第10話 黒き月の人狼③
「悪ぃ。俺そろそろ帰らなきゃ」カフェを出ると雉真は申し訳なさそうに両手を合わせた。「日和さんのこと頼んだぞー、戌井」
「ああ」
「今日は雉真くんのおかげで緊張せずに話せた気がします」
日和の言う通りだ。雉真を誘ったのは正解だった。戌井と日和の2人きりだったらここまで打ち解けることはなかっただろう。日和は戌井に対する複雑な感情でガチガチに緊張していただろうし、戌井はいつも通り淡々と接するだけだから何も変わらない。雉真が場の雰囲気を和らげてくれたおかげで日和は肩の力を抜いて話せているように見えた。
「あれ? 俺なんかやっちゃいました?」
「雉真くんは面白い人ですね」
「やだうれしー」
「早く帰れ」
「冷たっ。おい、お前は確かに強いけどな。相手は人狼だ。めちゃくちゃ気をつけろよ」
「心配するな」
「後でどうなったか教えろよー」
雉真は手を振りながら駅の方へ去っていった。彼がいなくなると戌井と日和の間にまた透明な壁が出現し、2人の息遣いさえ大きく響くような、ガラス細工のように繊細な緊張感が満ちていった。2人は言葉を交わすことなく学校に向かって歩き出す。
日和は戌井の方をちらちらと見るが、何を話せばいいのかわからず俯きがちだった。雉真がいた時には冗談だって言えていたのに。少しは打ち解けたと思ったのだが、気のせいだったのか。
戌井には彼女の気持ちがさっぱり理解できなかった。ただ、これから犯人と対峙しようという時に余計なことを考えてもらっては困る。
「俺は一度に1つのことしか考えられない」と、戌井は言った。「今は犯人を捕まえることしか考えてない。そいつは君の説が正しければ『黒き月』の人狼だ。この人狼を捕まえることだけに集中しろ。そして俺のことはただの仕事仲間だと思ってくれ。それ以上でも以下でもない。今はそう思えばいい」
カフェでの会話を思い返すと、日和は靴隠しの犯人やその動機を推理している時の方が活き活きとしていた。ビジネスライクに接した方が話しやすいのかもしれない。
「……ありがとうございます、戌井くん」日和の唇がふわりとほころんだ。「では白鳥マリアを二丁目公園に呼び出す方法を話し合いましょう」
☂
白鳥マリアは職員室にいた。扉は開け放たれていたのでそれとなく中を見ると、白鳥マリアと青山羊葵がデスクに座り、何やら話し合っている。しばらくすると青山羊葵が赤本を胸に抱えて職員室から出てきた。戌井の姿を見つけるとにっこりと微笑みかけてくる。
「こんにちは、戌井くん。職員室に何か用?」
「白鳥先生にお話が」
「それなら今手が空いたわ。白鳥先生にはいつも過去問をわかりやすく解説してもらってるの。覚えが悪くても怒ったりしないし、とても良い先生よね」
「ええ」
英語の授業で集中力を保てない戌井のために、軽い運動をしてもよいと配慮してくれたことを思い出した。どうやら白鳥マリアは理想の教師を演じている。それが人として潜伏するための演技であったとしても、生徒の方は理想の教育を享受しているのだから、その点では何の害もない。むしろ白鳥マリアがいなくなることで困る生徒の方が多いだろう。戌井自身も含めて。
「あなた可愛いわね! いい匂いする~。ね、ね、漫研部に興味ない?」
青山羊葵がいきなり日和に抱きついて首筋の匂いを嗅いでいる。日和は狼狽えて戌井に助けを求める視線を向けてくるが、彼にはどうしようもない。
「あ、青山羊センパイ、ですよね? 猿渡日和です。えっと、漫研部には入ろうと思ってました。青山羊センパイの絵が好きなので……」
「ほんと? もちろん大歓迎よ。来週の活動来てね~。戌井くんと一緒に」
「は、はい!」
「Be quiet。廊下では静かにするように」
白鳥マリアが職員室の入口に立ってシーッと唇に手を当てる。
「あ、白鳥先生。戌井くん達がお話したいそうですよ。じゃあ私は帰るわね。ばいばい」
青山羊葵が去った後、戌井は白鳥マリアに向かって言った。
「人の多いところでは話しにくいので、あちらの隅に来ていただけませんか」
「? ……ええ、いいわ」
3人は廊下の隅に移動した。
「日和さん、いじめられているようなんです」と、戌井は言った。「中学から一緒だった女子達に」
「それは本当?」
日和は今にも泣き出しそうな表情で俯いている。いじめを受けていることは事実なので、演技なのか、それともその事実を本気で悲しんでいるのかわからない。
「中学から一緒の子って、誰のこと?」
日和は言ってもいいのかと、悩ましげに戌井を見つめる。演技だとしたら巧いものだ。戌井はあまり感情演技が得意ではなかった。義憤に駆られながらも緊張している男子生徒を演じるのが一番自然だろうが、依頼人を守るプロの弁護士のように落ち着いた喋り方しかできない。
