第29話 ブラスターの策略
戌井と青山羊葵は駅に向かった。椅子に座って電車を待つふりをしながら戌井が言った。
「そのまま前を見ていろ。君の言うとおり尾行けられてる」
青山羊葵は目を見開いたが、どうにか平静を保った。
「いったい誰なの? どうして手を出してこないのよ?」
「君が人狼だからだ。下手に手を出せば返り討ちにされる。獣化した人狼を殺せるのは人狼か、武装した大勢の人間だけだ。奴らにはそんな戦力はない。だから君を襲う機会をうかがっているんだろう」
「私が人狼だって知ってるってこと? 奴らって言ったわね? 複数人いるの?」
「4人だ。おそらく辰巳の親父だな。相手が人狼だろうと始末するだけなら狙撃すればいいが、どうやら簡単には殺したくないらしい。息子を殺された恨みを晴らしたいんだろう。君を捕まえて考えうる限り残酷な方法で……いや、怖がる必要はない。俺が何とかするから」
戌井は青山羊葵の肩にそっと手を置いて、彼女がカタカタ震えて尾行者に不審がられないよう安心させた。
「そんな……いつ私が犯人だってわかったの?」
「ブラスターだ。辰巳の親父に真犯人は君だと教えて、俺から手を引くように言ったんだろう。ブラスターは君が犯人だと確信していたからそう言えたんだ。ということは辰巳の霊媒の時、あいつはちゃんと核心を突く質問をしていた。『あのビルでの計画を他の誰かに話したか?』ってことをな。辰巳は青山羊葵と答えた。当の本人は何も知らないと嘘を吐いている。ブラスターから見れば犯人は明らかだ」
「それならなぜあなたを逮捕したのよ?」
戌井は舌打ちした。人狼ゲームと違って、霊媒師は嘘を吐くのだ。
「ブラスターは俺が犯人だとは端から考えちゃいなかった。ただ直感的に俺のことを人狼だと思ったんだろう。霊媒で青山羊葵の情報を得ていたが、それをバカ正直に伝えたら俺を捕まえる口実が作れない。だからその情報を伏せた。俺を満月の夜まで拘束するためにな。君については辰巳の親父が始末してくれるから何もしなくていい。あいつは2人の人狼をまとめて始末しようとしたのさ。その目論見は日和さんのおかげで阻止できたが」
「なんて恐ろしいことを考えるの」
「君はここでスマホを弄るふりをしてくれ。俺はトイレに行ってくる」
「どうするつもり?」
「二兎を追う者、一兎をも得ずだ。ブラスターにそのことを思い知らせてやろう」
「私達はオオカミなんだけど」
「だからこれから狩りに行くのさ。ああ、そうだ。日和さんの拳銃を持っているだろう?」
青山羊葵は硬直した。先ほどから膝の上にあるダッフルバッグに手を入れている。
「渡してくれないか」
「これは……渡せないわ。悪いけどまだあなたのことを完全に信用したわけじゃないから」
戌井は青山羊葵の表情を観察した。彼女は緊張しており、かすかに震えている。今はパニックに陥ってほしくない。
「わかった。言ってみただけだ。君はただ何事もなく振る舞ってくれ。あまり震えずにな」
「あなたがいなくなった後、奴らがこっちに来るかもしれないわ」
「いや、君の方には来ない。俺の目を見てゆっくり深呼吸しろ。リラックスする時には吐く息を長くするんだ」
戌井は青山羊葵の肩に手を置いたまま、帽子の鍔を少し上げて彼女の目を見つめた。震えが止まるまで。今は隈も消しているので彼は非の打ち所がない端正な顔立ちをしていた。青山羊葵はぼうっと彼の顔を見つめている。
「落ち着いたか?」
「ええ……ありがとう」
戌井は立ち上がって駅のトイレに向かった。個室に入って蓋の閉まった便器に腰を下ろす。このトイレは新しく設置されたもののようで、流水音を発生させる装置がついている。普段は使わないが戌井はそのスイッチを押した。
3分ほど瞑想した後、戌井は水を流して個室の扉を開けた。2人の男が小便器で用を足すふりをしながら談笑している。戌井はその2人のもとへまっすぐ歩き、片方の男の背中にぴったり張り付いてスマホの先を押し付けた。
「少しでも妙な真似をすれば撃つ。隣の奴もだ」
戌井は素早く男のジャケットをたくし上げ、背中のベルトに挟まっていた拳銃を抜き取った。銃身に長いサプレッサーが付いている。抜き取ると同時にその拳銃で男の耳を強打した。鼓膜が破れるくらい強く。男は大きくよろめき、隣の男にもたれかかった。戌井は2人に向かって銃口を向けながら言った。
「相棒を支えながら後ろを向け。早く」
もう一人の男は言われた通りにする。戌井はその男の背中からも拳銃を抜き取ると銃床で後頭部を殴りつけた。その男は鼓膜を破られた方と一緒に崩れ落ちた。殴られた方はぴくりとも動かない。気絶したようだ。鼓膜を破られた方も平衡感覚を失っているので、すぐには動けない。
戌井は2人を残してトイレを出た。次に彼は駅の構内で電車を待っている2人組に近付いた。ちょうど電車が来るところだ。戌井は音もなく背後から忍び寄り、片方の男の足の踵部を撃ち抜いた。サプレッサーがあってもかなり大きな音が出るが、銃声は電車の轟音に掻き消え、一瞬の雑音にしか聞こえない。
踵部は角質層が特に厚く形成されている。精密に表層だけを撃ち抜いたなら、酷い靴擦れのような軽微な皮膚損傷とごく少量の出血に留まる。恐怖を与えるためならそれで十分だ。撃たれた男はその場で蹲ろうとしたが戌井が無理やり引き立たせ、もう一人の男に押し付けながら前進した。電車から降りる乗客の邪魔にならない場所へ移動する。
