第17話 極道を倒せ①
日和に言われなくても気付いていた。
乱暴な足音。煙草のにおい。およそ漫画研究部にふさわしくない男達がぞろぞろと美術室に入って来るところを、目の端で捉えていた。そのうちの一人がバスケットボールを投げてきたことも。
戌井は振り返り、飛んできたバスケットボールを片手で受け止める。ボールはそのまま床に落とした。
漆黒の髪をした青年が佇んでいた。几帳面に着こなされた制服と、柔らかな微笑みは、いかにも教師受けの良い模範生を思わせる。だが戌井にはわかった。人を傷付けても何とも思わない男の目だ。
「ぼくの女に気安く触れないでくれるかな?」
「辰巳ちゃん、どうしてここに……?」
青山羊葵の知り合いのようだ。
「よくわからないけど、白髪のイケメンがいるって学校中の噂になっている。そいつが漫研部にいるって聞いたんでね。葵にちょっかい出してないか心配で見に来たんだ」
辰巳と呼ばれた男は値踏みするように戌井を見た。
「でも人違いだったかな。こんな不健康そうな男のどこがいいんだろうねえ」
「誤解しないで。戌井くんはただの後輩よ」
「葵がこんなやつ好きになるわけないよね。だってさあ……性病が伝染りそうな顔してるし。ねえ?」
笑いどころだとばかりに、辰巳はにやにやと取り巻きの男達を見渡した。彼らは下卑た笑い声を上げた。
「一年だよね? ボール拾えよ」
無視をするか、さもなくば徹底的に潰すかだ。いつもその2択しかない。戌井はまず無視を選んだ。
「今日は帰ります。添削ありがとうございました」
「おい、無視するなよ」
美術室から出ようとすると、辰巳に前方を阻まれる。
「このまま行かせると思ってんの?」
戌井は辰巳の横を通り過ぎようとしたが、肩をつかまれた。その瞬間、彼はくるりと振り返り、辰巳の鳩尾に拳を叩き込んだ。辰巳の赤みを帯びた健康的な肌色は、たちまち古びた象の皮膚のような灰色へと変わっていった。
「が……はぁ…………」
息をするのもやっとのようだ。戌井は辰巳の胸ぐらをつかみ上げ、窓際まで引きずっていった。
「な、なにボケっとしてやがる! やっちまえ!」
本性が飛び出たガラの悪い言葉遣いで、辰巳が叫ぶ。その一声で取り巻き達がファイティングポーズを取りながらじりじりにじり寄ってくる。
戌井は辰巳の胸ぐらを掴んだまま、死体を見るようなまなざしで彼らを見渡した。その目に慄いて、ほとんどの男達は足を縫い付けられたかのように動けなくなった。辰巳のような人間なら裏社会で山ほど見てきたが、この高校生達は純粋な凶暴さに欠け、野暮ったい見せかけの威勢の良さだけが空回りしている。
大柄の男がようやっと気力を振り絞り、拳を振りかぶりながら殴りかかってきた。戌井はそいつに辰巳の体を投げてやり、ぶつかってよろけたところへ強烈なパンチを飛ばした。大柄な男は床に叩きつけられた。戌井は辰巳の体を再び引っ立たせると、窓際に連れて行った。もはや誰も戌井に挑もうとする者はいなかった。
戌井は窓を開けると、辰巳の体を顔面から窓の外へ放り出した。美術室は4階にある。辰巳が窓枠をつかんで暴れるが、戌井は背中で彼の体を押し込み、中へ戻れないようにする。
「二度と、俺の前に現れないと誓え」
辰巳は暴れている。戌井はさらに押し込んだ。とうとう両膝が窓の外へ出始めた時、辰巳が音を上げた。
「分かった! 分かったよ! 助けてくれ!」
そのまま落っこちそうになったので、戌井は彼の襟首をつかんで中に引っ張り込んでやった。辰巳はぜえぜえと息を荒らげていた。股間のあたりがじんわりと濡れている。尿のにおいだ。
戌井は鼻の前で不快げに手を振った。
青山羊葵も、日和も、他の部員達もみんな遠巻きに彼を見ていた。戌井は冷静だった。怒りに任せて暴力を振るったわけではない。必要だと判断したから必要な分だけ暴れたのだ。後悔はしていないが、部員達を怖がらせているなら漫研部にはもう来るべきではないだろう。戌井は何も言わずに美術室を出る。すると日和が小走りで後をついてきた。
「私も一緒に帰ります」
「……俺が怖くないのか?」
「戌井くんは最初、争いを避けようとしていました。それこそ無謀というものです。あんなに不良達がぞろぞろいて避けられる争いなんてありませんよ。本当はあんなことしたくなかったのでしょう?」
