第16話 隈がなければ……②
お昼休み。
日和がお弁当を作ってくれているはずだ。よほど楽しみだったのかスマホのメモ帳を見なくても覚えていた。戌井が彼女の方を見ると、日和は顔を真っ青にして目をそらしてしまう。
雉真が肩に手を回して耳打ちしてきた。
「待て。弁当は俺が受け取ってくるから、お前は話しかけるんじゃない。日和さんの命に関わるからな」
「命に? 新手の人狼か?」
「女子には色々あるんだよ」
日和と『けもクラ』の話をしたかったのに、残念だ。同じクラスでもない女子達からお昼に誘われたが、戌井は断った。逃げるように屋上へ行き、そこで雉真と合流して日和のお弁当を受け取る。中身は卵焼き、ウィンナー、おにぎり、アスパラガスやブロッコリーのサラダ。戌井はあっという間に平らげると、日和にメッセージを送った。
戌井:【すごく美味しかった。ありがとう】
日和:【どういたしまして! 空の弁当箱は、また雉真くん経由でお渡しいただければと】
雉真がスマホの画面を覗いてくる。
「さっき、ヤクの売人みてえな方法で受け渡ししたんだけど。これ続けるの?」
「なんでこんな面倒なことになった?」
「お前が隈を消したからだろうが。俺達の隈を返せよ」
「だが隈があると人に不快感を与えるんだろ? 昨日、バイトの面接で言われたんだ」
「ああ、それで。つーかバイトするくらいなら300万貰っとけよ」
「それはそれだ」
海外のあちこちの銀行口座には汚れ仕事で稼いだ大金がある。それは学費と最低限の生活費、緊急用にしか使わないと決めているが、その使い方なら10年くらいは持つだろう。
ではなぜバイトをしようと思ったのか? 記憶力や集中力にハンデを抱えていても、まっとうなやり方で金を稼げるのだということを確かめたかったからだ。入学前から決めていたことなので、あと8日で人生が終わるとは考えていなかったが。それでも採用されたからには最後までやり通すつもりだ。
雉真が言った。「確かに隈があると第一印象は悪くなるな。俺も正直なところ、陰気で不健康で世の中に不満を持ってそうな奴だと思ったわけだし」
「そこまで思っていたのか」
「すまんな。普通、第一印象って6ヶ月くらい覆らないんだけどよ。どんなにがんばっても3ヶ月はかかる」
「ほう」
「でもお前は、少し話しただけでひっくり返しちまうんだよな。そこがお前のすごいところだ」
「俺の特技は第一印象をひっくり返すこと……?」
雉真は笑った。「それ、就活の面接で使えよ」
「まじめに悩んでいるんだ。隈を消したのに、なぜみんな俺を見ているんだ?」
「イケメンって言葉、理解できるか?」
戌井はリスニングに失敗した人のように、途方に暮れた顔をした。
「このワードもだめなのかよ。お前を好きになった奴はみんな苦労する。日和さんも」
「日和さんの弁当、また食べられるだろうか」
「ふーん、気に入ったんだ?」
「ああ」
「しょうがねえ、付き合ってやるよ。廊下ですれ違いざまに受け渡すのは、ちょっと面白いし」
「ありがとう」
「この程度、手間でも何でもない。お前らがこの先どうなるのか見てみたいしな」
その時、日和からメッセージが届いた。
日和:【今日は漫研部の活動日ですよね? 私も行くつもりです。一緒に絵が描けたらいいですね】
戌井:【そうだな。部室で会おう】
☂
美術室に顔を出すと、ここでも女子に群がられた。しかも美術室を埋め尽くすほどの異常な数だ。
「あっ、戌井くん。漫研部にいるって聞いたから」
「どんな漫画読むの?」
「こっちに来てお話しようよー」
戌井は無言で首を横に振った。青山羊葵の姿を探し、そちらに歩いて行く。
「お疲れ様です、部長」
「あら、戌井くん。隈を消したら格好良いはずだとは思ってたけど、ここまでとはね……」
「あなたね、噂の超絶イケメンは!」
「絵に描いたような王子様とはこのことね」
「ちょっと葵! あんた彼氏いるのにずるいわよ」
青山羊葵が、同級生と思しき女子達に詰め寄られている。
「そんなんじゃないってば。ただの後輩よ。あっ、戌井くん。どこ行くの?」
