第27話 犯人を励ます
3分後に電話がかかってきた。戌井はワンコールで出た。
「日和さん?」
「……彼女のことをとても大切に想っているようね」
声は覚えていないが、状況的に青山羊葵だろう。発信者の名前は日和だったから、青山羊葵が彼女のスマホを使ってかけてきたことになる。その理由は考えるまでもない。
「日和さんは無事か?」
「ええ。……今のところは」
「君が生き延びる道は一つしかない。日和さんには手を出さず、そのままどこかに逃げることだ。俺は追ったりしない」
「逃げるあてなんてない。どこにもない」
青山羊葵の声は涙で潤んでいるようにか細く、弱々しかった。彼女はこういう事態に慣れておらず、ひとりぼっちで、表の社会を離れて生きる術も持っていないのだ。
戌井の留守電を聞いてやっと電話をしてきたわけだが、彼を手玉にとる自信は全くなく、ほとんど絶望しているようだ。追い詰められたら何をしでかすかわからない。
「どうして今になって襲ったんだ?」戌井はいくぶん声をやわらげて訊いた。「今までは我慢してきたんだろう?」
「辰巳と別れたかったのよ」
「奴はそれを許さなかった?」
「別れたいと言ったら殴られたわ。暴力は日常茶飯事だった……小突いたり、首を絞めたり、平手打ちしたり。私がいちいち何をしたのか知りたがって、言うことを聞かなかったら私の恥ずかしい写真を学校にばらまくぞって脅された。誰にも相談できなかった。だって彼は極道だもの。わかるでしょう?」
「ああ」
「私は我慢強い人間だった。ずっと食べたことはなかった……私は中学生の頃に人狼病にかかったの。皆既月食の日に獣の夢を見たってことだけは覚えている。その時、なぜかはっきりわかった。私は人狼になったんだって」
人狼になる方法は2通り。親が人狼で先天的になる者と、理屈はわからないが、皆既月食の夜に人狼病を発症する者がいる。戌井は後者だ。元々は人間だった。
「ちゃんと分別はあったから、麻薬みたいに一度食べたらダメになるってわかってた。それに友達はたくさんいて、人のことは好きだった。だから我慢できた。大きな隈はできちゃったけど」
「コンシーラーで隠していたんだな」
「あなたにも隈があったわよね? あなたを初めて見た時……私と同じにおいを感じた。人狼はいつ日常が崩壊するかわからないから、普通の人間より日々を大切にしているのよ。あなたもそうだとわかった時、私は確信した。人狼なんでしょう? 戌井くんも」
「いや、俺は人間だ」
「本当に? 嘘を吐かないで。本当のことを言って。お願いよ」
青山羊葵の声がだんだんと鋭く、不安定になっていく。彼女の望むとおりに言わなければ、日和に良くないことが起きそうだ。
「……そう、君の言うとおりだ」
「やっぱりね。だから辰巳があなたを人気のないビルに誘き出して、痛めつけるって言い出した時にはチャンスだと思ったの。上手く行けば、あなたが彼を始末してくれるかもしれない……」
「でも、そうはならなかった」
「雉真くんのせいよ。念のため盗聴器を仕掛けておいてよかった。このチャンスを逃すわけにはいかなかったから。辰巳は私がイラストの仕事で稼いでいることを知って、お金を無心するようになっていた。このままだと私は一生、辰巳の食い物にされる。だから、いざとなったら私が殺ろうと待機していた」
「そして初めて人を喰った」
「ええ、今まで味わったことのないほど美味しかった。気分もすごくいい。頭がすっきりしているし、力が漲ってくる」
「また食べたいか?」
「ええ、いえ、どうかしら……」
一度食べたら、次も食べないようにするのは難しいだろう。
「私の思惑通り、あなたは逮捕された。あなたが占われたら絶対黒になるって確信してた。そしたら殺人事件もあなたの仕業ってことになる」
「けっこういいところまで追い詰められたぞ」
「それなのにあなたは釈放されて、預言者はなぜか私を疑っている。どうしてこうなっちゃったの?」
「日和さんが俺を信じてくれたから」
「彼女に優しくするのは演技? それとも本気なの?」
「彼女は今や俺の日常の一部なのさ」
「彼女は預言者よ。私達の天敵。それはわかってる?」
「入学前から知ってる。何なら次の満月の夜に占われる予定だった。だが何もするつもりはない」
「あなた、頭がおかしいわ。ブラスターに大人しく捕まって、檻の中に入ったのもそう。どうせ死ぬなら最期くらい大暴れしたいって思わないの?」
「思わない」
