第12話 黒き月の人狼⑤
獣化した白鳥マリアの全身は、月明かりを浴びた麦畑のように鮮やかな金色の毛で覆われていた。その毛は夜風に乗って波打ち、顔全体を覆い隠すほど長かった。
彼女がバネのように体を伸ばして一直線に突進してくると、その躍動で毛が揺れ動き、隠されていた瞳がギラリと光る。
戌井はあらかじめ足に全神経を集中させていた。すぐさま横に大きく跳ぶ。左腕に鉤爪が掠った。少し当たっただけなのに、ぱっくりと二の腕の皮膚が裂けた。金色の獣は公園の奥にある林の中に突っ込んだ。方向転換して、さらに襲いかかろうとしてくる。その時だ。
「撃てえぇーーー!」
赤熊隊長の合図で、四方八方から大量の銛が発射された。林の中や公園周辺の建物の中から一斉に。銛は金色の獣の体を次々とつらぬき、地面に突き刺さる。たちまち腕ごと地面に縫い付けられ、身動きを取れなくなった。
人狼には毒も薬も効かない。麻酔で眠らせることもできない。生け捕りにするなら、このスピアガンで拘束するのがお決まりだ。
金色の獣は咆哮を上げてもがいた。銛がいくつか地面から抜けるが、そのたびに追加のスピアガンが発射される。さらに弱らせるため手足に銃弾が撃ち込まれた。人里に降りてきた熊のようなものだ。武器を持たぬ人間にとっては恐ろしいが、現代兵器には敵わない。
それに赤熊隊長の日本刀にも。
「さてと、爪のお手入れをしようか」
赤熊隊長は走りながら、金色の獣の指という指を目にも止まらぬ速さで切断していく。全ての鉤爪を失って、今や獣は爪を抜かれたネコのように虚しく地面を撫で回した。
「よしよし、良い子だ。あと130秒くらいか? 大人しく待っていれば殺しはしないよ」
戌井は背を向けた。正直に言って、見ていて気持ちの良い光景ではない。あとはSTの仕事だ。戌井は攻撃をかわしたらそのまま現場を離れるよう指示されていた。
その刹那――断末魔のような咆哮。思わず耳を塞ぎたくなるような叫び声だ。嫌な予感がした。
戌井が振り向くと金色の獣はスピアガンが食い込んで自分の体が裂けるのも構わず、無理やり足を踏み出した。凄まじい力でスピアガンの拘束を引っこ抜くと戌井に向かって突進してくる。
「うおおおぉぉ」
戌井は何者かに突き飛ばされた。トサカ隊員だ。鉤爪がなかったおかげで今度はちゃんと避けられた。2人一緒に倒れ込む。
トサカ隊員がいなくても避けられたが、彼がそばに来てくれて良かった。戌井は素早く彼の太ももからグロックを引き抜くと、金色の獣の目を狙って発砲した。先ほど切り裂かれた二の腕が反動による痛みで悲鳴を上げる。戌井は歯を食いしばった。
この拳銃では目の粘膜を傷つけるくらいしかできないだろう。しかし金色の獣は毛が長く、目の位置がわからないので当たったかどうかはわからない。
金色の獣が戌井に向かって拳を振り下ろす。正確な動きだ。やはり当たらなかったか。戌井は転がって避けた。そして叫んだ。
「おい、クソ教師! 自分の生徒もろくに指導できないのか?」
白鳥マリアは理想の教師像にこだわっている。だから図星を突かれてブチギレていた。戌井を殺さないと気が済まないはずだ。彼女は自分を追ってくる。確実に。戌井は遊具エリアに向かって駆け出した。
通信用のイヤホンを使って戌井は赤熊隊長に言った。
「奴の狙いは俺だ。生け捕りは続行。考えがある」
「人命優先、一斉射撃で終わらせる。合図をしたら君は地面に伏せろ」
「狙うなら足だ。動きを鈍らせてくれ」
「お前……」
考えている暇はなかった。赤熊隊長は戌井に賭けることにしたようだ。
「総員、足を狙え!」
金色の獣は足を撃たれて追いかけるスピードが緩くなった。人間と獣化した人狼では歩幅に大きな差があり、通常ではすぐに追いつかれてしまう。これで戌井の方が少し速いくらいになった。
しかしあまり距離を離しすぎてもよくない。戌井はわざとスピードを落とし、金色の獣が追うのを諦めないぎりぎりの距離を保った。生温かい鼻息がフーッフーッと背中を押してくる。
林の中の小道を駆け抜けると遊具エリアが広がっている。戌井はジャングルジムに向かって走った。そしてぶつかる寸前にスライディングし、格子の下を潜り抜ける。
金色の獣は目と鼻の先にいた戌井を追いかけるのに夢中で、ジャングルジムに気付けなかった。ほとんど全力疾走でジャングルジムにぶつかり、格子の中に頭部と腕を突っ込み、そのまま棒を捻じ曲げてしまった。獣は身動きを取ろうと暴れてみるものの、ジャングルジムはびくともしない。
戌井はその間にジャングルジムの下から一番上に登ると、その中に閉じ込められた獣を見下ろした。もはや動くことはできまい。
「ジャングルジムで遊ぶのは初めてだが、けっこう楽しいな」
戌井は器用にバランスを取りながらしゃがみ込んだ。
