第11話 黒き月の人狼④
「ふうぅー。何回やっても任務開始前は手汗を掻いちまうぜ」トサカ隊員が両手を服に擦り付けながら言った。「別に怖いってわけじゃねえけどよ」
この男はいつまで俺に付きまとうつもりなのだろう、と戌井は思った。彼らは二丁目公園から少し離れた車の中で待機していた。
「貴様は緊張しない……の、か?」
トサカ隊員は戌井の表情を見てぎょっとした。ナイフのように研ぎ澄まされた冷淡な表情だった。
受験の時と違って、戌井はこういう状況で緊張したりしない。作戦開始の時刻が迫るにつれ、彼の心は氷のように冷え、情けの感情は消え去り、揺るぎない決意に満ちていく。これから命を懸けるのだという感覚が脳を刺激し、彼が本来持っていたはずの集中力を取り戻させてくれる。ぼんやりしていた頭の中が明瞭になり、自分なら全てつつがなく実行できるという堅い信念を持っていた。たとえ予想外の何かが起こったとしてもだ。
「本当にただの高校生か……?」
「ナイフがいる」と、戌井が出し抜けに言った。「小さいので構わない。ナイフをくれないか、トサカ隊員」
「鶏冠井だ。ナイフなんか持っていても人狼相手には役に立たんぞ」
本当は太もものホルスターに収まっているグロックが欲しいのだが、さすがにそれは渡してくれないだろう。
「持っていると安心するんだ」
「もう十分落ち着いているように見えるがな」
「腕相撲で負けただろう。1つ言うことを聞いてくれ」
「クソッ。変なことに使うんじゃないぞ」
暗色の固定刃ナイフだった。申し分ない。戌井は懐にナイフをしまった。
「行ってくる」
トサカ隊員は戌井に何か声をかけようとしたが、彼がずんずん歩いていくのでその必要はなさそうだと思ったのだろう。黙ってその背中を見送った。
☂
街灯の光が二丁目公園の入口を淡く照らしていた。この公園は小さいが遊具エリアと広場の2つの区画に分かれている。広場にあるのは年季の入ったベンチと錆びついた水飲み場、そして奥まった場所にひっそりと建つトイレだけ。トイレに繋がる小道は鬱蒼とした林に囲まれている。その林の中にはSTの隊員達が息を潜めて待機している。
戌井は広場の真ん中に立っていた。閑静な住宅街にハイヒールの音が響き、まもなく白鳥マリアが公園にやって来た。
「あなただけ? 日和さんをいじめている子達は?」
戌井は人差し指を下に向けて言った。
「日和さんの靴を、ヒマラヤスギの下に埋めましたね?」
「え……?」
「どうなんですか?」
「ありえないわ! 何を根拠にそんなこと……」
「否定が早いですね。まず、日和さんが靴を隠されたという事実に驚くべきでは? そんなこと一言も言ってませんし」
白鳥マリアは自分が疑われているなどこれっぽっちも思っていない。何しろ彼女は靴を隠しただけだからだ。なぜこんな状況になっているのか、本気で不可解に感じているだろう。いきなり靴を隠したと疑われてよく考えもせずに否定の言葉が出てしまった。第一声で鎌をかけようと言ったのは日和だが、どうやら上手くいったようだ。
白鳥マリアは狼狽えている。狼狽という漢字はどちらもオオカミの一種を意味するようだが、はたして白鳥マリアはどちらなのか。まだ戌井も100%の確信を持っているわけではない。
「……靴を隠すなんていじめの定番でしょ。だから……」
「日和さんの靴から先生の香水と同じにおいがしました。今も同じにおいがする」
「におい? そんなの何の証拠にもならないわ。それに失礼でしょ。海外の暮らしが長かったから香水を付ける習慣があるだけ。それって悪いこと?」
「話を逸らさないでください。どうして日和さんの靴に、あなたのにおいが付いているんですか?」
「だから、それこそあなたの作り話でしょう? いじめを止めに来たのに、こんな嫌がらせをされるなんて。最低よ。帰らせてもらうわ」
「『黒き月』」と、戌井は言った。
