第33話 満月の夜①
次の日も、日和は学校を休んだ。
戌井は屋上でコンビニのサンドイッチを食べた後、『シートン動物記 リスのバナーテイル』を読んでいた。留置所で日和に貸してもらったのをまだ読み終わっていないのだ。戌井は本を読むのがとてつもなく遅い。途中で前に起こった内容を忘れてしまい、何度もページを戻って読み直さねばならないからだ。
その時、お昼の校内放送で霊媒師ブラスターの声が聞こえてきた。
『それでは皆さま! 霊媒師ブラスターの謝罪放送でございます。あ、ちなみに私のことを知らない人はいませんよねえ?』
『先日起こった人狼事件について、最初はある生徒を疑っていました……あえて名前は伏せますが、はっきり言いましょう。彼はこの事件に何の関係もありません。今後、彼について根も葉もない噂をするのはやめていただきたい』
『犯人は青山羊葵であり、その他の誰でもありません。捜査の進捗はニュースで発表しておりますので、そちらをご覧ください』
『ところで話は変わりますが、この学校では4月の初めにも教師が捕まっていじめ問題が浮上したとか。学校側でも色々と対策しているようですが、私もぜひお役に立ちたい!』
『いじめっ子にお困りの方はどうぞお気軽にDMください。ショットガンの音を聞かせて――おっと、これ以上は怒られそうだ』
放送はそこで途切れた。戌井は本を読んでいたのでろくに聞いていなかった。自分に対する噂話など1ミリも気にしていなかったし、ブラスターの謝罪にも興味はない。
ブラスターには何かと引っ掻き回されたが、青山羊葵が助かったのもある意味では彼の独断専行のおかげとも言える。むしろ感謝してやってもいいくらいだ。もちろん礼を言うつもりはさらさらないが。
そんなことより中毒性の高いキノコを食べてしまったハイイロリスが、その誘惑をはねのけて生きていけるかの方が気になっていた。
足音が近付いてきた。戌井はなおも読書に耽っていた。
「まったく、私の放送聞いてませんでしたね? 戌井時雨くん」
ブラスターだった。無視しようかと思ったが、さすがに何の用か気になったので顔を上げる。
「直接詫びを入れに来ました。こちら、駅の近くにあったカフェのクーポンです」
ブラスターは戌井の隣に腰を下ろし、『リバーブ・リトリート』のクーポンを2枚押し付けてきた。飲み物がどれでも1つ無料になる。
「あそこで働いているんでしょ? 店長にはひっじょーに素晴らしい学生さんだと伝えておきましたよ」
「用件はそれだけですか?」
「いいえ、まだあります」と言って、ブラスターは手に提げていた紙袋を渡してきた。「こちらのプリンもどうぞ。表面は固めで中はとろけるような口どけ。人気沸騰中の極上プリンです。ぜひ今夜の満月を眺めながら召し上がってください」
ブラスターは軽快に立ち上がると、屋上の柵に手をかけて空を見上げた。
「そう、今夜は綺麗な満月が見れますよ。楽しみですよねえ? 実はサニー君にあなたを占うようおすすめしておきました。彼女は適当な政治家を占おうとしていたようですがね。どうやらあなたを信じたい様子。しかし信頼とは疑って疑って疑った先にある! 預言者なら占って潔白を証明すべきです。そうでしょう?」
ブラスターはにんまりとした笑みを液晶パネルに映し出した。
「個人的にあなたには注目していましてね。人狼は真っ当に生きるのが難しいから、裏社会に通じている者は珍しくないんですよ。あなたからは無法者のにおいがぷんぷんしますねえ」
「そんなふざけたパネルを付けていたら、まともなにおいは嗅げない」
戌井が敬語を省いてもブラスターは画面の表情を変えなかった。
「お前の話には何の意味もない。サニーの占い結果を待つことだ。それで全てはっきりする」
「ふん、負け犬の遠吠えとはこのことです。強がりはおやめなさい」
液晶パネルに張り付いた笑顔が不気味に歪んだ。
「今夜、吠え面をかかせてやりますよ」
ブラスターが去った後、戌井は読書に戻った。先ほどまで読んでいた内容を忘れてしまったので、また前のページに戻らねばならなかった。夜までに読み切れたら良いのだが。
