第25話 一緒に夕食を
家の扉を開けた瞬間、戌井は複数の知らない人間のにおいを嗅ぎとった。
おそらく捜査関係者がこの部屋を調べに来たのだろう。中に誰かいるわけではないと思うが、警戒しながら部屋の中を一つ一つ点検していく。誰もいない。
腹立たしいのは、物を散らかしたまま出ていかれたことだ。ソファーの位置は全く違うし、衣類はハンガーから取り外されてしわくちゃになっているし、収納されていたものは悉く外に放り出されている。
捜査関係者の汗臭いにおいは特に我慢ならなかった。窓を開けて換気をしてから、戌井は部屋を片付け始めた。物が少なくて助かった。全てがあるべき場所に戻り、ソファーに座って綺麗な部屋を眺めると心が落ち着く。気が散るものが少なく、清潔な部屋というのは、集中力を維持するために重要なのだ。
日和が訪ねてきた。ガスマスクを脱ぎ、黒いレザージャケットとロングスカートに着替え、どこにでもいそうな可憐な女の子になっていた。
「言い忘れてました! ガサ入れで部屋が散らかって――あれ?」
「もう片付けた」
「うう……誤認逮捕した上に部屋の中まで散らかして……本当にすみません」
「それで怪しいものが見つからなかったから、こうして釈放されたんだ。必要な手続きだったと思うことにしよう」
戌井は立ち上がって日和に歩み寄り、彼女の持っていたトートバッグを取り上げた。台所に置き、銀鮭の切り身などの食材を取り出していく。
「料理はほとんどしたことがない。やり方を教えてくれ」
「え、ですが戌井くんはゆっくりしていていいんですよ。色々あって疲れているでしょうし」
「あの程度では疲れない。君の弁当を食べて、どうやって作っているのか興味が出てきてな。教わりたいと思っていたんだ」
「私の料理で……?」
日和はほんのりと頬を桜色に染め、輝くような瞳で静かにこちらを見つめた。
「戌井くんって最初はクールで冷たい感じがして、こういうことにはあまり興味がないと思っていました。でも、意外と何でも興味を持つんですね」
「俺は、日々を豊かにすることに興味を持っているのさ」
☂
鮭のムニエルにレモンバター醤油をかける。口に運ぶと、まず感じるのはパリッとした皮の食感。そしてすぐにバターの風味とともに溶けていくような、鮭の柔らかさが口いっぱいに広がる。
「美味しい。皮目からじっくり焼いたおかげだな」
「つまみ食いはダメですよ。まだ副菜ができてないんですから」
「すまん。良い匂いがしたから、つい」
「戌井くんの子供っぽいところ、初めてみました」
日和がジャガイモを潰しながらクスクスと笑う。味噌汁はすでに作ってあり、残すは副菜のポテトサラダのみ。戌井がのんびり鮭を焼いている間に、きゅうり、玉ねぎ、ハムは日和が切ってしまい、にんじんだけ切り方を教えるために残してくれた。
「にんじんはイチョウ切りにします。こんなふうに」
日和は皮を剥いたにんじんを縦半分に切り、さらに縦半分に切った後、横においてタンタンタンとテンポよく薄切りにしていく。
「続きをどうぞ。そうそう。もうこんなにリズム良く切れるなんて、凄いですね!」
刃物は手慣れている。何をどう切るかがわかれば、素早く正確に切れる。食材を切ったのは久しぶりだが。
メインの鮭が冷めてはいけないので、あとは日和が手際よくやってくれた。ご飯をよそい、テーブルに料理を並べ、2人で「いただきます」を言う。
「本当に、この鮭おいしいですね。戌井くんの焼き方が上手かったんですよ」
「指示通りにやっただけだ」
「初心者は言われてもできません。私なんてすぐに追い抜かれちゃうかも」
「俺はマルチタスクが苦手だから、鮭を焼きながら他のことをするなんてできない。各工程を細分化しても、タイミングや段取りを計算しないといけないだろ? 1人だと難しいだろうな」
「それなら2人で作ればいいんですよ。また一緒に作りませんか?」
「いいのか? 気を遣っているなら――」