「銃を出すんだ。次の電車が来たらもう一方の足も撃つぞ」
こんなところで揉め事を起こして困るのは極道の方だ。男たちは言われた通りにした。戌井はさらに拳銃を2丁入手した。エコバッグの中に入れておく。
「帰ってボスに伝えろ。俺達のことは忘れろとな。トイレの中の仲間も回収しておけ」
そう言うと戌井は踵を返して青山羊葵のところに戻った。次の電車が来たので2人とも乗り込んで座席に腰を下ろす。青山羊葵が耳元で囁いた。
「奴らはどうなったの?」
「帰らせた。俺のことを君の恋人で、駆け落ちするために辰巳を殺ったとでも考えたんだろう。君は生かしておくよう言われているが、俺のことはどうとでもできる。つまり人質の価値がある。人狼でも殺せるならやりようはいくらでもあるからな。案の定、トイレに行ったらのこのこやって来た」
「でもどうやって特定できたの? 私なんて何となく視線を感じるとしか……」
「君もなかなか良い勘を持ってるから、訓練すれば同じことができるだろう。嗅覚も頼りになる。殺気立ってる奴は独特のにおいを発しているから」
「あなたがいて良かったわ」
「引き続き日和さんのところに案内してくれ」
☂
1時間ほど電車に揺られて、2人は閑静な住宅街を歩いていた。
「あ、ハクビシン」
青山羊葵が電線の上にいるネコのような生き物を指差した。ハクビシン。漢字では『白鼻芯』、中国語では『花面狸』と書く。鼻筋に沿って走る太い白線が特徴的だ。ネコよりも尻尾が大きく長いので大柄な印象を受けるが、実際はネコよりも一キロ程度スリムだ。ほぼ完全な夜行性なので目が大きい。日没頃のこの時間帯に出会えるとは思わなかった。
「ハクビシンって知ってる?」
「彼らは両足で挟むことができれば、何でも登ることができる。1ミリ以下の細い針金の上も歩ける。直径10センチの穴も、体をスクリューのように回転させて通り抜けることができる」戌井は言った。「タヌキと生き方が似ているが、ずば抜けた身体能力でタヌキよりも自由に街中で活動できる。都市生活に最も適した獣だ」
「思ったよりも知ってるのね」
「動物の生き方は参考になる。特に東京で、害獣と呼ばれている野生動物は」
「人狼と似ているものね」
「そう、ハクビシンは家の屋根裏に住み着いて、糞尿で天井を落とすという大事件を起こしている」
「人狼に比べれば可愛いものだわ。なのに罰は人狼と同じ。殺処分でしょ」
「天井を落とされた方はたまったもんじゃない」
「それじゃあ、ハクビシンを救うにはどうすればいいの?」
「東京から絶滅させることだ。繁殖させなければ殺す数を減らせる。生まれてきても辛い思いをするだけだから」
「あなた、人狼は恋をするべきじゃないって言ったわよね? つまりこの先ずっと結婚もしないし、家族も作らない」
「その方がいい」
「でもそれだと自信が持てないんじゃない? この世に何も残すことなく、ひとりぼっちで生きていくなんて」
「残すものならあるじゃないか。例えば君は素晴らしい絵を描き、誰かを感動させ、そのノウハウを後世に継承していくに違いない。母ウサギが子ウサギに、生きるための知恵を授けるのに似ている」
「どうしてウサギなの?」
「ウサギは人生の全てを教えてくれるから」
「オオカミがウサギから学んでいいのね」
「みんな『シートン動物記』を読むべきだな。それはさておき、俺は君の絵に勇気をもらったわけだから。もっと自信を持ってほしい」
青山羊葵は少し間を置いて言った。
「私は……普通の女の子みたいに恋をしてみたかった。それに施設暮らしだったから家族を持つことに憧れてた。人狼にはそんなこと許されないってわかっているけど……」
「そうしたいなら、そうすればいい。ハクビシンを見ろ。奴らは人間を恐れない。自分が生きることを当然だと思っている」
電線の上にいたハクビシンはこちらをじっと見下ろしていたが、のそりのそりと電線を伝ってどこかへ向かっていく。
「今、俺達はとんでもない悪党を見逃したことになる。奴はこれからも糞尿を垂れ流し、どこかの家の天井を破壊し、子供を産むだろう。君もやりたいことをやればいい」
「……やりたい放題やったら、人間に殺されてしまうわ」
「そうだ。自分をつらぬきたいなら、強くならなくちゃいけない。ハクビシンのように」
「強くなるわ。でも、一人じゃ無理よ。支えてくれる人がいなくちゃ強くなれない。あなたにいてほしい」
戌井は、何か言わねばならなかった。日和をこの目で見つけるまでは調子を合わせるのだ。
「大丈夫だ。サポートする。君が独り立ちできるまで」
青山羊葵は心底ホッとしたような顔をした。
「……ねえ、戌井くん。手を繋いでもいい?」
「だめだ」
「どうして?」
「誰とも手を繋いだりしないから」
「でも、手の震えが止まらなくて」
戌井は思案した。手を繋ぐだけで彼女の精神が安定してくれるなら悪くはない。彼は手を差し出した。
「日和さんの監禁場所までだ」
「日和さん……ね」彼女は意味ありげに呟いた。「あなたともっと早く出会っていればよかったのに」
「出会ってるはずだ。去年の文化祭で」
「その時にあなただって気付いていればよかった。あなたが運命の人だって。そしたらこんなことにはならなかったわ」
手を繋いだ時、青山羊葵の手は震えていなかった。




