第34話 満月の夜②
扉を開けると日和が立っていた。
潤んだ瞳で戌井を見上げると、あふれた涙が頬を伝っていく。そうかと思えば勢いよく胸の中に飛び込んできた。
「戌井くんは馬鹿です。大馬鹿者です」
戌井は彼女の肩にゆっくりと手を置き、離れさせようと思った。あまりくっつかれることに慣れていないので、とっさに押しのけたくなるのだ。でもどういうわけか、すんでのところで思いとどまり、日和が落ち着くまで待つことにした。
彼女は胸の中で泣きじゃくり、落ち着く気配がない。戌井は自分にできることはないかと考えた。そこでふと鉄工所で日和に撫でられた時に心地よかったのを思い出した。効果があるかわからないが頭を撫でてみることにする。
日和は落ち着いたようだった。戌井は言った。
「STには何と?」
「戌井くんは白。人間だったって」
戌井は一瞬その言葉を信じられず、放心したように虚空を見つめた。しかしすぐに何が起こったのかを認識すると、日和の背中をそっと押して部屋の中に入るよう促した。
「ソファーに座るといい」
「うん」
戌井は窓のそばに立った。空を見上げると満月があり、預言者がそこにいる。なんとも奇妙な光景だった。
「ブラスターにも白だと伝えたのか?」
「はい……」
「奴は俺のことを疑っていた。納得したのか?」
「よくわかりません。狂ったような笑い声を上げて電話が切れてしまったので」
狂ったような笑い声?
確かによくわからないが、自分の思い通りにことが運ばなかったので、笑うしかなかったといったところか。
「あいつには二度と関わりたくない」
「これで私も共犯ですね。赤熊隊長もブラスターさんも私の大切な友人なのに、嘘を吐いてしまいました。もう後戻りできません」
日和がどうしてそんなことをしたのか、戌井にはわからなかった。その気持ちを推し量ろうと、彼女の顔をじっと見つめる。すると、その頬がわずかに腫れていることに気付いた。
「頬が腫れている。殴られたのか?」
「あ……平手打ちされたんです。母に」
「何か手当てはしたのか?」
「ぶたれた後に軟膏を塗りました。一昨日のことですし腫れは引いたと思ったのですが……まだ目立ちますか?」
頬に小さな引っかき傷がある。平手打ちする際に、爪が当たってしまったのだろう。
「今日は何も塗っていないのか?」
「はい……戌井くんのことを考えていたら、それどころではなくて」
戌井は常備薬を保管している棚に行き、消毒薬と色んな傷に効く軟膏を取り出した。
「少し染みるかもしれない」
戌井は日和の隣に座ると、ガーゼに消毒薬を染み込ませて、患部を消毒した。
「大げさですよ。保湿だけしていれば、いつも跡形もなく治りますし」
「動くな」
日和の顔に自分の顔を近付け、傷がある部分に軟膏を塗った。
「ちゃんと治さなきゃだめだ」
日和は半ば呆れた様子で言った。
「どうしていつもそんなスマートなんですか?」
「誰だってこうする。いつもと言ったな。母親にそんなにしょっちゅう平手打ちされているのか?」
「母は私が嫌いなんです。私のせいで父と兄が人狼に殺されてしまったから。私が預言者でなければ人狼に狙われることもなかった。ありふれた平穏な家庭を築けたのに、私が生まれたことで全部台無しにしてしまった。だから私は預言者として使命を全うしないといけないんです。そうしないと、父も兄も浮かばれませんから」
「普通は娘が生き残ったことを喜ぶものだ」
「母は違いました。私がちゃんと仕事をしているか監視していて、先日、青山羊部長を逃がしたことを知ったんです。それでぶたれてしまいました」
「俺のせいだ」
「違います! 全て私の意思で、私の責任です」
「だが君は人狼を憎んでいる。母親から圧力もかけられている。預言者としての責任感や誇りも持っているし、赤熊隊長やブラスターは気軽に裏切っていい相手じゃない。どうして俺を見逃すことにしたんだ?」
「留守電を聞いたからです」
「何の留守電だ?」
「雉真くんから盗聴器について連絡があったんですよね? その後、私の安否を確かめるために電話をしたでしょう?」
「そんなこともした気がする」
「私、新しいスマホを買った後、その時のメッセージが留守電センターに保存されていないか確かめたんです。何を言ったのか、忘れちゃいました?」
「ああ」
「私のことを大切な友人で、一緒にゲームをしたり、料理をしたのは楽しかったって。それに預言者としての私のことを尊敬しているって。すごく心配そうな声で言ってて」
確か青山羊葵に弱みを見せるために日和について色々と言ったはずだ。戌井は感情演技が苦手だから、嘘も偽りもなく本当の気持ちを伝えたのだろう。
「それを聞いて、戌井くんは馬鹿だなって思ったんです」
戌井は眉間に深いシワを寄せた。
「本当に友達と思い出を作ることしか考えていないんだなって。優しくしてくれるのも、嬉しいことを言ってくれるのも裏があるわけじゃない。戌井くんはまっすぐで純粋な人です。ある意味、天然とも言えますが……」
「天然?」
「ほら、消毒薬や軟膏だって人狼には必要ないものなのになぜか常備していますし。友達が怪我をした時のために用意してくれたんでしょう?」
