第14話 友達を家に呼ぼう②
満月の夜まで、あと10日。
掃除をする必要はなかった。戌井の家は常に綺麗だからだ。最低限の家具しかなく、何がどこにあるのかすぐにわかるようになっている。いつでも速やかに逃げ出せるよう犯罪生活で身についた習性だった。
冗談みたいな泥棒の話がある。警察がすぐそこまで来ているのに、足の踏み場もないほど部屋を散らかしていたために逃亡用のパスポートと運転免許証を見つけ出せず、警察が扉を蹴破るまで探し続けていたという話だ。9歳の頃に戌井と一緒にヤマを踏んだことがある知り合いだったので、子供ながらに恐ろしく、自分も気を付けようと記憶に刻みつけたのだった。もう逃げ出す必要はないのに、きちんとしておかないと気が休まらない性分になってしまったのだ。
雉真と日和がお菓子やジュースを持ってくるというので、戌井にはやるべきことがなかった。いつもなら運動したり、絵を描いたりするのだが、今はとにかく早く怪我を治すことに専念したい。こういう時はベッドに寝転んで、ひたすら瞑想するに限る。
足音が耳に入った。2人分だ。
戌井はぱっと目を開けると玄関に向かった。インターホンを押される前に扉を開けてしまう。
「うわっ、びっくりした」
「気配がしたから」
「インターホン押すまで待てよ」
「ああ、そうだな」
戌井は照れくさそうに頬をかいた。
「はっ」日和が言った。「それだけ楽しみにしてくれた、ということでしょうか……!」
「友達を家に呼ぶのは初めてでな」
「友達……私も小学生以来です」
「2人とも浮世離れしすぎなんだよなあ」
戌井は2人を中に入れた。ワンルームなので玄関から部屋の全てが見渡せる。靴を脱いだ後、日和が塵ひとつない部屋を見渡し、腰に手を当てて言った。
「戌井くん、お掃除しないでって言いましたよね? 安静にしないといけないのに」
「何もしてない」
「嘘……普段からお片付け頑張っているんですね。凄いです」
「つーか何もねえな。これって漫研部の冊子か? こういうの額縁に入れるやつ初めて見た」
「触るなよ。適当にくつろいでくれ」
「ではさっそくキッチンをお借りしますね。お二人はのんびりしていてください」
雉真が言った。「いや、食材切ったりとかは手伝うよ。みんなで作った方が楽しいだろうし」
「食材はあらかじめ切ってきました。下準備はばっちりですので私にお任せください」
「さっすが日和さん。せめて皿洗いだけはやらせてくれ」
雉真は2人用のソファーと、それとセット売りしていた、足置き用のスツールを見比べた。雉真がスツールの方を選んだので、戌井はソファーに腰を下ろす。
「さて、白鳥マリアのことを教えてくれよ。今朝のニュース見たけどさ。お前のことは一言も言ってなかったのが腑に落ちねえんだよ」
「もう忘れた」
「はあ? 担任の先生が人狼だったんだぞ? しかもお前と日和さんで力を合わせて捕まえたんだろ? 一生忘れるかよ、そんなこと」
「細かいことは覚えてない。終わったことだ」
「だめだこりゃ。日和さん、教えてくれ」
「まず私達は学校に戻って白鳥マリアを二丁目公園に呼び出し……」
日和は食材を炒めながら、昨日起こったことを話した。雉真は最後まで聞き終わると立ち上がって、戌井をびしっと指差した。
「おい、賞金を辞退したってどういうことだ!?」
「目立ちたくないから」
「ふざけんなよ! 300万だぜ? 俺が欲しいわ」
「じゃあ赤熊隊長にそう言えばいい」
「俺が何をしたって言うんだ? お前に『いじめとは何か』を教えましたって言うのか?」
「あれがなければ事件は解決しなかっただろう」
「やめろ恥ずかしい」
「でも実際、雉真君のおかげでもあります」日和が言った。「みんなで力を合わせた結果ということで、お祝いしましょうよ」
オムライスができた。つややかな黄色の表面からは、バターの香りと卵の甘い香りが立ち上り、思わず心が踊った。殺し屋時代、食事はただ腹を満たすだけの行為だった。煩わしいとさえ思っていたほどだ。こうして楽しみだと思えるのは引退して心に余裕が生まれたおかげだろうか。
