第2話 高校受験騒動②
あらかじめ事前調査していた裏路地で白狼から人間に戻ると、古い自動販売機の底に隠していた『中学校の制服入り真空パック』を取り出した。早着替えは人狼のたしなみだ。
公的な記録上は都内の中学校に入学しているものの難病のため一度も登校していない。父親の勤務先のハワイ支社に伴い渡米。ホノルルの病院で入院生活。中学3年の夏に病状回復、父親の日本本社への帰任と共に帰国。内申書には『病気療養のため特別措置適用』と書いてあるため、高校受験資格を得ている。
ほとんど嘘っぱちだ。特殊な経歴すぎるとは思うが大金を払った分、書類はどれもよくできていた。海外も絡んでいるので事実確認をしにくいというのも気に入っている。
戌井は急いで元来た道を戻った。試験開始時間が迫っている。やみくもに道を走ってきたのであの駅前の横断歩道へ戻る道がはっきりと思い出せない。あそこにカバンを置いてきたのだ。スマホもカバンの中だから地図アプリも使えない。
するとさっきの少女に出くわした。しゃがみ込んで路地の地面に散らばった布の切れ端を摘まんでいる。戌井が獣化した時に破れた制服の切れ端だ。何かの証拠になるかもしれない――だが、今はそんなこと気にしていられなかった。
「あ、さきほどの……」少女は立ち上がってぺこりと頭を下げた。「助けていただいてありがとうございます」
「途中で逃げたがな。さっきの横断歩道に戻りたいんだが道に迷っている。受験で急いでいるんだ」
「もしかして結城高校ですか?」
「ああ。君もか?」
少女は勢いよく立ち上がった。
「そうです! 確かに急がないと。こっちです。ついてきてください」
戌井は少女の後に続いて走った。彼女もなかなか足が速いが、もっと急がないと間に合わない。戌井は痺れを切らして少女を肩に抱え上げた。
「ひゃっ!? 何するんですか!?」
「道案内しろ。口頭で」
戌井が抱えながら走った方がずっと速かった。少女の道案内で駅前の横断歩道に辿り着いた。そこにカバンが落ちていた。戌井は自分と少女の分を拾い上げるとさらに走った。少女を肩に担いでいるので何事かと視線を集めたが、なりふり構ってはいられない。
結城高校に到着した。少女を下ろし、その後は彼女のことを一切気にかけなかった。カバンの中の受験票を忙しなく取り出し、試験会場に入った。立て看板に従って指定された教室に向かう。扉を開けるとどこか薄ら寒い雰囲気を感じた。受験生達がすでに机に齧りつき、テストを受けていたからだ。こちらを見ようともしなかった。
試験官の女がつかつかと歩み寄り、身振りで廊下に出るよう示した。ハーフらしい目鼻立ちのくっきりした顔立ちをしており、香水を付けているのか、花のような匂いがただよってくる。
「受験票を見せて。戌井時雨くんね。悪いけど遅刻は失格よ」
ハーフ教師は全く悪いとは思っていない口調で言った。暗に遅刻した方が悪いと思っているに違いない。通常ならそうだが戌井には正当な理由がある。彼もまた自分に非があるとは思っていなかった。戌井は落ち着いて背筋を伸ばした。
「人狼事件に巻き込まれて遅れました。後でニュースになるはずです。試験を受けさせてください」
「人狼事件ねえ……どんなふうに巻き込まれたの?」
「それは……」
戌井は言葉に詰まった。あの時の記憶もあやふやなのでどこまで話せばよいか、咄嗟に思いつけない。
「彼は私を助けてくれたんです」
振り返るとあの少女がスマホを掲げながら歩いてくる。画面には動画が再生されていた。駅前の横断歩道の映像だ。白髪の少年が灰色の獣から少女をかばうところが映っている。事件が起きれば誰かしらが撮影しているものだ。白髪の少年は戌井だった。ストレスで髪が白くなったという偽造した医師の診断書もちゃんとある。
「猿渡日和と申します。遅れたのは私がショックから立ち直るまで付き添ってくれたからです」
彼女はうまい具合に説明を端折った。灰色の獣に執拗に追いかけられ、白狼に助けられるところまで説明すると長くなるし、リアリティがなくなる。
「もっと早く来るべきだったという反省はしています。でも、彼が遅刻したのは私のせいです。失格にするなら私だけにしてください」
日和は深々と頭を下げた。
ハーフ教師は手を振り、日和に顔を上げるよう示した。
「こんな動画を見せられたら誰も責められない。2人ともこの教室ね。早く席に着いて試験を受けなさい」
戌井と日和は顔を見合わせた。2人とも思わず微笑んだ。
☂
試験が終わると戌井は完全に集中力を使い果たし、ぼーっと黒板を見つめた。自分がぼんやりしていることに気付くと目をつむって瞑想し、精神の回復に努める。5分瞑想すると立ち上がり、帰宅の準備を始めた。
「あの」と少女が声をかけてきた。
今なら落ち着いて彼女の外見を観察できた。少女の黒髪は光の加減で深い青みを帯び、まるで青墨で描かれた水墨画のように繊細な色合いだった。前髪の下から覗く澄んだ瞳には凛とした美しさがあり、かすかな緊張で引き結ばれた唇が不思議と愛らしさを添えていた。戌井は彼女の姿形だけは記憶の片隅に居座り続けることに静かな困惑を覚えた。しかし、肝心の名前を覚えてない。思い出そうとしていると彼女が言った。
「猿渡日和です」彼女は机の上にある戌井の受験票を見た。「戌井時雨くんですね。さきほどは助かりました。改めてお礼を言わせてください」
戌井は眉間にシワを寄せ、さきほど何があったか思い出そうとした。テストを挟んだので記憶が曖昧になっている。人狼に襲われたことは覚えているが細かいことは忘れてしまった。そう、動画があったはずだ。戌井は自分のことがどのように報道されているかが気になって、おもむろにスマホを取り出しニュースを確認した。白髪の少年が人狼から少女を助けた動画が拡散されている。
しかし遠くから撮影されているので顔までは不明瞭だった。自分を印象付ける大きな隈も見えない。人を食べないと睡眠不足のような症状が現れるが、大きな隈はその1つだ。念のため帽子を持ってきておいてよかった。学校を出てから被ろう。
戌井がスマホを凝視しながら反応しないので、日和は気まずそうに両手に指を絡ませていた。
彼は顔を上げた。だんだん記憶が鮮明になってきた。日和の目線では戌井は途中まで逃亡を手助けしたが、逃げられないと悟るや否や彼女を置き去りにし、道に迷ってまた戻ってきた意味不明な男のはずだが。
「礼には及ばない」と、彼は言った。「君のおかげで試験を受けられた。それで貸し借りなしだ」
「あんなの、恩を返したうちに入りません。大したことはできませんが……せめてランチを奢らせてくれませんか?」
「いや、いい」
戌井は短く断り、カバンを持ってスタスタと教室を出た。横目で見ると日和は呆然と立ち尽くしていた。あまりにも淡白な態度だが、彼女は預言者で自分は人狼だ。関わらない方が良いに決まっている。
それに人狼として平穏に生きることを目指すなら、人と関わるのはリスクが大きい。人と関わればどんな犯罪者でも相手を信じたくなるものだ。裏切られたり、上手く行かなかった時に精神が不安定になり、自分自身をコントロールできなくなる。ほとんどの人狼はそれで自我を失い、さっきみたいに箍を外してしまう。そのようなリスクは避けねばならない。
戌井時雨の目的はただ静かに暮らすことなのだから。それ以外は何も望まない。