第28話 逃亡資金
「まずは荷物をまとめるんだ」と、戌井は言った。「そこがどこだか知らないが、警察はまだ動いてないから家には帰れる。一人暮らしか?」
「ええ。両親はいないの。イラストの仕事でけっこう稼いだから、施設は出たわ」
「家にはどれくらいの現金がある?」
「50万くらい……銀行に行けばもっとあるけど」
「いや、銀行はまずい。警察はすでに君の口座を監視しているだろう。大きな金を引き出せば、逃亡の兆しありとして通報される」
「銀行の預金は諦めるしかないの?」
「紙くず同然だな。捕まりたくないなら二度と手を付けるな。俺が逃亡資金を用意する。100万円ほどだが」
汚れた金のほとんどは安全な株や債券に投資しており、現金で残しているのは100万円のみだ。
「1時間ごとに進捗を入れる」
「30分ごとにして。何も連絡がないと不安で押し潰されそう」
「いいだろう」
通話を切った後、戌井はマイナスドライバーを持ってクローゼットに向かった。ワイシャツをかき分けて奥にある壁に手を這わせ、小さな溝を見つけるとそこにマイナスドライバーを差し込む。別の場所でガコリと板が跳ね上がるので、それを取り外すと空間が現れる。そこからビニール袋に入った現金を取り出した。
もしもの時のための50万円だった。クローゼットは自分で改造したが、警察のガサ入れでも気付かれなかったようだ。
残りは家に帰れなくなった場合に備えて、裏稼業から引退した男に預けている。確か、夫婦で中華料理店を営んでいたはずだ。財布の中にはその店の名刺が入っている。
20分後、戌井は小さな中華料理店に到着した。青山羊葵にメッセージで進捗を入れてから、店の中に入る。客は男性の2人組とおひとり様がいて、どちらもテーブル席にいる。カウンター席には誰もいなかった。
戌井はカウンターに近付き、メニューを見ることもなく手を上げた。女性の店員がコップに水を注ぎながら、「はい、ご注文は?」と訊いてくる。
「店長と話がしたい」
店長の男は奥の厨房で皿を洗っていたが、戌井の声を聞いてこちらを振り返った。妻と思しき女性店員と入れ替わる形で、カウンターにやって来る。
「おたく、誰だっけ?」
「あんたに預けているものがあるはずだ」
戌井の言葉に店長はしばし思案した。戌井は目深に被っていた帽子を上げて、自分の顔を見せた。今は黒髪にして隈も消しているが、それこそが裏稼業における彼の顔だ。もっとも顔を隠していることの方が多かったが、この男は戌井の素顔を知る数少ない人間の一人である。
店長はニヤッと笑みを浮かべた。
「久しぶりだな。裏口に来てくれないか。例のものは持ってくるから」
しばらく待つと裏口の扉が開き、店長が黒いビニール袋に入った札束を持ってきた。
「手数料は引いておいたよ」
戌井はそれを受け取ると、その場で金をかぞえた。引かれた手数料は妥当な金額だ。合計すると100万円よりはやや少なくなっているが、別にかまわないだろう。整形費用と当面の生活費は賄える。
「仕事を再開する気はあるか? あんたを指名する奴は多いぞ」
裏稼業から引退した後も、仲介屋として小銭を稼ぐ者は多い。職業的犯罪者と呼ばれる連中のほとんどは直接連絡を取られることを好まない。必ず間に誰かをはさむ。この男もそうだ。今も現役の連中と繋がっている。
「俺も色んな奴とヤマを踏んできたが、あんた以上にタフな奴はお目にかけたことがない。普通の生活なんて退屈じゃないのかい?」
「全く退屈じゃない。兎田と連絡を取れるか? どこで会えるか知りたい」
店長の顔が険しくなった。兎田は逃がし屋の名前だ。戌井が厄介事に巻き込まれていると思ったのだろう。
「俺が逃げるわけじゃない。それと転売屋もいる。ケータイを2つ売ってくれる奴だ」
「連絡は取れる。でも今は忙しいから閉店後にしてくれないか?」
戌井は札束から一万円札を取り出した。
「大急ぎで頼む」
「よし」
店長は一度店内に戻り、数分で帰ってきた。メモ用紙を差し出してくる。
「兎田も転売屋も、それぞれそこに書いてある場所で会える」
「ああ」
「鰐淵恭也の噂は聞いたか?」
戌井の瞳がわずかに揺らいだ。