何もかもめちゃくちゃだ。別の世界に来て、知らない言語で話しかけられているみたいだった。隈のあるなしでこれほど変わるとは思えなかったが、周りの反応を見ると因果関係を認めざるを得ない。戌井はトイレに行くと顔を洗って、コンシーラーを落とした。それから美術室に戻った。
女子達に何が起こったのだろう? 戌井を見る目が明らかにがっかりしたものに変わった。
男が無意識に女の胸やお尻などの身体的特徴に注目するように、女も男の外見を見てステータスや資産、将来性はどれくらいか無意識に計算する傾向がある。どちらも無意識なので仕方ないことではあるが。大きな隈があるということは、何か悩みを抱えて不眠症を患っていたり、不摂生な生活を想起させたり、有能さや安定性とはほど遠いイメージを与えてしまう。
戌井のことをよく知らない女子達からすれば、わざわざ見に来て騒ぐほどの魅力はなくなってしまうわけだ。
「あれ? なんか……」
「眠れてないのかなあ」
「意外とだらしない生活してるのかも」
「私、用事思い出したから帰るね」
もとより漫研部に興味のない女子達が、好き勝手言いながら帰っていく。じろじろ見るような視線も感じない。ようやく静かな学校生活が戻ってきた。戌井は満足げに笑みを浮かべる。
壁の隅で日和が絶望的な表情でうずくまっていた。女子の群れに壁際まで追いやられていたのだろう。その群れがいなくなり戌井の姿を見つけると、一変して目を輝かせ、駆け寄ってくる。
「私、戌井くんの隈が好きです。何だか頑張っているんだなあって感じがします」
実際、人肉を食べないように頑張っている。この隈はその証なのだ。日和はそんなつもりで言ったわけではないのだろうが、戌井は嬉しかった。同一人物が外見の一部を変えただけで周囲の扱いは劇的に変わるのだから、ましてや人狼だと知られれば評価は180度ひっくり返るだろう。でも日和なら本質を見てくれるかもしれないと淡い希望を抱いた。戌井の正体を知った時、この隈の意味を考えてくれることを願った。
青山羊葵が言った。「まったく失礼な人達ね。手の平返しが早すぎるわ」
「絵の添削をお願いしてもよいですか、部長」
「戌井くんはマイペースすぎる……まあ、そこも魅力的なんだけれど。こっちへ座って、絵を見せてくれる?」
戌井は青山羊葵の隣に座って、タブレットを起動した。日和は向かいの席に座って、興味津々に画面を覗き込んでくる。
テーブルの上にあるオムライスを描いた絵だった。絵には人物の顔は描かれておらず、それぞれの個性が手元だけで表現されている。
「これ、この前遊んだ時の……?」日和が言った。
「忘れないうちに描いておいた。もう少し美味しそうに塗りたかったんだが」
「私ならこの辺にハイライトを入れて、シズル感を出すわね」
「おお」
青山羊葵がオムライスに白色を足すだけで、みずみずしさが際立ち、匂い立つようだった。においと記憶は密接に結びついている。戌井はオムライスの匂いと共に土曜日の穏やかな楽しさを思い出した。
青山羊葵が言った。「それにしても戌井くんの絵は手書きの思い出写真って感じね。手書きと写真って矛盾した言い回しだけど。どうして写真にしなかったの?」
「デフォルメされたイラストは余計な情報がないので記憶に残りやすい。それにイラストならその時の感情を効果的に表現できます。描いている間に記憶に定着させられますし」
「記憶に定着させる?」
「忘れっぽいので。特にこういう何でもないような小さな日常は、すぐに忘れてしまう。でも俺は覚えていたいんです」
「それって……」
日和はそこで言葉を止めて、戌井の方をぼうっと見つめた。
「なんだ?」
「いえ、とても素敵な考え方だなって」
「そうねえ。私も戌井くんと似ているかも。小さくてあたたかい思い出がたくさんあれば、良い人生だったって言える。そうでしょ?」
戌井はうなずいた。それを忘れてしまったら、俺には何も残らない。だから絵に残しておくのだ。青山羊葵の絵からも同じにおいを感じた。
「俺、部長の絵をもっと見たいです」
「SNSに上げてるけど、ほとんど二次創作よ。あなたが見たいものとは違うと思う」
「アカウントを作るので、フォローさせてください」
「え~。しょうもない呟きしてるし、どうしようかしら……」
その時、向かいの席に座っていた日和が立ち上がった。
「あぶな――――」