「ああ」
「それに本当に窓から落とすつもりはなかった。そうですよね?」
「まさか」と、戌井は言った。「奴は小物だ。必ず音を上げると思っていた」
「まあ、少しやり過ぎだとは思いますけれど……」
「中途半端にやるのが一番まずい。やるなら徹底的にだ」
「言いたいことはわかります。仕返しの応酬になれば、お互いに消耗するだけですからね」
「そのとおり」
「相手の戦意を一瞬で喪失させるのが、一番平和的です。それを実行できるのは戌井くんだけだと思いますが。私ならどう対処していたか……対人戦の訓練は受けていますが、あれだけの大人数はちょっと……」
日和は戌井の置かれた状況を自分のことのように悩み始めた。彼女1人では、どうシミュレーションしても対処は難しいだろう。最悪シグP230を抜けばよいだろうが、それでは預言者だとバレてしまう。彼女には助っ人が必要だ。戌井は思わず言った。
「俺が対処する。何かあれば呼んでくれ」
日和は一瞬ぽかんとしたが、だんだんと陽だまりの中で花びらを広げるような、温かく柔らかな笑顔を浮かべた。
「……ありがとうございます。戌井くんがいれば安心ですね。不良どころか獣化した人狼を倒してしまったのですから。戌井くんが一緒なら、人狼と戦う勇気が湧いてきます」
その言葉を喜んでよいものかわからず、何とも気まずい気分になってくる。戌井は無意識に大またで歩いた。日和が小走りになっていることに気付くと歩くスピードを落とし、彼女の隣に並んだ。
「青山羊部長とは話し合えばきっとわかってくれますよ。辰巳先輩の恋人みたいですが……何だかショックです」
戌井は何がショックなのかわからなかったので、黙っていた。
「辰巳先輩に言われたこと、気にしちゃダメですよ」
「なんて言われたんだっけ?」
日和は目をしばたたいた。
「忘れっぽいとは言ってましたが……何かと大変ではありませんか?」
「まあな。嫌な記憶も忘れられるから悪いことばかりじゃないが」
「あ、それなら私は暗記が得意なんです。これからは戌井くんの代わりに色々と覚えておきますね。メモ帳代わりにお役立てください!」
日和はにっこりと微笑んだ。放課後の薄暗い廊下に小さな光が灯ったように感じた。
☂
満月の夜まで、あと7日。
戌井は『リバーブ・リトリート』オリジナルのカフェラテ――メニュー名は、リトリト・ラテだ――を作り、客に提供した。
「ホットのリトリト・ラテです。お気をつけてお持ちください」
研修担当の女の子に「笑顔、笑顔」と突かれたので、戌井は困ったような笑みを浮かべた。2人の女性客はその笑顔を見て嬉しそうに顔を見合わせ、何やらはしゃぎながら席へ向かっていく。今日はやけに女性客が多く、カウンターの前に見たこともない行列ができていた。以前来た時には、もっと落ち着いたカフェだったのだが。
あまりにも忙しく、飛ぶように時間が過ぎた。16時から2時間勤務なので終わったのが18時。
「2時間って短くない?」三鴨店長が言った。「お給料上げるから、4時間でどう?」
「学業との兼ね合いもありますので。でも、慣れたら増やせるかもしれません」
2時間以上は集中力が持たない。合間に10分休憩を挟めばなんとかできるかもしれないが、それも仕事に慣れてから考えるべきことだ。
「学生の本分は学業だものねえ。でも検討してくれるとありがたいわ。じゃ、お疲れさま」
「お疲れ様でした」
コンシーラーを落としてからカフェを出た。電車に乗ってから、さっそく研修のメモを見返した。いつもはスマホにメモするがバイト用にメモ帳を買った。いちいち研修担当者に確認したり、メモを取ったりしたので対応スピードは遅かったがミスはしなかった。何事も正確さが第一だ。バイトも問題なくやっていけそうだった。
戌井は充実感を覚えた。裏稼業では決して味わえない、清々しい気分だ。
スマホを見たのは家に帰ってからだった。雉真からメッセージが届いている。写真だ。どこか殺風景な部屋で雉真が椅子に縛り付けられている。がっくりとうなだれており、ワイシャツは乱れ、血がついていた。
辰巳の仕業だろう。
まったく、ここまで愚かだとは思わなかった。




