第36話 動物園事件①
今日は猿渡日和と清水野動物園に行く約束をしている。
戌井時雨は約束の1時間前に清水野自然公園にやってきて、公園をのんびり歩き回り、待ち合わせ場所である不知火池の前で待っていた。
この池では冬にはユリカモメが飛来し、マナーの悪い人間が大量の食パン耳をばらまいて騒がしくしている。それが全ての原因ではないが、東京都心部のユリカモメは最盛期には7万羽近くもいる。ハシブトガラスの2倍強の数だ。そのユリカモメもGWの時期になるといなくなるので、池は静かだった。新しく芽吹いたハスの葉が瑞々しさを感じさせる。
日和が手を振りながらこちらに向かってくるのを目の端でとらえた。Tシャツにスカート、スニーカーとカジュアルな格好だが、彼女が着ると華やかに見える。漆黒の髪は腰まで滑らかに伸び、光を受けると僅かに青みがかって輝いている。戌井はその髪からふわりと漂う、ジャスミンティーの香りが好きだった。
「お待たせしてすみません」
「今来たところだ」
本当は1時間前に来ていたが、散歩をしていただけなので彼の中では待ったうちに入らない。
「君の分のチケットだ。代金は後でいい」
日和はまるで天に感謝するように手を合わせた。
「ありがとうございます! 今日は楽しみですね」
「そうだな」
2人は清水野動物園に入った。
動物園に行こう、と言い出したのは日和だった。戌井が清水野自然公園でよく散歩していると言ったところ、日和がその公園内にある動物園に行きたがったのだ。
GWは動物園が最も混雑する時期なので戌井としてはあまり気乗りしない。が、日和と過ごすこと自体が穏やかな気持ちになれるので、時期も場所も大した問題ではないと考えた。
「私、動物園に来るのは初めてなんです」と、日和が言った。「肉食動物を見るのが怖くて……」
日和は預言者だ。満月の夜に一度だけ、対象の人間が人狼かどうかを占うことができる。人狼からすれば、自分の秘密を暴こうとする者を殺したいと思うのは自然なことだ。
日和は幼い頃から人狼に何度も襲われてきた。だから肉食動物に対して、普通の人間より真に迫った恐れを抱いているのだろう。
「ならやめておいた方がいいんじゃないか?」
「戌井くんと一緒なら平気です。だって、あなたの方がライオンより強そうですし」
獣化すればライオンより遥かに体格が大きいので、勝つ自信はある。そんなことしたいとは思わないが。
日和は戌井が人狼であることを知っている。知った上で見逃してくれている。彼女とは始め、奇妙にゆるい敵対関係にあったが、今では戌井について秘密を共有する共犯関係だ。そしてただの友達だ。
戌井は園内マップを見ながら言った。
「ここにライオンはいないようだ。一番強そうなのはスマトラトラだな」
「ではその子を見ることができれば、他の肉食動物も平気なはず。よし……!」
日和は今から戦いにでも行くような調子で拳を固めている。
スマトラトラの展示場は、鬱蒼としたジャングルといった雰囲気だ。通路はトンネル状になっており、熱帯雨林の入り組んだ大木の下にいるかのように薄暗い。
GW中のため展示場は大勢の人間で賑わっていた。みんな動物がよく見える強化ガラスの前に集まっているので、後ろの方は押し合いへし合いするほどではない。
戌井は背が高いので、後ろの方からでもトラを眺められる。
スマトラトラの名前はプラム君。黒い縞模様が多く、色が濃いのが特徴だ。プラムはやや落ち着きがない様子で、ガラスの近くを左右に行ったり来たりしていた。日和も人混みの隙間からトラを見ようと行ったり来たりしており、その動きが見事にトラとリンクしているので、戌井はつい口元をほころばせた。
彼は小さいサイズのスケッチブックを取り出すと小さな長方形を描き、その中に日和とトラの様子をラフスケッチした。帰ったら続きを描こう。光や影の付き方も観察してささっと描いていく。写真を撮る方が早いが、写真だと後から見ても自分の思い出という感じがしない。簡単にでも絵を描くことで記憶に残りやすくなるのだ。
しばらくすると日和が駆け寄ってきた。縋り付くように袖をぎゅっとつかんでくる。
「め、目が……一瞬目が合いました! 獲物を捉えた獣の瞳……」