戌井は静かに暮らしたいと思うのと同じくらい、静かに死にたいと思っている。死期を悟った野生動物が群れから離れ、どこか茂みの中でひっそり死ぬように。それこそ高潔な死にざまだ。
「私はきっと暴れると思う。何もかもどうでもよくなっちゃうの。こんな理不尽な世界、壊してしまいたい。今がそういう心境なのよ。白鳥先生がいなくなったのも大きいかも。あの人が人狼だとは知らなかったけど、受験の不安とか、日常の相談に親身になってくれて……いじめを意図的に助長していたのは悪いことだと思うけど……先生がSTに捕まったって聞いた時はただただ恐ろしかった」
青山羊葵が思い切った行動に出たのは、白鳥マリアの件で精神が不安定になったことも一因だろう。戌井は言った。
「諦めるのは早い。君には日和さんという人質がいる。俺は彼女のことが大事だ。たぶん……我が身よりも。それを利用すればいい」
「そんなことを言って、私を出し抜くつもりでしょう? 私はあなたが怖い。戦っても勝てない。あのビルで、あなたがどんなことをしたのか知っているのよ。あなたはプロよ。私はただの女子高生なの!」
青山羊葵はついにすすり泣き始めた。
「さっきも言ったとおり、生き延びたいなら逃げることだ。俺と戦おうなんて考えるな。むしろ逃亡の手助けをしてやってもいい」
「え?」
「辰巳たちを喰ったことについては何とも思っていない。奴らは人を食い物にした。それなら逆に自分が喰われる覚悟もしなくちゃいけない。奴らは報いを受けた。それだけのことだ」
「私は自分を守っただけなのに。人狼というだけで、どうして殺されなくちゃいけないの?」
「嘆いてもはじまらない。生き延びたいなら、今やるべきことに集中するんだ。逃げ切ることだけを考えろ」
「逃げるって、どこへ?」
「逃がし屋を紹介する。彼女は狂信者で、人狼のためにどこへ行き、何をすればいいかを教えてくれる。君はこれまでの生活を全て捨てて、新しい生き方を身につけることになる」
「そんなこと……私にできるのかしら。想像もできないわ」
「誰でも始めは素人だ。俺もそうだった」
「あなたはいつから人狼になったの?」
「6歳の時」
「ご両親は?」
「父は交通事故で死んで、母はSTに殺られた。母は人間だったが、俺を守ろうとして隊員を負傷させたから」
「人間を憎んでいないの?」
最初の頃は憎悪もあっただろう。しかしそれも人肉の味を忘れるのと同時に忘れてしまった。
「母はそんなこと望んでいないと思う」と、戌井は言った。「俺が平穏に暮らすことを望んでいる。だから裏社会で必死に生き延びて、ようやくこの生活を手に入れた」
「私はそれを台無しにしようとしたわけね。あなた、私に怒っているはずよ。助けるなんてウソ。私を騙そうとしているんでしょ?」
「俺に濡れ衣を着せようとしたことなら、もう怒ってない。君が犯人でなければいいのにと思っていた」
「……どういうこと?」
戌井は書き物机の方に行って、額縁を手に取った。文化祭でもらった漫画研究部の冊子をそこに入れている。
「青山羊部長の絵が見られなくなるのは残念だ」
「そんなに私の絵が好きなの?」
「すごくいい絵だ。去年の文化祭に行った時、俺は……あまり自信がなかった。色んな高校を見学してきたが、自分がそこに通っているイメージを持てなかったんだ。小学校にも、中学校にも通ったことなかったから」
戌井は文化祭に行った時のことを思い出した。制服を来た学生達が、楽しげにはしゃぎながら廊下を行き交っている。陽気で騒がしく、お気楽な雰囲気だ。
戌井はどうしてもこの雰囲気になじめなかった。他の高校の文化祭に行った時には、クラスの出し物などには目もくれず、ただ廊下を通り過ぎて帰ってしまった。
その時も戌井は帰ろうと思った。どの高校にもぴんとこないし、受験勉強にも身が入らない。こんなところに通っていったい何になるのか。自分は場違いな人間なのだ。暗い顔でとぼとぼ廊下を進んでいると、目の前に紙切れを差し出された。それが漫画研究部の冊子だった。
「この表紙の絵を見ると、なぜだか懐かしい感じがする。実際にこの高校に通って、色んな思い出を作ってきたみたいな。この絵を見て、俺はちゃんと高校生になれると思った」
青山羊葵は思わずふふっと笑った。
「なにそれ。なんだかおかしい」
「君の絵には人の心を動かす力がある。できることなら生き延びて、また絵を描いてほしい」
青山羊葵は数分間、黙り込んだ。戌井は彼女に考える時間を与えた。やがて彼女はすうと息を吸い込み、毅然とした声色で言った。
「いいわ、あなたの指示に従う。私を助けて」