「ここではちょっと……それに証拠もありませんし。だから先生に協力をお願いしたくて」
「何でもするわ。私もハーフってだけでいじめられたことがあるの。先生になったのは、そういう人と違った子でも学校を楽しめるようにするためよ」
その言葉に嘘偽りがなかったら、どんなに素晴らしいだろうか。だが彼女は嘘を吐いている。
「日和さん、今日この後いじめっ子達から呼び出しを受けているんです。詳細はわかりません。何か嫌がらせをするつもりでしょう」
「私がそこに行ってガツンと言えばいいのね。現行犯なら言い逃れもできないし」
「今日の20時、二丁目公園で。助けていただけますか?」
「任せなさい。日和さん、心配しないでね。私が必ず解決してあげるから」
戌井は念押ししておきたかった。もしかすると、白鳥マリアは何だかんだ理由をつけて来ないかもしれない。その方が日和に精神的ダメージを与えられるからだ。
「あと」と、彼は言った。「この会話は録音させていただきました」
「え?」白鳥マリアの顔が引き攣る。「どうして?」
「いじめについて調べたところ、先生に相談しても解決しない事例が多いらしいですね。何かあった時のために、相談したという証跡を残しておきたいんです。自衛のためなので悪く思わないでください」
「すっぽかしたりなんかしないわ。今日の20時、二丁目公園ね?」
「ええ、忘れないでください。それではまた」
☂
学校を出ると、戌井は赤熊隊長に連絡して予定が確定したことを告げた。
「まったく、本当に約束を取り付けるとはな。電話じゃ詳しい話はできない。近くに会議室を借りたからそこに来てくれ」
戌井と日和は指定された会議室へ向かった。
「あ、私は着替えないといけないので後で行きますね」
日和はそう言ってビルのトイレに向かった。戌井は1人で会議室に入る。隊員達が学生服の戌井に厳しい視線を注いだ。高校生に「来ないと死ぬぞ」という脅迫めいた言葉で強引に動員を要請されたのだから、気に喰わない者もいるだろう。
赤熊楓がパイプ椅子にあぐらをかいて座っていた。戌井に気付いて顔を上げると、鮮やかな赤髪のポニーテールが挑発的に揺れる。腰には日本刀を携え、藤蔓で巻いた朱色の柄を親指で撫でている。
「あんたが戌井くんかい? 大きな隈だ。ちゃんと眠れてるのか?」
「これは生まれつきです」
「君の行動力には感服するがね。今のところ根拠というのは靴に香水の匂いがついていただけだ。通常、STは預言者の占いに基づいて動くんだよ。人狼だと確定しないと発砲できないからね」
「獣化を目視すれば占いは不要でしょう」
「もし彼女が人狼じゃなかったらどうするんだ?」
「俺が恥をかくだけです。STが人狼の疑いのある人物を捜査するのは通常業務の範囲でしょう。それとも他に対応が必要な任務があるのですか? 人員や装備を十分に用意できないとか。それなら話は別ですが」
「いや、作戦自体に問題はない」
「なら何が問題なんです?」
「確実な証拠がないからだ」
別の隊員が声を上げた。見るとモヒカンだ。赤熊班はヘアスタイルが実力に影響するとは考えていないので、よほど不衛生だったり戦闘の邪魔でなければどんな髪型も許されている。モヒカンは石鹸のにおいがして清潔そうだった。
「いいか、坊主。作戦を実行するためには二丁目公園周辺の安全を確保する必要がある。道を封鎖して住民に自宅待機を呼びかけたり、部屋を借りてスナイパーを配置したりする。それで勘違いでしたってことになったらどうなると思う? STの社会的信用が失墜する」
「モヒカンが社会的信用を語るな」
「ぷっあははははは」赤熊隊長が椅子からひっくり返りそうになった。
「貴様……それが大人に対する口の利き方か!」
「白鳥マリアが人狼だったら」戌井は全く怯まずに言った。「占い結果を待っている間に誰かが死ぬかもしれない。社会的信用を守るためなら、誰かが犠牲になる方がマシだと言うのか?」
「その犠牲の中には貴様も含まれているんだぞ。対象が獣化したら一番近くにいる貴様をまず襲うだろう。危険過ぎる! 大体、獣化させるたってどうやるつもりだ?」
「話をする。獣化するまで」
「ハッ、なんだそりゃ? 貴様と話せばみんな獣化するのか?」
「ご足労感謝します」
戌井は踵を返して会議室の出口に向かった。
「おい、どこに行く?」
「20時までどこかで時間を潰します。俺は計画を売り込みに来たわけじゃない。会議室でお喋りしたいなら続けてどうぞ」
「待ちな」
