの鳴き声が聞こえた。ウォールナットのすぐ後ろから。何かが暴れているかのように土埃が巻き上がっている。
戌井は本能的に後ろへ下がった。同時にウォールナットがトラをぶん投げてきた。
戌井は慌ててトラを抱きとめた。暴れまくるので首根っこを適切な力で押さえて宙ぶらりんにする。トラより白狼の方が大きいので、まるで子猫のようだった。戌井が唸り声を上げると、トラは大人しくなった。
ウォールナットはその隙に煙が充満しているトンネル内に戻ったようだ。致命傷を負わせたので戦う力がないのだろう。人を食べれば怪我を癒せるが、おそらくそうはしないはずだ。
強化ガラスが割れたおかげで空間が広くなり、トンネル内の煙の濃度が低下している。人を食べて変身時間も延長してしまうと、その間にどんどん煙が薄くなり、人に戻るところを見られるリスクも高くなる。
そろそろ150秒が経つ。戌井の方も服を着る準備をしておかねばならない。彼はスマトラトラを地面に下ろし、トンネル内に戻った。煙はやや薄まっているが、まだ人が影のように見える程度だ。においを辿って日和を見つけると、数秒後に人間へ戻った。
日和は壁際に座り込んでいた。スタングレネードによる衝撃と、煙幕に含まれる有害な成分を吸って意識が朦朧としているのだろう。最悪の気分だったろうに、彼女は戌井の荷物から着替えを取り出して、膝の上に置いてくれていた。
戌井は手早く着替えると日和を抱えあげ、壁伝いに進んでトンネルの外に出た。
「戌井くん……」
「喋るな。病院に連れて行く」
トンネルの外にはちらほらと人がいた。スタングレネードから立ち直った人々がほうほうのていで出てきたのだろう。救急車もこちらに向かっているはずだ。
トンネルは入口から赤い煙を吐き出し続けている。が、かなり煙が薄れてきた。中は酷いありさまだ。日和と同じように閃光と煙で健康被害を受けた人々が寝っ転がってうめき声を上げている。
しかし見たところ、獣に喰われた死人はいない。犯人は戌井より先に人間に戻ったはずだ。この騒ぎのどさくさに紛れて、とっくに逃げているだろう。まさに煙のように消えた。
「君、トンネルから出てきたが大丈夫かい!?」
飼育員と思しき男が駆け寄ってきた。他の人々は話せる状態ではないので声をかけてきたようだ。
「俺は平気です。早く他のみんなを外へ。スタングレネードと煙幕で意識が朦朧としているだけです」
「ガラスの割れる音がしたと聞いたが……まさかプラムが外に……?」
悲鳴が聞こえた。「た、助けてくれ!」
そう言えば、一人だけ喰われかけた人間がいる。
トンネル内に目を向けると腕を負傷した男がいた。40代くらいの身なりの良い紳士。豊かな金褐色の髪を後ろに流し、こめかみの部分だけが風格ある銀色に変わり始めていた。その髪型は獅子のたてがみを思わせる存在感があり、整えられながらも野性味を感じさせた。
その紳士は人狼に掴まれた時に鉤爪で腕を裂かれたのだろう。夥しい血が滴り落ちている。そして、その前方にはスマトラトラがいる。
スマトラトラは赤い煙を見て興奮していた。目の前には血のにおいのする人間。食欲をそそられているというよりは、投げられたショックで気が立っており、一番弱そうな相手を威嚇して安心したいのだろう。
「そんな、プラム! やめるんだ!」
飼育員の男は頭を抱えて嘆くばかりだ。こんな時にどうすればいいのかなんて、誰にもわからない。
「通報はしましたよね?」戌井が訊いた。
「え? ああ、もちろん! 早く来てくれぇ……!」
スマトラトラのプラムは唸り声を上げて、じりじりと負傷した紳士に近付いている。警察とSTの到着を待っていたら犠牲者が出てしまうだろう。
「時間を稼ぎます。彼女を安全な場所へ」
「へ?」
飼育員に日和を抱えさせると、彼女が「だめ……」と弱々しく袖をつかんできた。戌井は「大丈夫だ」と言ってトラの方へ歩いていった。
トラはずんずんやって来た戌井に驚いて後ずさった。戌井はトラの目をまっすぐに見つめた。ほんの少しの躊躇いも恐れも見せない。
「俺のにおいを覚えているか?」と語りかけ、ゆっくりと手の平をトラに差し出す。
トラは戌井の手の近くで牙を剥いた。誰もが噛みつかれると思った。だがトラはその手のにおいを嗅ぐと、さきほど自分を屈服させた白狼だとわかったようだ。戌井のことを自分より強い存在であり、かつ味方だと認めたのだろう。甘えるように頬ずりをしてくる。
「良い子だ。こっちに来い」
戌井が檻の中に入るとトラもついてくる。トラが伏せをしたので、戌井も隣にかがみ込んだ。奇跡でも目撃したような顔をしている飼育員に手を振って、「今のうちに避難を」とジェスチャーを送る。
☂
まもなく警察と救急隊員が到着し、トンネル内で倒れている被害者たちを連れて行った。