白鳥マリアは立ち止まった。彼女が『黒き月』の一員なら戌井がどこまで知っているのか確かめねばならない。だから、立ち止まざるを得なかった。知らない単語なら少しちらりと見るくらいでそのまま立ち去るのが普通だろう。戌井の確信度がぐんと上がった。
「その反応は、知っているんだな?」
「……何のことかしら。わけのわからないことを言われて、戸惑っただけよ」
「俺はあんたを人狼だと思っている。そうでなければ日和さんの靴を隠した理由を説明できない」
「仮に私がやったとしましょう。仮にやっとして、ただの出来心だって思わない? 嫌がらせに大した理由なんかないのよ」
「高校生のガキなら理屈に合わないこともやるだろう。でもあんたは大人だ。靴をグラウンドに隠すというのはそれなりにリスクを伴う。誰かに見られるかも知れないし。大人は理由がなければそんなことはしない。特にあんたのように理性的な大人なら」
「きっと日和さんが美人だから嫉妬しちゃったのね。私がやったんだとしたら、だけど」
「犯人は靴を隠すのと同時に、裏サイトにアクセスできるQRコードまで用意していた。手慣れている奴の犯行だ。魔が差したわけじゃない。あんたはプロで、極めて合理的な理由で靴を隠したんだ」
「あくまで仮の話よ。私は靴を隠したなんて一切認めてない」
「いや、それは確定事項だ」
「ふんっ、何様のつもり? あなたは裁判官じゃないのよ」
「あんたは靴を隠した。それには筋の通った理由がある。あんたは『黒き月』のメンバーで、日和さんの精神を追い詰め、彼女がいつ失踪してもおかしくない状況にしたかった」
戌井はひと息にまとめた。
「以上の理由から、俺はあんたを人狼だと思っている」それから付け加えた。「何の準備もしないでここに来たと思うか?」
白鳥マリアの顔がさっと青ざめた。STの姿を探すように辺りを見渡す。
「嘘よ、嘘……」
「ずいぶん取り乱しているな。まるで人狼だ」
「違う! 私は人間よ! 私が人狼ならとっくに攻撃してるはず。そうじゃないってことは確証がないんでしょ?」
「俺には確証がある」
「だから? 私がここで帰っても、彼らに私は撃てない。次の満月まで待てば恥をかかずに済んだのにね、お馬鹿さん」
白鳥マリアは勝ち誇った様子で踵を返した。彼女の言うとおりだ。預言者の黒出しがない以上、STは獣化を目視しないと発砲できない。このままでは白鳥マリアに逃げる猶予を与えてしまう。
だが、今や戌井は確信を持っている。日和の靴のにおいと白鳥マリアの香水のにおいは一致した。獣の鼻で嗅いだのだから、誰がなんと言おうと戌井の中では確定事項なのだ。そして白鳥マリアは日和の靴をなぜ隠したのか、納得のいく言い訳ができなかった。ということは『黒き月』の活動理念にかなっているから、という理由しか考えられない。それに加えて『黒き月』の名を出した時の慌てっぷり、STの存在に気付いた時の取り乱しよう。
間違いなく、白鳥マリアは人狼だ。
そして人狼には人権がない。人狼相手にどんな非道なことをしようと罪には問われない。
だから、そう、戌井自身が確信を持っていれば良かった。
彼は白鳥マリアの足に向かって小型ナイフを投げた。
「きゃあっ!?」
白鳥マリアは転んだ。
ナイフはトサカ隊員に貰ったものだ。彼はこちらの行動を見て話が違うと驚いているだろうが、まさか途中で止めに入るわけにもいかない。作戦が始まってしまえば、誰も戌井を止めることはできないのだ。
戌井はつかつかと歩み寄ると、彼女の足首に刺さったナイフを引き抜いた。最初は勢いよく飛び散るように血が放出し、やがて脈打つリズムに合わせて小さな噴水のように断続的に溢れ出る。
「痛いッ、痛い痛い痛い痛い痛いッ頭おかしいんじゃないの!?」
「早く病院に行かないと、出血多量で死ぬ」
「きゅ、救急車、救急車……」
白鳥マリアがスマホを取り出したので、戌井はそれをひょいと奪い取って遠くへ投げた。彼女から距離を置く。公園の奥にある、暗く茂った林の近く。確実に避けるならもっと離れた方が良いが、STが狙いやすい位置はここだ。
「獣化するか、じわじわと死ぬか、どちらか選べ」