「いいや。何かあったのか?」
「何も聞かないから訊いたんだ。あんたという優秀な飼い犬を失って、奴も運が尽きたのかもな」
戌井は鰐淵恭也のことを何も知らなかった。わかっているのは極めて優秀な犯罪プランナーということだけだ。なぜ6歳の戌井を拾い、殺し屋として育て上げ、あっさり手放してしまったのか。尋ねてみたことはあるが何も教えてくれなかった。
鰐淵恭也の安否は気になる。もし窮地に陥っているなら放っておけるのか、戌井にはわからなかった。しかしそうだとしても鰐淵恭也が戌井に助けを求めることはないだろう。戌井は何も言わずに背を向けた。
「次は客として来てくれよな。美味いって評判なんだぜ」
「また今度な」
そうは言ったが、二度と来るつもりはなかった。店から離れると戌井は青山羊葵に連絡した。
「金を用意した。どこにいるか教えてくれ」
「ねえ、さっき……新しい生き方を身につけるって言ったけど、具体的には何をするの?」
「君が辰巳たちにやったのと似たようなことをだ」
「また同じことができるなんて思えない。あの時は、自分が自分じゃないみたいだった」
「日和さんはどうやって攫ったんだ? 警戒心が強いから、そうそう隙はないと思うが」
「帰り道に堂々と接触したわ。強い根拠で疑われているわけじゃなかったから。あなたのことを話したら興味を持ってくれた。辰巳の件は気にしてないから、漫研部に戻ってほしいって話」
「その後は?」
「『誰かに尾行されてる』って言ったの。本当にそんな気がしたのよ。なんとなくだけど誰かに見られているような気がするの」
「何だと? 今もか?」
「確信は持てないけどたぶん……さっき家に帰って、荷物をまとめて出たらまた変な感じがした。だけど私の思い過ごしかも。自分が追われてるって思っているから視線が気になるだけかもね」
「その感覚はいつからだ?」
「一昨日かしら、あなたがブラスターに捕まった日からよ」
「ふむ。日和さんを攫った時について続きを話してくれ」
「誰かに尾行されている気がしたのは本当だったから、私は本気で怯えて見せた。ストーカーかもしれないってね。演技をする必要はなかった。ほんとに怖かったんだもの。それで日和さんの手を取って一緒に逃げ出したの。人気のない路地までね。日和さんは私を疑っているくせに、私が怖がっていたら心配してくれた。お人好しにもほどがあるわ。あなたが彼女を生かしている理由が少しわかったかもしれない」
日和は確かにお人好しだが馬鹿ではない。彼女は青山羊葵が誰かに尾行されているという話を信じた。日和も視線には敏感なはずだから、尾行者の存在に気付いたのではないか。
戌井はひょっとするとSTが青山羊葵を見張っているのではないかと考えたが、どうもそうではないらしい。日和も一緒に逃げたということは、第3勢力の誰かが青山羊葵を付け狙っているのだ。
今のところ青山羊葵は楽観的に考えている。素人は都合の悪いことに目を瞑りがちだ。しかし電話越しに指摘すると彼女がますます不安定になってしまうから、今は何も言わないことにした。
戌井は言った。「その後は?」
「辰巳の知り合いに、お金さえ払えば誘拐でも何でもしてくれる人達がいるの。その人達が車でいきなり目の前に現れたから、日和さんはそっちに気を取られた。その隙に私が彼女に強い睡眠薬を嗅がせたの」
「君にはその方面の才能がありそうだ」
「あなたも一緒に来て欲しいの」
戌井は沈黙した。
「一人ではやっていけない……こんなこと。一時的ならまだしも、何年も続けるなんて正気の沙汰じゃないわ」
「君は絵を描く仕事で食って自立している。すでに何かを一人で成し遂げた経験がある。慣れの問題だ」
「イラストレーターとしての実績も失う。指名手配されたら今のアカウントは使えなくなるし、似たような絵を描いたら怪しまれる」
「ほとぼりが冷めるまで待つだけだ。何年か経てばみんな君のことを忘れる。その時になったら新しい名前で活動を再開すればいい。それまでは別の仕事をして生きる。一時的なものだ」
「自信がない。怖いの。ひとりぼっちで、いつ殺されるかと怯えながら暮らすのは。そんな生き方、今までしてこなかったから」