「『シートン動物記 ワタオウサギのラグ』を読んだことあるか? 俺の一番好きな本でね。ウサギは猟犬に追いかけられた時、有刺鉄線に向かって逃げるんだ。猟犬が諦めないようにギリギリの距離を保ってな。ウサギは小さくてふわふわだから有刺鉄線の下を潜り抜けられる。でも猟犬は足を止められなくて有刺鉄線に激突し、そのまま死んでしまう。ジャングルジムを見た時、ふとこの話を思い出したんだ。これを行うには強靭な精神力と精密さを要求されるがな。あんたはウサギの戦術にやられたってわけだ」
好きな本のことになるとつい饒舌になる。戌井が喋り終えると白鳥マリアの獣化が解けた。戌井は人間の裸を見るのが好きではない。服を着ていないと人間らしくないからだ。それで彼は目を背けてジャングルジムから下り、公園の出口に向かった。
「戌井くーーーん。君いいねえ! 進路決まってる~?」
赤熊隊長が勢いよく抱きついてきた。二の腕の怪我が痛んで戌井は小さな呻き声を上げる。
「すまんすまん、怪我をしていたか。救護班! 彼の手当てを!」
戌井は必要以上に多い女性隊員達に連れられて、バン車の中に入った。中にいた初老の医者に二の腕の裂傷を見せる。
「こりゃ痛そうだ。傷を縫うことになる。タオルを噛んでおきなさい。すぐに終わるから」
戌井はタオルを噛み、目をつむって治療が終わるのを待った。局所麻酔は全く効かず、常に痛いことをされたが、微動だにせず耐えた。
「全く叫ばなかったね。大したものだ」
「ありがとうございます」
「処方箋と今夜の分の薬を出しておく。一週間経ったら、近くの病院で抜糸してもらいなさい」
そのあと医者は痛み止めや抗生物質なんかの説明をしたが、戌井は聞いていなかった。普通の人間なら傷口からばい菌が入って悪化したり、何らかの病に感染したりするが、人狼にはそれがない。傷をふさげば後は何とかなる。自分で傷を縫ったこともあるし、抜糸も一人でできる。
バン車を出ると、白鳥マリアはとっくに護送車で連行されていた。
「ご協力に感謝する、戌井時雨くん」
赤熊隊長が敬礼してくる。片手にレジ袋を提げており、その中から二つの肉まんを取り出した。
「普通の肉まんとピザまん、どっちが好きかね?」
「普通の方」
「よかった、私はピザ派なのだ。さあどうぞ。食べながら話そうか」
赤熊隊長はチーズを伸ばしながら美味しそうにピザマンを頬張った。
「大手柄だよ、きみ」と、赤熊隊長は言った。「進路は決まってるかな? STにぜひ欲しい人材だ」
「ワーク・ライフ・バランスによりますね」
「人狼を見つければ我々はそこに向かう。それ以外は自由。私の班は実力重視なんだ。ま、厳しい訓練を受けることになるけどね。君ならやっていけるだろう」
戌井はSTに母親を殺された。母は人間だったが、戌井を逃がそうとして隊員を傷つけたからだ。そのことを今の今まで忘れていた。思い出しても激しい憎悪は湧いてこなかったが、うっすらとした嫌悪感は覚える。早く会話を切り上げて帰りたくなった。大体、次の満月の夜には戌井が人狼だとわかり、手の平を返すに違いないのだから。
「検討しておきます」と、戌井は当たり障りのない回答をした。「そうだ、トサカ隊員の拳銃とナイフをお返しします」
「俺ならここだ」
トサカ隊員がバン車の裏側から出てきた。照れ臭そうに頬を掻きながら拳銃とナイフを受け取る。
「貴様がすげえ奴だってことは任務前からわかっていたけどよ。俺には年の離れた弟がいたんだ。15歳の時に人狼に襲われて死んだ」
戌井は何も言わずにトサカ隊員を見つめる。
「好きな子を守ろうと体を張ってな。俺と違って優秀な弟だったよ」
「戌井くんに突っかかっていたのは弟くんに似てたからだね」赤熊隊長が言った。「心配で仕方がなかったんだろう?」
「自分より若い奴が死ぬのは見たくありません。まあ、杞憂でしたがね。なあ戌井。もしSTに入るってんなら歓迎するぜ」
トサカ隊員が握手を求めてくる。戌井はその手を見つめた。STには複雑な感情を抱いているが、何人かの人間には助けてもらった恩がある。かといって人類に貢献したいとは思ってないが。
今回はただ自分の生活圏内から脅威となるものを排除し、平穏を保ちたかっただけだ。人狼の中には人を喰わないと生きていけない者もいる。それを否定するつもりはない。そんな自分がトサカ隊員の手を握ってよいものか。
「トサカ兄さん、って呼んでもいいぞ」
戌井が兄と呼んでもいい人間は鰐淵恭也だけだ。過去に一度『恭也兄さん』と呼ぼうとしたら『誰が兄だ。二度と呼ぶんじゃねえぞ、クソガキ』と怒られたことを思い出した。
戌井はふっと笑みを浮かべてトサカ隊員の手を握った。面白いことを思い出させてくれた礼のつもりで。
「遠慮しておきます」と、戌井は言った。




