第31話 恩返し
獣化した青山羊葵――山羊角の獣が粉塵の霧を切り裂いて突進してきた。
怪我をすると食欲を抑えるのが難しくなる。人を喰えば回復できるからだ。せっかく説得できたと思ったのに何者かのせいで台無しになってしまった。
白狼となった戌井はお守りのように日和を胸の中で抱えたまま、転がって避けた。
瓦礫の雨に打たれている間、あらかじめ目を付けていた手頃な鉄の廃材を拾う。変身時間は150秒しかない。崩落に耐えている間に数10秒使ったから、残りは100秒足らずだ。
人狼同士の戦いは、常に一瞬で片がつく。
山羊角の獣が瓦礫の山に登って飛びかかってくる。戌井は2メートルほどもある廃材を肩に乗せて、野球バットのように鋭くスイングした。廃材が山羊角の獣の脇腹の辺りにめり込んだ。確かな手ごたえ。巨大な獣が鉄工所の入口の方へぶっ飛んだ。
その衝撃で入口付近にある瓦礫の山がぐらつくが、崩れはしなかった。
山羊角の獣は悲痛な鳴き声を上げながらも、気力を振り絞り、体勢を立て直そうともがいている。人間の時に受けた傷は獣化している間、相対的に小さくなるため致命傷にはならないが、脇腹からは血が流れている。さらにそこへ廃材を叩き込んだので相当痛かっただろう。
山羊角の獣が何かをつかんだ。中年の男だ。
「放せッ! 息子を殺した化け物め!」と叫んでいる。
辰巳の親父か? 先ほど青山羊葵を撃ち抜いたのはこの男か。
部下が役に立たなかったので自分の手で青山羊葵を始末することにしたようだ。当初は生け捕りにする予定だったが、このままでは逃げ切られると思って速やかに始末する方針に切り替えた。手際よく撃って逃げたはいいが、天井が崩れてきたので瓦礫の下敷きになったらしい。
しかしなぜこの鉄工所にいることがわかったのだろう? 尾行者は全員退けたはずだ。
考えられるのは駅や電車の防犯カメラを入手して、戌井達が最後に下りた駅を特定することだ。車で追いながらリアルタイムで映像を入手していたなら、先回りして追いつくこともできなくはない。だがちんけな極道の親分がすぐにそんなことできるものだろうか?
霊媒師ブラスター。辰巳の親父はブラスターから情報を入手したのだ。どこまでもやってくれる。
辰巳の親父は尾行の腕前と気配を殺す技術は相当なものだったが、獣化した人狼に掴まれてはもはやどうしようもない。山羊角の獣は辰巳の親父を丸呑みにした。
獣化中に人を喰うと体力を回復し変身時間を延長できる。つまり戌井の方が先に獣化が解けてしまう。
だが戌井と青山羊葵が戦う必要性はもうないはずだ。山羊角の獣は興奮していた。人を喰って理性を失ってしまっている。
山羊角の獣は再び飛びかかってきた。戌井は廃材を横にして口の中に突っ込み、間髪を入れず腹を蹴り飛ばす。仰向けに倒れたところへ廃材を下にして、くるりと円を描いている角の部分に突き刺した。
角の内部にも血管や神経が通っているため痛みを感じる。角が折れた衝撃で山羊角の獣は本能的に恐怖を覚えたようだ。変身時間に関わらず、この白狼は目の前の獣を殺し切ることができると。
正気を取り戻してくれたかどうかはわからないが、山羊角の獣は大人しくなった。その間に戌井は瓦礫の山を嗅ぎ回った。幸運だ。ダッフルバッグと、札束の入ったビニール袋が見つかった。自分のエコバッグも。
戌井が近寄ると山羊角の獣は威嚇の吠え声を上げた。構わず近付くと腕を噛もうとしてくる。しかし戌井がダッフルバッグと札束の入ったビニール袋を差し出すとぴたりと止まった。山羊角の獣はそのにおいを嗅いだ。
一筋の淡い月光が、白狼の毛並みを蒼銀に輝かせた。青山羊葵は自分を見下ろす白い獣を恍惚として見つめていた。
自分の全く知らない世界へ飛び込むのは、誰しも不安なものだ。戌井ですら自分が高校に通えるのかどうか自信が持てなかった。だが青山羊葵の絵が彼の心を動かし、背中を押したのだ。
あれがなければ高校入試には受かっていなかったかもしれない。そしたら日和と雉真には出会っていなかっただろう。戌井はそのことに恩を感じていたし、青山羊葵にはやっぱり絵を描いてほしいと思っている。でも助けられるのは、助かる覚悟のある奴だけだ。これが最後の一押しだった。