「私もそうしたいだけです。一人暮らしが長いので誰かと一緒に料理をして、それを一緒に食べるのは新鮮で……すごく楽しいんです」
「うん、そうだな」
日和は消え入りそうな小声で言った。「戌井くんといるのも楽しいし……」
「俺も、日和さんといるのは楽しい」
日和は味噌汁を飲みかけてむせた。
「大丈夫か?」
「……ずるい。戌井くんはずるいです」
「何が?」
「何でもありませんっ。ほら、冷めないうちに食べましょうよ」
☂
満月の夜まで、あと4日。
流行り病で一週間ほど休むと連絡を入れていたが、何事もなかったかのように登校することにした。ただの風邪だったということにしておけば問題あるまい。
教室に入ると先に来ておしゃべりしていた生徒達がぴたりと会話をやめて、こちらを腫れ物のように見てきた。その反応は気になったが、戌井はそれどころではなかった。学校を休んだ分、勉強の遅れを取り戻さねばならない。
「よお戌井」雉真はいつも通り陽気な挨拶をした。「大丈夫か?」
「大丈夫じゃない。頼む、ノートを見せてくれ」
「そういう意味で聞いたんじゃねえんだけど。一日休んでアウェーになっているかと思ったのに勉強の方が大事なのかよ。真面目か?」
「アウェーになる、とはどういう意味だ?」
「知らなくていい。ノートなら俺のより日和さんの方がよくないか? 頭良さそうだし」
ちょうど日和が登校してきたところだった。戌井がじっと見つめていると、日和は思いの外あたふたと狼狽えてしまう。
「な、何でしょうか?」
「昨日の分のノートを見せてほしい」
「ダメです、私のノートはとても見にくいので……雉真くんの方がいいですよ」
「俺もそんなに綺麗じゃないぞ。よし、どっちが見やすいか勝負しようぜ」
日和のノートを見た雉真は、視力検査をしているかのように目を細めた。
「お恥ずかしい……」
「いやいや! 頭良い奴のノートは汚い説あるから」
「汚い……?」
「いや、そうじゃなくてほらっ、読みにくいフォントで書くと記憶に残りやすいという説も……」
「もういいです。どうせ私のノートなんか……雉真くんが見せればいいんですよ」
日和はぷいと顔を背けて、本を読み始めてしまった。雉真は自分の席に戻り、ノートを差し出しながら神妙な顔付きで言った。
「ありゃあ天才のノートだった。俺達には理解できねえ。こいつで我慢しな」
☂
戌井は日和の手作り弁当を食べ進め、最後に卵焼きを残す癖があることに気が付いた。甘めの味付けが懐かしい。おぼろげな記憶だが、おそらく母の味付けと似ているのだ。
その卵焼きを味わって食べていると、雉真が「なあ、気にしなくていいからな」と言った。
戌井は眉をひそめた。「何をだ?」
「みんなお前を犯人だと思っているんだ」
クラスメイト達がよそよそしかった原因はこれか。
「学校に連絡は行ってないはずだが」
「ブラスターに連行されたのが噂になってるんだよ。霊媒師に疑われているなら人狼かもしれないってな」
「あの野郎、もう少し静かにできなかったのか」
「静かにしていればいいの? そういう問題なの?」
「殺ってないなら堂々とするだけだ」
「いやあっかっこいい! どこまでも付いていきますぜ旦那ァ。俺は、お前じゃないって信じてるからな」
「俺は他人を信用しない。お前のこともな」
日和には論理的に可能性は低いと言われたが、戌井はそのことをすっかり忘れており、依然として雉真も容疑者リストに入っていた。
「えぇ~!? 俺なら殴られる前に獣化して喰ってるっつーの。だって殴られたら痛えしムカつくだろ。我慢できねえよ」
「逆にどうして俺のことを信用できるんだ?」
「そりゃあ、あれだよ。お前さ、あのビルで俺の話を聞いてくれただろ? 自分のやり方を押し通すんじゃなくて俺の意見を尊重してくれた。それなのにお前があの後、辰巳たちを殺るわけねえよ」
戌井は雉真の屈託のない笑みを見つめた。
「……卵焼きいるか?」戌井は言った。「最後の一つ」
「いるいる~」