雉真がオレンジジュースをコップに入れて、高く掲げた。
「チーム・桃太郎の初事件解決を祝して、かんぱい!」
「チーム・桃太郎?」
戌井と日和が首を傾げる。
「あ、なるほど。苗字が犬・猿・雉だからですね」
「そういうこと。桃太郎はいないけどな」
「お供だけで集まっちゃいましたね」
「だから鬼退治には行かないんだ」戌井が言った。
「でも人狼倒したじゃん、お前」
「ただの成り行きだ。こんなことはこれきりにしてほしい」
戌井はオムライスを一口食べた。ふわふわの卵が舌の上でほどけ、炒飯のケチャップの甘酸っぱさが絶妙なバランスで口中に満ちていく。次の一口へと手が動き、パクパクと食べていった。日和が緊張した面持ちでじっとこちらを見つめている。
「お味はいかがでしょうか?」
「……美味しい」
彼女の顔がぱっと明るくなった。
「良かった……。とはいえ、オムライスなんて誰が作っても味は同じですけどね」
「俺が作ったら卵がぐちゃぐちゃになって、見ているだけで不味くなる。見た目は大事だぞ」雉真が言った。「オムライスって巻くのに失敗したらテンションがだだ下がりするから、人に作ってあげるのはけっこう勇気がいると思う。それを当たり前にやってのけた日和さんはかなり料理の腕前があると推測するね。普段は自分で料理作ってるの?」
「ええ。母とは別居していて……」
「別居?」
「あ、いえ……何でもありません」
日和は一瞬、顔を曇らせたが、すぐに取り繕うような笑顔を浮かべた。
「そんなことより、戌井くんはいつもどんなものを食べているんですか?」
「コンビニの弁当とかおにぎり。魚肉ソーセージもいいな。腹持ちするから」
「栄養偏っちゃいますよ?」
人狼は病気の心配をしなくていいのが良いところだ。しかし人肉を食べないと不調はきたすし、人肉以外に体調をコントロールする選択肢が少ないのは不便かもしれない。結局のところどっちもどっちだ。
戌井がそんなことを考えている間に、日和はこわばった表情で膝の間に手を挟み、もじもじしている。彼女は戌井の隣に座っており、こちらの方に少し近付いて言った。
「あの、もしよければ……お弁当、作らせていただけませんか? 戌井くんの健康面が心配ですので……」
「いや、そんなことしなくていい」
「私は戌井くんに多大なる恩義を感じています。だから少しでもお役に立ちたいんです」
「恩義なんて感じる必要はない。自分のためにやっただけだ」
「そう……ですよね。変なこと言ってすみません」
雉真が突然立ち上がった。
「しぐれっ! あんたちょっとこっちに来なさい」
「なんだその喋り方」
「いいから来なさい。あんたって子はもう乙女心をわかってないんだから」
雉真に手を引かれて、脱衣所の方に連れて行かれた。
「はっきり言わせてもらう。おまえ鈍感そうだからな。日和さんはお前のこと好きだぜ」
戌井は雷に打たれたかのように一瞬硬直した。何を思い立ったのか急に視線を巡らせ始め、いかにも今雉真を見つけたという様子で言った。
「ああ、いたのか雉真」
「俺はずっとここにいるよ」
「どうして脱衣所なんかにいるんだ?」
「え……? 怖い怖い。記憶飛んだ? いや、一瞬固まったから話は聞いてたはず……お前、恋愛系の話になると急にすっとぼけるんだよな。今回はとぼけ方が強引すぎるぞ」
「何の話をしているんだ? オムライスが冷めるから戻るぞ」
「あ、待てよ!」
戌井は部屋に戻ってオムライスを食べた。
「こんなに美味い飯は久しぶり……いや、記憶にないな。遠慮すべきだとは思うが惜しくなってきた……」
それを聞いて、日和がここぞとばかりに身を乗り出した。
「遠慮はいりません。一人分だといつも中途半端に材料が余るので、むしろ作らせていただけると助かります」
「ああ、そういうことか。それならお願いしようかな」
「もちろんです」それから彼女は小さな声で言った。「やった……」
雉真が呆れ顔で言った。
「結局オーケーなんかい」