赤熊隊長は立ち上がって伸びをしたかと思うと、床を蹴った。一瞬のうちに距離を詰め、掌底打ちを繰り出してくる。戌井は最小限の動きで掌打をかわした。その攻撃は背後の扉が受け止めるかと思いきや、扉が開き、ガスマスクを被った人間のすぐ頭上を鋭く突き抜けた。だぼっとしたミリタリージャケットを着た小柄な人間だ。身長が低かったので掌打を食らいはしなかったが、風圧にびっくりして倒れそうになる。
「ふぇっ!?」
戌井はそいつの手首を掴んで引き寄せてやった。その時、ジャスミンティーの香りがふわりと漂ってきたのでガスマスク人間が誰なのかわかった。
「君か? ひよ――」
「しーーッ!」
ガスマスクを被った日和が手招きするので戌井は顔を近付けた。ガスマスク越しにこもった日和の声が聞こえてくる。
「ぼくの正体を知っているのは赤熊隊長だけだ。預言者サニーと呼びたまえ」
その喋り方は何なのだと思ったが、預言者や霊媒師が変装する時に性格や喋り方まで変えるのは当然のことだ。預言者は満月の夜に1人しか人狼を占えない。STや警察関係者の中にも人狼が潜んでいたって何も不思議ではないのだ。
赤熊隊長は冷や汗を流して手の平をひらひらさせている。
「い、いやあ。申し訳ありません。預言者様。当たらなくて良かった……」
「彼は私のと、とも……客人だが? 何をやっているんだね?」
「反射神経を確かめようと思ってね。ふむ、予想以上に良い動きだ。これなら獣化した人狼の攻撃を1、2回はかわせるだろう」
「避けられなかったら当たってたの? 凄い風圧だったぞ」
「命に関わることだ。本気でやらないと囮役が務まるかわからん。だがこれなら心配ないな」
「た、隊長~! こいつは15歳のガキっすよ!」
モヒカン隊員はしつこく反対している。
「さっきの動きを見ただろう、トサカくん。彼はただ者じゃない。君も試してみるかい?」
「くっ……やります!」
秒で吹っ飛ばされたトサカ隊員を尻目に、預言者サニーは会議室のホワイトボードの前に立った。
「諸君、傾聴せよ! 今回は通常の手続きとは異なるが、綿密な計画を立てれば問題はない。この計画が成功すれば事前に被害を食い止め、今もなお『黒き月』に脅かされている被害者達に安寧をもたらせるだろう。赤熊隊長から概要は聞いているだろうが、私から計画の詳細を話そう」
サニーは淀みなく話した。後で考えようと思っていたのだが、戌井が白鳥マリアに何を話すかまで詳細に決められていた。なかなか良かったのでスマホにメモしようとしたが、その時彼女から台本を書いたメッセージが届いていることに気付いた。頼りになる仕事仲間だ。
サニーが話し終える頃には、戌井に突き刺さっていた厳しい視線も鳴りを潜めていた。STは預言者サニーに頭が上がらない。サニーはよく政治家を占い、人狼ではないというお墨付きを与えている。預言者に白出しされた政治家は選挙で有利になるため、彼らは惜しみなく資金を投じる。サニーはその莫大な資金を全てSTに寄付しているのだ。しかしサニーが信頼されているのはSTの財政を握っているためだけではないだろう。
「それじゃあ、私は帰らねばならない」と、サニーは戌井に向かって言った。「本当は作戦の行方を見守りたいが……」
預言者は守られるべき存在だ。前線に立つわけにはいかないし、本当はこんな作戦会議に参加する必要もない。サニーは戌井の手を包みこんだ。
「くれぐれも気を付けてくれ。全て終わったら連絡したまえよ」
「わかった」
「預言者様は私が送っていくよ。戌井くんはこの会議室で待機しているといい」
赤熊隊長がサニーを連れて会議室を出ていく。作戦開始まで戌井は集中力を養う必要があった。会議室の隅に席を移し、目を閉じて瞑想する。普通はそんな人間に話しかけようとは思わないはずだが、あのトサカ隊員がわざわざ椅子を持ってきて戌井の向かいに座った。
「俺の本当の名前は鶏冠井と言うんだ。赤熊隊長の下の名前と読みが同じだから、紛らわしいってんでトサカと呼ばれている。だがその呼び方をしていいのは赤熊隊長だけだ」
「トサカのやつ、まだあの子に絡んでるぞ」
「止めた方がいいんじゃねえか?」
「赤熊隊長の掌底打ちをかわした強者だ。その子には敵わんぞ、トサカ」
「トサカ諦めろー」
「トサカトサカうるせえ! おい、坊主。今ならやっぱりやめると言っても許されるぞ。プライドが邪魔してここまで来てしまったのだろうが死に急ぐことはない」
戌井は言った。「静かにしてくれ」
「チッ……それなら俺が諦める理由を与えてやる。腕相撲で勝負しろ。俺が勝ったら急に熱が出たからやめると言うんだ。さあ、腕を出しな!」
戌井が勝った。