戌井は不安定な瓦礫の山を腕で力いっぱい押した。青山羊葵は入口側に、戌井と日和は鉄工所の奥に分断される。
戌井は日和をそっと地面に下ろしてから、瓦礫の影に隠れて獣化が解けるのを待った。人間に戻るとエコバッグから自分の着替えを取り出し、手早く服を着る。
青山羊葵の方は変身時間が延びているので、やろうと思えば瓦礫をどかして2人を襲うこともできるだろう。もしそうなったらエコバッグに入っている4丁の拳銃でどうにかするしかない。
戌井は瓦礫の影に息を殺して待機した。さらに150秒経っても大きな物音はしない。逃げてくれたのだろうか。辰巳の親父を喰ったから銃弾による負傷はほぼ回復したはずだ。彼女なら一人で逃げられる。いや、逃げてくれたはずだ。
戌井は拳銃を床に置き、瓦礫を背にして座り込んだ。日和が反対側から様子をうかがっている。彼が拳銃をかまえていたので近付けず、声をかけるのも躊躇っていたようだ。
戌井は4丁の拳銃を取り出すと、日和の方へ滑らせてやった。彼女はどれでも好きな銃を使って戌井を撃ち抜くことができる。
だが、日和は銃を拾わなかった。戌井が武器を手放したから安心したのではなく、彼が安心させようと気遣ってくれたことに心を動かされたのだろう。おずおずと声をかけてくる。
「お怪我はありませんか、戌井くん……?」
「ああ」
「良かった……。入口が塞がれてしまいましたね」
「助けが来るまで待つしかないな」
戌井が自分でやったのだが、日和は腕の中にいたので何が起こったのか知らない。スマホは崩落で壊れた。おそらく数時間は閉じ込められることになるだろう。青山羊葵が逃げるのに十分な時間を稼いでくれるはずだ。
「青山羊部長は……?」
「さあな。どこに行ったのか見当もつかない」
「嘘はもうたくさんです」
日和がすぐ横に立っていた。ただ胸の前で祈るように手を合わせ、悲しげな表情を浮かべている。
「人狼……だったのですね」
「殺すなら満月の夜まで待ってくれないか?」と、戌井は言った。「来週奢ってやるって雉真と約束しているんだ。約束は守らないと」
「ど、どうしてそんなに落ち着いているんですか!?」
戌井は肩をすくめた。
「バレたものは仕方がない。あと数日、ただの友達として接してほしかったが」
「本当に友達になりたかっただけなんですか? それとも全て、私を懐柔するための嘘……?」
「好きなように思えばいい」
戌井はただ前を見つめていた。日和は態度を決めかねているように、その場に立ち尽くしていた。しばらくすると顔を背けて瓦礫の反対側へ行ってしまう。
雨が降ってきたようだ。肌寒くなってきた。すでに小一時間が経過しているが、一向に助けは来ない。日和が瓦礫の反対側から話しかけてくる。
「近隣住民が崩壊の音を聞いているはずですが……朝になってから様子を見に来るつもりなのかも。まさか誰かが閉じ込められているなんて思いませんしね……」
「0時を過ぎたらまた獣化できる。それで瓦礫をどかすから、外に出よう」
「外に出たら」と、日和は言った。「私、STに通報しますからね」
「……」
「青山羊部長を人狼として指名手配するつもりです」
「……俺は?」
「戌井くんは……満月の夜まで通報しません」
「ありがとう」
足音が聞こえた。日和が腕をさすりながらこちら側に顔を出す。
「寒いので体を動かしたほうが――」
彼女の息を呑む気配がした。戌井が床に横たわって丸くなっていたからだ。すぐさま心配そうに駆け寄ってくる。
「も、もしかして本当は怪我をしているのでは?」
「安静にしていれば問題ない」
瓦礫の雨に打たれたせいで背中や腕を痛めていた。骨は折れていないはずだ。多少のヒビは入ったかもしれないが。人狼の自然治癒力は高いので、数時間じっとしていれば動けるようになるだろう。
「床は固くて冷たいですし、せめて私の膝をお使いください」
「怪我をしていると人を食べたくなるんだ。近付かないでくれ」