「なんでッ! なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの?」
「人を食べるからだ。食べなきゃいい」
「食べなきゃいい? 食べなきゃいいですって?」
人は怒りすぎると、かえって笑ってしまうものらしい。白鳥マリアは片目のまぶたの下をぴくぴくさせた。
「お前に飢えの苦しみがわかるか? 私だって、食べなくて済むならそうしたかった」
飢えの苦しみなら知っている。白鳥マリアより知っているだろう。
かつて戌井は、恩人である鰐淵恭也に頑丈な檻の中に閉じ込められた。人肉の味を忘れるまで檻の中で生活するよう強制された。壮絶な苦しみだ。大暴れし、自分を傷付け、死にたくなるほど苦しんだ。依存症患者の薬物が、体内から抜けるまでの期間は長くとも30日。社会復帰するまでさらに数ヶ月はかかる。戌井が人肉の味を忘れるのにかかった期間は、2年だ。6歳から8歳まで。あまりのストレスで髪も白くなってしまった。
だが、戌井はやり遂げた。鰐淵恭也の協力がなければなし得なかったが、やり遂げた。
飢えの苦しみは続いている。頭が上手く働かないし、記憶力も集中力も低下している。酷い怪我をした時は特にそうだが、何かの拍子に無性に食べたくなることもある。我慢し続けるのは誰にでもできることではない。だが戌井にはできている。全ては平穏な日常を送るため。白鳥マリアのように我慢できない者は、自分がしでかしたことの報いを受けねばならない。
「ふ、ふふ……」
白鳥マリアは俯きながら肩を震わせ、次に顔を上げた時には一転して精悍な顔付きになった。
「私は理想の教師として働いてきたわ。それが私の夢だったからよ。それだけは誰にも否定させない。年に1人か2人食べているから何だというの? 私はそれよりずっと多くの生徒を救っているわ。あなたもそう思うでしょう? なぜ邪魔をするの?」
もう自白したようなものだと思うが、足首から出血している状況では恐怖と痛みで錯乱しているだけと見なされる。あくまで獣化してもらわねばならない。
「あなたにはわからないでしょうけど、食べないと集中力や記憶力が格段に落ちてイライラするのよ。普通の生活を送るのに精一杯。教師になんてとてもなれない。だから犠牲が必要なのよ。私が理想の教師になるためにね。私は生きるのに値する人間よ。獣化しなければいいんでしょう? ぎりぎりまで耐えてやるわ……ふふ……ここを切り抜ければ満月の夜まで時間はある……」
「どうして被害者を狙ったんだ?」
「え……?」
「理想の教師を自称するなら、いじめの被害者じゃなくて加害者を狙えば良かったのに。それが正しいことだとは言わないが筋は通っている」
「そ、それは……」
戌井の言葉に白鳥マリアは言い淀んだ。
「あんたの言い分には一理ある。俺は人狼の本能まで否定するつもりはない。教師になるために人を食べる必要があったというのも理解できる。だがいじめの被害者を狙ったのはひとえに簡単だったからだろう。大体孤立していて発覚しにくいからな」
白鳥マリアは歯を食いしばって黙っている。彼女も薄々どころかはっきりと自己矛盾を感じていたのだろう。しかし理想的でなかろうと楽な道には大抵の人間が抗えない。痛いところを突かれたというわけだ。
「あんたが加害者を狙っていたら、少なくとも俺は気付かなかった。気付いてもそっとしておいてやっただろう。あんたがこうなったのは理想の教師として筋を通さなかったからだ」
「い、いじめられっ子なんて……長く生きたところでどうせ幸せになれないわ。自分のことを無価値だと思っているから。私は彼らに価値を与えたのよ。食べ物になるという価値をね」
戌井にはもはや言うべきことはなかった。彼は待った。
「私は悪くない……最大多数の最大幸福を目指しただけ……加害者を狙うのはリスクが大きすぎる……お前に私の苦しみなどわかるものか」
戌井は待った。
「お前を人質にすれば逃げられる」
白鳥マリアは獣化した。




