第30話 廃工場へ
閑静な住宅街から少し外れた場所に朽ちた古い鉄工所がある。最初に鉄工所があり、後から住宅街ができたにも関わらず、近隣住民からの騒音苦情という憂き目に遭ったようだ。無数に貼られた苦情の張り紙にその名残りをとどめている。
「この場所は以前から目を付けていたのか?」
「私、廃墟めぐりが趣味なの。写真を撮ってイラストの資料にするために」
「そうか。こういう雰囲気の絵も見てみたかったな」
鉄工所内部は天井が高く、広々としていた。壁際にかつての機械の残骸や廃材が積み上がり、店じまいに伴い片付けようとした痕跡はあるものの、その途中で何か良からぬことが起きてそのままになっているみたいだった。古いウインチが天井からぶら下がり、血のような錆びついた金属の臭いを漂わせている。
鉄工所の2階は事務所になっていた。デスクがいくつか並び、埃にまみれた書類や備品がいたるところに散らばっている。日和は壁際の椅子に座らされ、手足を頑丈に固定されていた。目隠しと猿轡を噛まされ、死んでいるようにぐったりしている。
戌井は彼女に近付いて、頬に触れた。温かい。
「ちゃんと生きているわ。強い薬を嗅がせたから朦朧としているだけ。ちょっと、何してるの!?」
戌井は彼女の目隠しと猿轡を外した。折りたたみナイフで手足の拘束も素早く切った。日和がうううんと言いながら、ゆっくりと目を開ける。
「戌井……くん? ここは……?」
日和は急に目を見開いて、戌井の後ろを見つめた。彼はゆっくりと振り向いた。青山羊葵が拳銃をかまえている。日和の持っていたシグP230だ。
「私をどうするつもりだったか知っているのよ」
「どうするつもりって?」
「殺す気だったんでしょ」
「もしそうなら君はとっくに死んでいる」
戌井は持っていたエコバッグからビニール袋に入れた札束を取り出し、青山羊葵に投げて寄越した。
「その中に必要なものと君が行くべき場所のメモを入れてある。一人で行くんだ」
「嘘吐き。一緒に行くって言ったのに」
「一緒に行っても俺は不機嫌になって喧嘩する。すぐに一人の方がマシだったと思うだろう」
「いいことを教えてあげるわ、日和さん」青山羊葵が言った。「彼は人狼なのよ」
「え……?」
日和はまだ夢を見ているかのような表情で戌井を見つめた。
「本当なの? 戌井くん?」
「彼女がそう言っているだけだ」
「彼には大きな隈がある。人を長年食べないと隈ができちゃうのよ。それに忘れっぽくなる」
「えっと……青山羊部長は人狼ってことでよいですか?」
「そうよ。だから人狼のことはよく知っている。戌井くんは人狼よ。自分でもそう言っていたもの」
「そう言わないと、日和さんが殺されると思ったから」
日和は状況をよく呑み込めていない様子だったが、ほとんど反射的に言った。
「戌井くんが人狼のはずありません。最初は疑ったけれど……彼は私を殺すどころか、何度も何度も助けてくれました」
「じゃあ、もし彼が人狼だったらどうするつもり?」
日和は言葉に詰まった。考えたくなかったことを無理やりほじくり出されたかのように、悲痛な顔をした。
「答えて。日和さん」
「私は預言者……人狼は、退治しないといけない。それが私の存在価値だから……」
「聞いたでしょ。私と一緒に来なければ、あなたはあと4日しか生きられないわ」
「俺は行かない」
青山羊葵は信じられないという表情になった。
「どうして? 日和さんはあなたがどんなに尽くして努力しても、人狼だというだけで殺すつもりよ。そんなのおかしいって思わないの?」
「生かしてもらうために努力しているわけじゃない。自分らしく生きるためだ。たった数日でもかまわない。普通の高校生として静かに暮らすことが、俺の子供の頃からの夢だった。やっと叶ったんだ」
「私にも夢がある。元の日常に戻りたい。行きたい大学だって決まっていたし、そのための努力もしてた。イラストレーターとしての実績だって捨てたくない」
青山羊葵は取り乱していたが、拳銃は両手でしっかり握り、銃口はやや下の方――戌井が避ければ、日和に当たる位置に定めている。
「あなたを殺して、日和さんも殺して、死体を綺麗に平らげる。遺体がなければ霊媒できない。私は日常に戻る。そしたら警察は失踪した戌井くんが人狼だったと考える」