「檻の中にいるから平気だ」
「ええ、わかってます。でも早く退散しましょう」
日和は園内マップを開いた。
「戌井くんの見たい動物はいますか?」
「アイアイだ」
「あの有名なお猿さん。私も猿なのでちょっと嬉しいです」
「君は猿じゃないと思うが」
彼女の名字は『猿渡』なので、そのことを言っているのだろう。しかし誰も彼女を『猿渡さん』とは呼ばない。単純に呼びにくいし、彼女を猿の名で呼ぶことは何だか畏れ多いような気がするからだ。
「なぜアイアイが好きなんです?」
「親近感を覚える。悪魔の使いと呼ばれて絶滅まで追い込まれたらしい」
「あ……」
日和は何かを察して悲しげな表情になった。戌井が人狼である自分の境遇とアイアイを重ね合わせているのだと思ったらしい。
「君が思っているほど感傷的にはなっていないが」と、戌井は言った。「アイアイを見るのは最後にしよう。どうせ最後に見た動物しか覚えてないから」
戌井は人を食べないせいで忘れっぽくなっている。人狼は眠れない。寝不足の人間の脳みそは酔っ払いとほぼ同じだ。常に集中力と記憶力が低下している。
人を喰えば眠った後のようにスッキリできるだろうが、その代わりにどうやって人を喰おうかと四六時中考えるようになる。そんなことに煩わされるくらいなら喰わない方がマシだ。衰えた能力は日々の瞑想や散歩、その他、科学的に推奨されている方法を地道に続ければいくらかは補える。
「わかりました」と言って、日和は園内マップを眺めた。「ではお猿さん繋がりで、次はゴリラ――――――」
何も聞こえなくなった。それに何も見えない。
凄まじい音だったが、爆弾ではない。スタングレネードだ。
視覚と聴覚を奪われただけでなく、死にたくなるほど酷い気分にさせられた。戌井はこの衝撃で、闘病時代の記憶を呼び覚まされた。薬の副作用でぐるぐるとした目眩と吐き気に襲われた時のことを。今、この場にいる全員がそんな気分を味わっているわけだ。
それは犯人も同じだ。遠くから何かをぶん投げればかなり目立つ。目撃者を作りたくないなら、犯人もこの場にいて、人混みの中でさりげなく手榴弾を落としたに違いない。
何のために? ここは動物園だ。銀行ではない。金目当てではないのなら――
狩り。
人狼の仕業か。
やがて音が戻ってきたが、真っ白だった視界が今度は炎のように鮮やかな赤に染まっていた。においの方が視覚情報より早く脳に届く。煙幕のにおいだ。
犯人はまずスタングレネードを投げ、その間に煙幕を張った。トラの展示場の通路はトンネル状になっているので、煙がこもりやすく、150秒はみんなを煙に巻けるだろう。誰にも見られず獣化し、食事を済ませ、人間に戻って服を着るまでの時間は十分ある。
今なら戌井も同じことができる。彼は視界が真っ白になった瞬間に日和の肩をつかみ、壁に押し付けていた。
閃光と音のショックがいくらか和らぐと自分の荷物を彼女の手に託し、服が破れるのもかまわず獣化した。
普通の人々はまだショック状態で動けないだろう。いち早く立ち直ったのは戌井と、こうなることを知っていた犯人だけだ。うかつに動くと人を踏み潰してしまうので、動かず、鼻をひくつかせ血のにおいを探した。すでに人を喰っているのなら、犯人はそこにいる。
斜め前方、手の届くところにいた。わずかな煙のゆらぎで、大きな獣がそこにいるとわかる。戌井は人を踏まないようにすり足で一歩進むと、手を伸ばしてそいつの頭をわし掴んだ。それで大体の構造は把握できたので、すばやく踏み出して首筋に噛みついた。
煙の中の獣は他にも人狼がいるとは思っていなかっただろう。たとえいたとしても、邪魔をしてくるなどとは言うに及ばず。
煙の中の獣が苦しみの声を上げ、おそらく手に掴んでいた人間を手放した。いつもなら脊髄を即座に切断できるが、視界が悪いため狙いが正確ではなかった。獣は暴れ、戌井の白い毛に覆われた背中を引っ掻いた。鋭い痛みを感じたが力は緩めず、がっちり相手の体にしがみつき、首に噛みつき続けた。
獣は強化ガラスに何度も頭を打ち付けた。何度も何度も。
強化ガラスは一点集中の力に弱い。ヒビが入ると、瞬く間に全てが一気に割れた。戌井と煙の中の獣はスマトラトラの檻の中になだれ込んだ。