安全を確保した後、戌井はスマトラトラからゆっくり距離を取り、飼育員が長い棒にぶら下げたウサギの肉で寝室に誘導した。その間、万一のために狙撃手がトラに狙いを定めていた。頼むから大人しく戻ってくれ、と戌井は心の中で祈った。トラがウサギの肉を追って寝室に飛び込むと、遠隔でシャッターが下ろされた。戌井はそれを見届けると、トンネルを出た。
霊媒師ブラスターがトンネルの外で待ち受けていた。液晶パネルを顔面にくっつけたスーツ姿の男だ。パネルにはニコニコ笑顔が浮かんでいる。ブラスターはゆっくりと拍手しながら言った。
「お見事! まさかトラを手懐けるとは。あなたには驚かされてばかりですよ」
戌井は露骨に眉をしかめた。よくも顔を見せられたものだ。
「お前の出番はないぞ」戌井は言った。「死人はいないからな」
「人狼事件なら死体の有無に関わらず私の管轄です。サニー君は未成年ですから大人の相棒が不可欠ですしねえ。言っておきますが、サニー君の一番の相棒は私ですよ」
「何を張り合っているんだね?」
預言者サニー、もとい日和は服を着替えたようだ。オーバーサイズのミリタリージャケットにガスマスク。2つとも普段持ち歩くにはかさばるので、ブラスターに持ってきてもらったのだろう。顔面パネル男と並ぶと、奇妙でお似合いのバディに見える。
「怪我はないかい? 戌井くん」
戌井は背中に鋭い痛みを感じた。
「背中を少し擦りむいたようだ。包帯とガーゼがあれば自分で手当てできる」
ウォールナットの獣に背中を引っかかれて痛みを感じていた。獣化状態の時はぶ厚い皮膚と被毛で守られているので、傷はそんなに深くないはずだ。
「どうして擦りむいたんです?」ブラスターが言った。「他の被害者達は呼吸困難を訴えていますが外傷はほとんどありませんでしたよ。重傷を負ったのは1人だけ。どれ、私が傷を見てあげましょう」
「近付くな」
「これも捜査の一環です。あれをご覧なさい。こっちです。ほらっ、白い毛が落ちているでしょ? あなたの髪のように白い」
血の付いた白い毛が落ちていた。ウォールナットに毛を毟られたのだろう。くそ。
「どうやら犯人は怪我をしているようですねえ。負傷した人間は調べておかないと」
「戌井くんは白だよ。忘れたのかい?」サニーが言った。
戌井は預言者から正式な白出しを受けており、公式のデータベースにも記録されている。
「おっとそうでした。でも傷は見ておきたいですね。何か手がかりになるかも」
ブラスターが両手を広げ、爪を立てた動物のようなポーズを取る。もし近付いてきたら液晶パネルを割ってやる、と戌井は拳を握りしめた。
サニーが戌井を守るように立ちふさがった。
「そ、それならぼくが見ておくよ。包帯巻くのも手伝ってあげたいし。それよりここに別の毛が落ちてるよ。色が違う。黒っぽい。別の人狼だ」
ブラスターは地面に腹ばいになり、ウォールナット色の毛をまじまじと見て言った。
「これも血がついてます。周りの大量の血痕から見て、かなり大怪我をしていると見える」
「血が広範囲に飛び散ってるから、高所から落ちてきたみたいだね」サニーが言った。「首の辺りとか、体の上部を白狼に噛みつかれたのかもしれない」
「つまり……2匹の獣が煙の中で争っていた。なぜそんなことを?」
ブラスターは細い目をパネルに映して戌井の方を見た。
「どう思います? 時雨くん」
「俺に聞くな」
「白狼といえば受験の日にぼくを助けてくれた」サニーが言った。「今回もきっと人狼の犯行を止めてくれたんだよ。おかげで死人はゼロだ」
「たしかその現場には時雨くんもいましたよねえ? サニー君、こっそりDNA鑑定してませんでした?」
「あ、あれは何でもなかったよ。結局、占いで人間だと証明できたわけだし」
戌井はこれ以上、この話題を続けたくなかった。
「傷を手当てして帰る」
「待って。ぼくが包帯とかもらってくるよ」
サニーは歩き出そうとしたがふらついてしまった。
「君はまだ休んでいろ」
「大丈夫だよ。煙を吸いすぎたかな」
「逆に何でそこまでぴんぴんしているんですかねえ? 人狼なら毒ガスの中も平気で動けますけど」
「息を止めるのは得意だ」
「世界記録に挑戦したらどうです? このパネル、タイマー機能もありましてね。立ち会ってあげますよ」
戌井はブラスターを無視して救急隊員のもとに行き、包帯とガーゼを受け取った。
「よければ傷を見ますけど」と、救急隊員が言った。
「おかまいなく。他の被害者を診てあげてください」
サニーが男子トイレの方を指差した。
「あそこで傷を見よう。今は誰もいないし」
男子トイレに着くと、サニーはミリタリージャケットを脱ぎ、ガスマスクを外した。マスクの中は暑いのか、日和のあどけない顔がやや紅潮している。
「ふう。こんなことならマスクを持ってくるべきでした。マスクがあれば煙を吸わずに済んだのに」
「かさばらないか、それ」
「ブラスターさんに作ってもらったんですが……今度、軽量化できないか相談してみます。では傷を見せてください」
戌井はシャツを脱いだ。