☂
戌井と雉真は、学校の帰り道、駐車場の入口にあるツバメの巣を眺めた。ずいぶん成長し、尾羽も大きくなっている。その時ふと雉真の話を思い出した。こうして人間が立ち止まっていれば、主な天敵であるハシブトガラスが近寄りにくくなり、子ツバメ達が助かるという話だ。
何かの役に立っているという実感は、特にストレスや恐怖を感じている時ほど勇気を与えてくれる。科学的にもオキシトシンやドーパミンといった幸福感を高める脳内物質の分泌を促す。ブラスターの言う通り戌井は強がっていたのかもしれないが、ツバメを見ると落ち着いた気分になった。
せっかくなので雉真を誘い、ブラスターから貰った無料クーポンを使ってリトリト・ラテを飲んだ。忘れてしまうくらい他愛のない話をしてから、2人はお互いの家に帰った。
日和がどのように決断するのか、戌井には全くわからなかった。
この日に至るまで手を出さないどころか信じられないほどの献身ぶりを見せたわけだが、日和の立場になってみれば、そう単純に人狼だとわかっている相手を見逃すことはできない。
日和は預言者であることに誇りを持っており、そのことを精神的な支えにしているフシがある。預言者としてやるべきことをやらなければ、彼女は自分自身の拠り所をなくし、それと共にきっとあの凛とした強さを失ってしまうだろう。いじめの対象になってもへこたれなかった、あの惚れ惚れとした強さを。
また、戌井を見逃すためには、赤熊隊長や霊媒師ブラスターに嘘の報告をしなければならない。それはつまり、自分が世話になっている全ての人間を裏切らねばならないということだ。しかも今後一生、戌井が人間を食べないという保証はどこにもない。
この選択は、重すぎる。
だから戌井は、どのような結果になっても彼女を責める気にはなれなかった。人はただ最善を追求し、自分の行動に満足するしかない。戌井はやりたいようにやっただけで、自分の筋を貫き通したことに後悔はしていない。それをどう受け止めるかは日和が決めることなのだ。
帰宅後、戌井は絵を描くことにした。結局きちんと描けたのは教室から見た校門の景色とオムライスを食べている時の絵だ。それもまだまだ描き込みが甘く、修正が必要な箇所がいくつかあり、完成とは言えない。そんなに早く絵は完成しないのだ。屋上で手作り弁当を食べている絵と、料理をしている日和の絵と、雉真とラーメンを食べている時の絵はメモ的な大ラフがあるのみで、構図も配色も決まってない。
こうして見ると、食べ物が関わっている絵ばかりだ。戌井は苦笑した。続きを描く日は来るのだろうか?
気分を変えるためにあてもなく散歩した。公園で読書をし、『シートン動物記 リスのバナーテイル』を読み切った。ハイイロリスが毒キノコを克服できて良かった。
本を読み終えると18時を過ぎていた。月の出の時間だ。空を見上げると綺麗な満月が浮かんでいる。古い言い伝えのように、人狼は満月の夜に変身するのではない。満月の夜に、その正体を暴かれるのだ。
日和が赤熊隊長や霊媒師ブラスターに占いの結果を報告している頃合いだろう。
戌井は家に戻った。マンションの手前でいったん立ち止まり、周囲の様子をうかがってみる。何の気配もない。STは到着していないようだ。しかし油断した頃に押しかけてくる可能性も十分ある。むしろそちらの方が常套手段だ。戌井は自分の部屋に入った。
この時間になると何もやる気が起きなかったので、彼はぼうっと窓の外を眺めた。前にも似たようなことがあった気がする。無力感に苛まれながら、ただ窓の外を見ていたことが。
きっと入院していた頃の記憶だろう。あの時のように何もできない子供みたいな気分で、ただ窓の外を見ている。
どうせ一度は死ぬはずだった身だ。短い間とはいえ、高校生にはなれたのだ。それで良しとしよう。どんな結果になろうとも。
足音が聞こえたので、戌井は玄関を振り返った。インターホンが鳴った。




