第24話 シャバに出る
人狼事件において面会室や取調室は設けられていない。容疑者の移動に伴い、獣化される危険性が大きいからだ。戌井には待つ以外にするべきことがなかった。檻の外へは一歩も出られないため、中にはトイレと洗面所とシャワーが完備されている。
戌井は就寝までの間、読書したり筋トレをして過ごした。本当は絵を描きたかったが、タブレットは押収されている。ノートとボールペンでできることは、檻の中にあるものをデッサンすることくらいだが、それも本やネットでノウハウを調べ、自己フィードバックを行わなければ効果的な練習にならない。
特に面倒なのは夜だった。檻の中の様子は監視されているため、普通の人間のように眠ったふりをしなければならない。
人狼にとって、夜は長すぎる。
家にいる時には色々なことで暇を潰せるのに、固い寝台に横たわって、じっとしたまま過ごすのは億劫だった。せめて運動がしたい。しかし、たまには瞑想するだけの夜も悪くないだろう。
瞑想は頭の中のゴミを取り除く作業だ。戌井にも不平不満がないわけではない。人並みに、理不尽な世の中に憤りを感じている。人狼に対して少しは救済措置があってもよいだろうに。
だが文句を垂れたところで何も変わるまい。
怒りや苛立ちは自分の行動を鈍らせる。ゴミと同じだ。瞑想では紙のようにくしゃくしゃにして、ゴミ箱に放り投げ、それがちゃんとゴミ箱に入るところまで具体的にイメージしている。
戌井はほとんど毎日、数時間に及ぶ瞑想をしていた。いつも心の静けさを保っていられるのはそのおかげだろう。その夜も瞑想に耽り、きっかり8時間後に戌井は目を開けた。
朝の散歩に行きたくてたまらなかったが、もちろんそんなことは許されない。散歩に行けないと少し元気がなくなってしまう。
朝食を取り、お昼までまた読書と筋トレをし、昼食を取る。その後も同じことを繰り返す。満月の夜まであと5日だ。もし残りの日数をこの調子で続けなければならないとしたら、心の弱い人狼は獣化して暴れるかもしれない。
夕食が支給される時間帯になった。だが現れたのはガスマスクを付けた日和、預言者サニーだった。一緒について来た看守は冷めた弁当の代わりに鍵束を持ち、檻を開けてくれる。
「おめでとう。君はひとまず犯人の可能性が低いから、出ても良いことになった」
「真犯人はわかったのか?」
サニーは首を振った。
「残念ながら、まだだ。とにかく外へ出たまえ」
押収されていた荷物を全て返却してもらい、戌井は外に出た。光が眩しい。肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込むと、閉じ込められていた窮屈さがほぐれて心地よい感覚に包まれた。
「ああ、もう出てきたんですか?」
留置所の入口で銅像のように立っていたブラスターが、急に動き出し、意地の悪い笑みを画面に映し出した。
「本気で白くなりたいなら、満月の夜まで入っていることをおすすめしますよ」
「ブラスター、話し合ってお互いに納得したはずだ。目撃されたのは彼のニセモノだと。本物ならまず姿を見せないし、見せたとしても黒髪だし隈も消している。戌井くんはそんなに馬鹿じゃない」
「そうですねえ。高校生にしては落ち着きすぎているし、極道たちを拘束する手際も見事なものだったとか」
「確かにそれは気になるけど……」
ガスマスク越しにじっと見つめられたが、戌井は肩をすくめるだけで答えなかった。
「少なくとも彼は今回の犯人じゃない」
「事件が解決するまでは容疑者です。ま、せいぜい疑われるような行動は慎むように」
戌井は何も言わずに歩き出した。ブラスターがその背中に声をかけてくる。
「ちなみに辰巳くんの親父殿は、もうあなたに手を出しませんよ。約束は約束なんでね」
戌井は振り返った。ブラスターはすでに背中を向けていた。警察署の中に消えていく。
するとあの男は、辰巳の親父と話をつけてくれたのだ。ここから出たら、まず辰巳の親父をどう宥めるかが課題になると思っていた。でもこれで組織とやり合う必要はなくなったわけだ。
どうやったのか聞いておきたかったが、知らなくても問題はないだろう。いけ好かない男だが、ブラスターが話をつけたと言うのなら中途半端にはやらないはずだ。
「話をつけるまで檻から出すなって言われたんだ」サニーが言った。「君を保護するためっていうのは本当だったみたい」
「逮捕までするのはやり過ぎだ」
「本当にごめんね。いつも強引なんだけど今回は特にひどい。何だか戌井くんに執着しているように見えるんだけど、気のせいかな?」
「さあな。あいつとは会ったこともないはずだが」
「でも戌井くんのことだけ下の名前で呼ぶんだよね。赤熊隊長のこと好きなのに彼女ですら下の名前で呼ばないんだから」