戌井はなんとなく決まりが悪くなって、消毒薬と軟膏を隠すように手に持った。
「カフェで話したこと覚えていますか? 忘れてしまったかもしれないけど……」
「俺を占った後でも、友達になれると言った」
「それは覚えているんですね」
「ずっとそう思っていたから。今日も、君がそう望んでくれたらと願っていた」
「あの時、そう言ってくれて嬉しかったんですよ。知り合いを占うのには引け目を感じていて、人間だとわかっても、結局疑いをかけた後ろめたさで仲良くなれなかったんです。だから戌井くんがそれでも友達になれるって言ってくれて、すごくすごく嬉しかったんです」
日和は身を乗り出して、戌井の手をつかんだ。
「決断が遅くなってしまってすみません。改めて……お友達になっていただけませんか?」
戌井はその手を見つめ、壊れ物でも触れるかのように慎重に握り返した。
他人を変えることは基本的にできない、と戌井は考えている。どんなに教え諭しても、行動で示してみせても、他人の考えを変えることはできない。変わったとしたら、それは奇跡が起こったということなのだ。
彼女がどれほどの覚悟で今ここにいるのか、戌井は想像した。そして、その覚悟に報いたいと思った。
「わかった。ただし、条件がある」
「条件……ですか?」
「預言者としての君の活動を手伝わせてくれ。事件が起こったらその内容を教えてほしいし、君が現場に行く時には俺もついていく」
「えっ? でも戌井くんの夢は……」
「日和さんも雉真も、すでに俺の日常の一部だ。それを守りたい。預言者の仕事は一人では大変だろう? 赤熊隊長やブラスターや君の家族を裏切る価値があるくらい、俺は役に立つってことを証明してやる」
日和は息を呑んで戌井を見つめた。
「戌井くんはすごい人ですね」
「人狼の鼻は捜査の役に立つ。例えば何だったか……ああ、君の靴を見つけた時のように」
「あれって、わざわざ夜の学校に侵入して獣化して探してくれたってことですよね? 占い宣言した後だったのに……」
日和は首を振り、諦めにも似た溜息を吐いた。
「戌井くんを死なせるなんて私にはできません。絶対無理です」
「明日は学校に来てくれるか?」
「はい。またお弁当、作っていきますね」
「ありがとう。ところで占い先は誰にしたんだ? 俺は確定しているから別の奴を占ったんだろう?」
「雉真くんを占いました」
「ほう。どうだった?」
日和は顔を曇らせた。
「まさか……?」
「ふふ、預言者ジョークですよ。雉真くんは白です。正式には記録されないので本人には言いませんが……身近な人を占うと、やっぱり気まずくなりそうです」
「ああいう無害そうなのが人狼だと一番厄介だ。占ってくれて良かった」
戌井が微笑むと、日和の頬から耳までがほんのりと朱色に染まっていく。彼女は表情を隠そうとぎこちなく髪を耳にかける仕草をした。
戌井は立ち上がって、消毒薬と軟膏を棚の中にしまった。ふとあることを思い出し、冷蔵庫の扉を開けて紙袋の中に入ったプリンを取り出す。
「そういやブラスターからプリンを貰ったんだ。ちょうど2人分ある」
なぜ2人分あるんだ? 戌井のことを食いしん坊だと思ったか、あるいは他の誰かと一緒に食べると想定していたのか。戌井の家に押しかけるのがSTではなく、日和になると知っていた? いや、まさかそんなはずはない。ただ2つの方が収まりが良かっただけだ。
「こ、これは……! この前行列に並んだのに買えなかったプリン……」
日和は羨ましそうにプリンを凝視している。
「じゃあ1つ食べてくれ」
「ブラスターさんに嘘を吐いたばかりなのに、いただいてしまってよいのでしょうか……」
「俺が貰ったものだから、俺のものだ。ベランダに出て、満月を眺めながら食べよう」
2人はベランダに移動してプリンを食べ始めた。満月は磨き上げられた白銀の円盤のように夜空に浮かび上がっていた。クレーターの影すら見えないほど明るく神秘的に輝いている。
「ん、おいしいです~。戌井くんは甘い物はお好きですか?」
「パフェみたいなボリュームがあるものは苦手だ。手頃な大きさで、甘さの中にほろ苦さがあるといい」
「それならプリンは大好物なのでは?」
「……腹立たしいことにな」
「戌井くんの好物を当ててしまうなんて、何なんでしょうかブラスターさん。私も知りたいです。戌井くんのこと。もっと色々……」
「そもそも自分の好きな料理を把握していない。デザートと前後してしまったが、夕食は食べたか?」
「いいえ、まだです」
「なら君の好きな料理にしよう」
「うーん……そうめん、ですね。でもあれは夏限定です」
「それ以外は?」
「ざる蕎麦かうどん。それとパスタでしょうか」
「麺ばかりだ」
「戌井くんの好きな麺を見つけるのが楽しみです。まずはざる蕎麦から。おかずも何品か作りましょう。天ぷらが定番ですが面倒なのでまたの機会に」
「よし」
「でももう少し……こうしてゆっくり月を眺めていたいですね」
「ああ」
戌井は人狼なら絶対に言わないであろう言葉を口にした。
「月が綺麗だな」