日和はびくっと肩を震わせた。が、意を決したように戌井の頭の下に手を差し込んで、無理やり膝に乗せてくる。
「この程度の怪我で我慢できなかったら、この先やっていけませんよ」
「手厳しいな」
膝の上は柔らかくて、温かい。頭を上げたので体勢も楽になる。もし人間だったら、眠ってしまうくらい心地よかった。日和が胸の上にある戌井の手に触れた。
「戌井くんの手、冷たい……気付けなくてごめんなさい」
「実は青山羊部長を逃がすために、わざと瓦礫を崩したんだ。自業自得さ」
「戌井くんのやったことは、悪いことだと思います。彼女がまた人を襲ったらと考えると……」
これが人間なら自首をすすめることもできただろう。だが人狼は捕まったら殺されてしまう。辰巳が青山羊葵に対して日常的に暴力を振るっていたことは考慮されないし、情状酌量も認めてくれない。
戌井はいつも人類の味方というわけではなかった。彼にとっては、ハクビシンを見逃したようなものだった。自分の縄張りで事件を起こさなければ、青山羊葵がどこの家の天井を破壊しようとかまわない。
「でもそんな戌井くんを殺さない私も、共犯になってしまうのでしょう。あなたは青山羊部長の居場所を知っているのに」
「霊媒されても黙秘はできたはずだ。拷問されても言わない」
「どうしてそこまで?」
「彼女に絵を描き続けてほしいから」
「……それだけ?」
「俺の考えることなんて単純だ」
2人はしばし無言になった。外では激しい雨の音が続いている。
「戌井くんはいつから人狼に?」
「6歳」
「そんな幼い頃から……追われる身だったんですか?」
「ああ。だから堅気になるために戸籍を偽造しなくちゃいけなかった」
「じゃあ今の名前は、本当の名前ではないんですね」
「本当の名前は忘れてしまった。雨が関係していたような気がするが、思い出せない」
「時雨も雨が関係する名前ですが」
「本名なわけがない。しかしもっとありふれた名前にしてほしかったな」
名前を決めたのは鰐淵恭也だ。苦労して手に入れた名前があまり普通ではなかったので、戌井は文句を言ったような気がする。
鰐淵恭也はいつも戌井のことをクソガキと呼んでいたが、別れ際に一度だけ新しい名前で呼んでくれた。それで彼はその名前を気に入ったのだった。
「そう言えば……人を食べていないと隈ができるそうですね。ずっと食べていないんですか?」
「人狼病にかかった直後は、母さんに何の肉か教えられずに食べさせられていた。その後色々あって2年かけて食べない訓練をしたんだ。それからずっと食べてない」
「自己紹介の時に、病気の影響で髪が白くなったと言ってましたね。人狼は病気にかからないから、髪が白くなったのは人を食べないストレスのせい……?」
日和が何の気なしに頭を撫でてくるので、戌井は思わず気持ちよさそうに目を細めてしまった。
「あ、すみません。嫌でしたか?」
少し照れくさかったので、彼は何も言わずに目をつむる。
「……どんなに幼くても人狼というだけで殺されてしまうから、戌井くんにはそういう生き方しかできなかった。仕方なかったんですよね。それに人を食べないように頑張っている」
日和は戌井の目の下にそっと手を当てた。獣化後は元の髪色に戻り、コンシーラーも落ちてしまう。
「この大きな隈がその証。なのにこの社会は人狼の努力を認めてくれない……人狼だからと殺すことが、本当に正しいことなのでしょうか……?」
目を開けると、日和は辛そうな顔で考え込んでいる。
「今決めなくていい」と、戌井は言った。「次の満月の夜までに決めればいい」
「戌井くんがそんなに優しいから、どうしていいのかわからなくなるんです。でも私はその優しさが本物かどうか疑っています……最低ですよね」
「君が最低な預言者なら、ムカついて殺していただろうな」
「……冗談ですよね?」
戌井は答えなかった。日和は少し考えた末に冗談と受け取ることにしたらしく、柔らかい声で言った。
「でも今は何も考えずに、ただあなたのそばにいたい。ゆっくり休んでくださいね」