「どうでもいい。それより霊媒の結果はどうだった?」
「木虎を霊媒したが、辰巳が誰に計画を漏らしたのか彼は知らなかった。まあ聞かないよね、普通は。牛永も知らないだろうな」
「最初に辰巳を霊媒したのは間違いだった。あいつにその質問をするべきだったんだ」
「遺体が食い散らかされていて誰が誰だかわからなかったし、DNA鑑定は数日かかる。その間に犯人が逃亡する可能性もあるだろう? それで適当な肉片を使って霊媒したら辰巳だったから……」
「そうだとしても、質問内容はよく考えるべきだったな」
「んー、ブラスターは脳筋なところもあるけど、今回みたいな手抜かりは珍しい気がするなあ」
終わったことに目くじらを立てるのは時間の無駄だ。
「まあいい。他に怪しい奴はいなかったのか? 青山羊部長は?」
「捜査官がしつこく取調べをしたけど、青山羊部長も他のお友達も、何も知らないの一点張りだ。でも恋人が知らないってのは少し変だよね。彼女はとっくに気持ちは冷めていたと言っていたけれど……」
「辰巳の友達は、青山羊部長について何か言ってなかったか?」
「辰巳は彼女のことが好きで、そのことをよく友人に語っていた。だから2人は上手くいっていると思っていたらしい」
「話が食い違っている」
「男の子の気持ちはよくわからないけど、彼女の目の前であんな恥をかかされたら、真っ先に言い訳をしにいくと思うんだ。で、見栄を張るためにとんでもないことを言い出す」
「俺をボコボコにする計画があるとかな」
「青山羊部長はその話に興味を持った。人間を喰うチャンスかもしれないと思って、辰巳に盗聴器を仕掛けてみた。その結果、3人の人間が縛り上げられて放置されているだろ? ビルの周辺は人気のない絶好の狩り場。ぼくが人狼だったら、やるね。間違いなく」
「どうもしっくりこないな。そもそも、どうして俺に濡れ衣を着せようと思ったのか?」
「辰巳と敵対していたし、目撃証言を作りやすい見た目だったからじゃない? 白髪に大きな隈って言えば君だもんね」
「青山羊部長だとしたら、なぜ辰巳の遺体を残したんだ? 霊媒で余計なことを言われたら困るだろうに」
「もしかしたら、彼女は普段人を食べてなかったのかもね。冷静じゃなかったんだ。久しぶりに喰ったものだから、気分が高揚して3人の遺体をぐちゃぐちゃに混ぜてしまったんだよ」
「しっくりこないのはそこだ」と、戌井は言った。「今まで我慢してきたのに、そんな思いつきで犯行に及ぶだろうか。我慢する者には、我慢するなりの信念があるはずだ」
「動機は食欲だけじゃなかったのかも。辰巳は青山羊部長に執着していたが、彼女の方は辰巳にうんざりしていた。だから2人の仲について、証言が食い違っているわけだ。でも辰巳と別れるにはリスクが伴う。なにせ、極道の息子だからね」
「それで以前から始末するチャンスをうかがっていた……」
戌井は他にも青山羊部長が犯人ではない可能性について検討してみたが、思いつかなかった。サニーの推理の方が筋は通っている。
「君に疑われた奴はひとたまりもないな」
「えへへ。一度疑ったのに、やっぱり違うかもって思ったのは戌井くんだけだよ」
戌井はいたたまれない気分になった。疑いを晴らせば晴らすほど彼の心は曇っていくように思われた。
彼女をまんまと欺きたかったわけではない。何か意味のある関係を築きたかった。だが具体的にどうしてほしいのか彼にもよくわからない。戌井はそっと彼女から目を逸らし、まるで初心な男子のような仕草に思わず眉をしかめた。
「要するに、だ。青山羊部長が怪しいと思う。だからぼくは、次の満月の夜に彼女を占うつもりだ」
「逮捕はしなくていいのか?」
「うーん。自分で言っておいて何だけど、疑う根拠が薄いからね。それにまさか自分が占われるとは思ってないだろう。ニュースでは全然別の線を追っていると報道するつもりだし」
「なら占い結果を待つしかないか」
「そうだね。戌井くんはいつも通りの日常に戻ればいいよ。そうだ」
サニーが両手をぱんと合わせて話題を変えた。
「お腹空いてない? 留置所のご飯は冷たくて味気なかっただろう? 君の家で温かいご飯を作るよ。ブラスターを止められなかったお詫びだ」
「君のせいだとは思っていない」
「何が食べたい? 基本、何でも作れるよ」
「いや……」
「遠慮しなくいていい。その……」
サニーは両手の人差し指をつんつんと合わせた。
「本音を言うと戌井くんともっとお話したいし。迷惑かな?」
「迷惑じゃない」と、彼は迷わず答えた。「そうだな。焼き鮭と味噌汁が食べたい」
「いつ食べても美味しいよね! じゃあこのガスマスクをどこかで脱いでくるよ。その後、買い出しして君の家に行くから。先に帰ってて」