「完全に一人というわけじゃない。俺の紹介する逃がし屋は女性だし、面倒見もいいから、そんなに心配しなくていい」
「嫌よ!」青山羊葵は言った。「私と一緒に来ると言って。お願い。私、がんばるから。今の私にはあなたが必要なの」
戌井は悲しい気分になった。彼にできるのは道案内までだ。先立つものだって用意してやれる。だが一緒には行けない。青山羊葵を殺したくはないが、これ以上厄介な存在になるならそれも覚悟せねばならない。
必要とあらば戌井は躊躇いなく殺るだろう。とにかく今はノーと言えば日和が死ぬ。
戌井は言った。「……わかった。君を助けるからには最後まで責任を持つ」
「ほんとう? 嘘じゃないわよね?」
「日和さんは殺さないでくれ。それが条件だ」
「わかったわ」
「逃げるなら早い方がいい。居場所を教えてくれないか?」
☂
戌井は転売屋のところに寄って、プリペイド式の携帯電話を2つ購入した。逃亡中の犯罪者には必需品だ。偽の名前と住所を使ってすぐに利用できる状態になっている。
青山羊葵とは日和のスマホを通して会話していたが、できれば最初からこちらの携帯電話を使いたかった。STに盗聴されていないことを祈るばかりだ。
青山羊葵のスマホについては戌井が彼女のもとに向かう間にSIMカードを二つ折りにして端末のバッテリーを抜き、屋外のゴミ箱に捨てるよう指示しておいた。
青山羊葵は帽子をかぶり、髪を黒く染めてメガネもかけていた。傍らに小ぶりなダッフルバッグが置いてある。橋の欄干に寄りかかり、ぼうっと濁った川を眺めている。戌井が近付くと、彼女は弱々しい笑みを浮かべた。
「いったいどこで間違えたんだろうって考えていたの」
「辰巳なんかと関わった時からだ」
「自己肯定感の低い女は、悪い男に惹かれるものなのよ」
「君には絵の才能がある。誰にも依存せずに生きていける」
「いいえ、私はずっと……馬鹿みたいって思うでしょうけど、自分を守ってくれる王子様を求めていた。人狼だという負い目があるから、仕事が上手くいっても自信なんて持てなかった。辰巳に惹かれたのは必然だった」
「俺には理解できない」
「恋に落ちたら抗うことはできないのよ。あなたもきっとそう」
「人狼は、恋をするべきじゃない」
青山羊葵は帽子の鍔を少し上げて、意外そうに戌井を見た。
「ふうん。あなた、恋が何なのかちゃんとわかっているのね。鈍感そうだと思っていたのに」
そう、恋がなんなのかくらいわかっている。
人は恋に落ちると、脳内でドーパミンなどの神経伝達物質を大量に分泌し、まるで麻薬中毒のような状態になる。この状態では判断能力が大幅に低下し、通常よりも合理的な判断ができなくなる。人狼でも体内で分泌されるものには抗えないから、いわゆる恋の病にはかかってしまう。
それが青山羊葵の身に起こったことだ。彼女は判断を鈍らせ、いかにもなやくざ者に引っかかり、理性を取り戻した後には、くだらない男のために人生最大の過ちを犯すことになった。
人狼が自分で自分をコントロールできない状態に陥ったら、あっという間に何もかもをぶち壊しにする。
だから戌井は恋愛に関する話題が出ると無視するようにしている。無視しているうちに脳が重要な情報とみなさなくなり、こんな状況でなければ勝手に聞き流してくれるようになった。本当に聞き取れない時もあるくらいだ。
「日和さんはどこにいる?」
「私を逃がし屋のもとに連れて行くのが先よ」
「だめだ。先に彼女の安否を確認する。君と一緒に行くのはその後だ」
「日和さんの居場所を知っているのは私だけ。あなたは私に逆らえないはずよ」
「君を拷問して聞き出すこともできる」
青山羊葵は後ずさった。そんなことはまるで想像もしていなかったみたいに。
「そんな……まさか。拷問なんてやったこと――」
「ある」
戌井は何の感情も込めずに青山羊葵の肉体を見つめた。彼女は冷や汗を流した。戌井が一歩踏み出すと、彼女はよろめいて欄干に背中をぶつけた。彼は腕を伸ばして欄干に手を置き、有無を言わせぬ口調で言った。
「日和さんの居場所を言え」