「忘れたのか? 辰巳の親父は君の正体を知っている。ブラスターもな。極道に殺されるのが先か、次の満月の夜に別の預言者に占われるのが先か。いずれにしろ君の日常はとっくに壊れている」
「そんなのわかってるっ」青山羊葵の目から涙が溢れた。「あなたが来てくれるなら私だって希望を持てるわ。でもたった一人でわけのわからないところに行くくらいなら死んだ方がマシ。全てをめちゃくちゃにしてね。避けたら日和さんに当たるわ。我が身よりも大事だって、言ってたわよね?」
「だめ……!」
日和は急に立ったせいで頭に血が上り、また椅子に座り込んでしまう。
戌井は言った。「逃がし屋のところには一緒に行ってもいい。その後の面倒は見れないが」
「……」
「自暴自棄になっても何にもならない。俺達を殺すことも不可能だ。銃を撃ったことないだろう? その位置からだと余程の腕前じゃなければ、まず当たらない」
「やってみないとわからないわ。運が良ければ当たるかも」
「万一当たったとしてもすぐに死ぬことはない。俺はナイフを投げることもできる。拳銃を4丁持ってることも忘れるな。発砲すればどんな結果になっても君は死ぬ。何もめちゃくちゃにすることなく。そんな死に方がしたいのか?」
「……」
「銃を下ろせ」
「私と戌井くんが逃げる間、日和さんが通報するでしょ。彼女は始末するべきだわ」
「なら日和さんはもう一度縛っておく」
日和は不安そうな顔をした。「え……?」
「すまないが、そうしないと納得してくれないんでな。青山羊部長を送り届けたらすぐに迎えに来るから」
「……」
「君を殺したくない。銃を下ろしてくれ」
青山羊葵は荒い息遣いで戌井を見つめた。銃を持つ手が震えている。隙だらけだったが戌井は動かなかった。
投げやりな心理状態に陥っている者には何を言っても効果がない。攻撃性が増加し、自己破壊的な行動を取るようになる。戌井にもどちらに転ぶのかわからなかった。ただ即座に反撃できるよう折りたたみナイフを腰の高さで軽く握っていた。
青山羊葵の息遣いは不安定になった。が、吐く息が長くなっている。何か秩序を取り戻そうとして、一時的に無秩序になっただけだ。彼女は短く吸って、長く吐く。徐々に規則的な息遣いになっていく。青山羊葵はついに目を瞑って深呼吸をする。ゆっくりと、肩の力を抜くように拳銃を下ろしていく。
戌井は内心舌を巻いた。彼が何も言わずとも青山羊葵は呼吸を整え、感情をコントロールする術をマスターしたのだ。
「……ごめんなさい。少しパニックになってしまって。本当はあなた達を傷付けたくないの」
「わかってる」
「私……死にたくない」
「ああ」
「あなたの言う通りにするわ。逃がし屋のところに――――」
戌井が殺気に気付いた時には手遅れだった。そいつは音もなく現れた。部屋の入口からすっと腕が伸びたかと思うと、銃声が響き、青山羊葵は崩れ落ちた。脇腹から血が流れる。腕だけを見せた何者かが駆け足で階段を下りていく音がする。
「あ、ああ……」
青山羊葵は自分の脇腹から流れる血を見て絶望的な表情をした。戌井はすぐに近寄って彼女を落ち着かせようとしたが、無駄だった。
青山羊葵は戌井を見た。獣化により顔が変貌し、檻の中で殺処分を待つ犬のように、深く、真っ黒な瞳で彼を見ていた。
長くてこしのある毛が流れ出るように生え、戌井はそれに突き飛ばされた。巨大な獣の体重で床がきしんでいる。ぐらぐら揺れる。古い建物だ。こんなところで獣化したら床が抜けるのは当たり前だ――
戌井は振り向いた。「日和さん」
「戌井くん!」
2人は手を繋いだ。戌井は日和を引き寄せて、獣化した。二体目の巨獣出現がとどめとなり、ついに床が崩落した。白い毛並みの獣は、日和を押し潰さないように優しく胸の中に抱え、着地した。体を丸め、もう一方の腕で頭を守り、瓦礫の雨にひたすら打たれる。
まるで怪物が咆哮しているかのような轟音がしばらく続いた。やがて、崩落は終わった。静けさが訪れるが崩落の余韻はまだ残り、かすかな振動が足元に伝わってくる。
白狼となった戌井はそこでようやく顔を上げた。粉塵が濃霧のように立ち込めている。そこに不気味な怪物の影が映っていた。山羊のような二本の角を生やした獣だ。




