第1話 高校受験騒動①
殺し屋として人の首の骨を折ったりしながら大金を稼ぎ、新しい身分を手に入れるのにずいぶん苦労した。だが、彼にとって高校受験はそれよりも骨を折るタスクだった。
戌井時雨は早足で受験会場へ向かっていた。開場30分前に到着する予定だったのに、試験開始10分前くらいになりそうだ。
寝坊をしたわけではない。人狼は眠れないからだ。人間が睡眠によって得られるボーナス――身体や脳の休息、記憶の定着など――を人を食べずには得られない。人を喰わない場合、人並みにそれらの効果を得るために超人的な努力が必要になる。
戌井はもう何年も人肉を食べていなかった。それはすなわち運転が禁止されるレベルのアルコールを摂取した人と同じくらい、認知機能が低下しているということだ。徹夜した人間を酔っ払いと呼んでも差し支えない。集中力が50%も低下している点では同じだ。
戌井はこの能力の低下を補うために瞑想や散歩、腹式呼吸など認知心理学者や神経科学者が推奨しているようなありとあらゆる方法を試した。それでどうにかまともに生活できるくらいの集中力を保っている。ではどうして予定よりも到着が遅れそうになっているのか?
緊張していたからだ。
記憶力と集中力が低下している状態では勉強も一苦労だった。戌井は基本的に何でもできると思っているが、勉強にだけは苦手意識を持っていた。試験前夜も十分とは思えず、不安をコントロールできずにいつもより根を詰めてしまった。短い集中と、ぼーっとしているのを何度か繰り返すうちに朝日が昇り、慌てて身支度を整えて出てきたのだ。
事前の計画とは異なるが戌井は動揺などしていなかった。手には最寄り駅から高校までのルートを書いた地図。事前に2回下見をして、目印となる建物や看板の簡単な絵も描いている。道に迷わなければ試験開始10分前には辿り着けるだろう。
駅前の横断歩道を渡ろうとした時だった。戌井はいち早く異変を察知した。
怒りや苛立ちなどの強い情動は発汗をうながし、心拍数を上昇させ、血流の増加により皮膚を通して独特のにおいを放散する。人狼はにおいに敏感なため、戌井はそのかすかな違和感にすぐ気が付いた。
横断歩道の向こう側から歩いてくるフードを被った男。その男はうつむきながら不安定な足取りで歩いている。大粒の涎がぽたぽたと垂れるのを見た。その涎が地面にぐちゃっと広がるたびに声が聞こえてくるようだ――肉、肉、肉。フード男は横断歩道の真ん中で急に立ち止まると背中を丸めて獣化した。
獣化した人狼は軽自動車が立ち上がったような大きさで、雨上がりのアスファルトを思わせる灰色の体毛だ。灰色の獣は変身し終わると同時に、近くにいた少女に大きな爪を振り下ろした。
戌井はそれより早く地面を蹴っていた。すんでのところで少女を抱きながら倒れる。鋭い爪が頭上をかすめていった。戌井はすぐに少女を抱え上げてその場を駆け出した。手を引くより抱えた方が速い。どういうわけか灰色の獣は他の人間ではなくこちらを追ってくる。
「可愛い子……美味しい。俺の。逃げるなああ」
獣が叫んでいる。人狼の中には特定の獲物に執着する者もいる。腕の中にいる少女を気に入ったようだ。その少女はジャスミンティーの香りがした。ちらりと見ると、眉尻を下げて、心配そうに見上げてくる表情にどきりとする。どんなに自制心が高くても本能をくすぐられる魅力があった。あの人狼が執着するのもわかる。
戌井はすぐに前方へ視線を戻した。駅の裏手へ回り、人気のない道へと進む。獣の方が足が速く、すぐにも追いつかれるだろう。とにもかくにも人気がなければないほど都合が良い。少女をどうするかだけ考えねばならないが、今はそれだけを考えて走り続ける。
腕の中でもぞもぞ動く気配がした。大人しくしてほしいのに。いきなり視界の端に黒光りするモノが映った。シグP230だ。少女はそれを後方にいる獣に向かって発砲した。
戌井は驚いた。彼女は預言者か、もしくは霊媒師なのだ。どちらも人狼を見つけ出すための特別な能力を持つ役職だ。希少かつ人狼に狙われやすいため銃の携行を許可されている。
対象が大きいので何発かは当たっただろうが、シグの弾は標準的な警察拳銃の弾よりも小さく、獣化した人狼相手には心もとない。あくまで変身する前に撃つためのものだ。それでも獣は反射的に片手で顔を守る動作をしなければならず、ほんの少し速度を緩める効果はあったようだ。戌井はその隙に距離を伸ばし、人気のない路地裏に飛び込んで少女を下ろした。
「あなたは逃げてください! 私は預言者です。ここは私が……責任を持って対処します」
少女は勇ましく拳銃をかまえた。あの獣と戦うつもりなのだ。言われずとも戌井は彼女を置いて路地の反対側へ走り去っていた。少女は内心「はやっ」と思ったことだろう。
預言者は人狼の天敵だ。満月の夜に一度だけ、対象が人狼かどうか占うことができる。助けても何のメリットもない。大体、なぜ彼女をかばったりしたのだろう? 理由はわからなかった。体が勝手に動いていたのだ。
戌井は裏路地の角を曲がり、壁に背をつけて一息ついた。自分が今からやろうとしていることは、どう考えても馬鹿げている。
その時、彼の脳裏に幼い頃の記憶がよぎった。記憶力が低下している彼にとっては稀なことだが、生命の危機に瀕しているか、極度に緊張している場面では思い出すことが多い。
思い出したのはちょっとした記憶だ。幼い頃、戌井は難病を患って入院していた。白衣のポケットからいつも聴診器と色とりどりのボールペンを覗かせる医師は、『うちの勇者の調子はどうだ?』と陽気に戌井を気にかけ、諦めずに治療法を模索してくれた。学校にも通えなかった彼のために夜勤の看護師が勉強を教えてくれたこともある。彼は失われたはずの小さな思い出が浮かんでは心に温かく滲んでいく、この瞬間が好きだった。
今は人狼として社会の爪弾きにされる身だが、人間への恩は忘れていない。あの少女を見捨てることなどできなかった。
戌井は獣化した。みるみるうちに体が隆起し制服が破れてしまうが脱いでいる暇はない。骨格が急速に組み替わり、激烈な痛みを感じるが、その痛みも気にならないくらい陶酔的な高揚感も覚える。戌井は忘れてしまうので心配ないが、変身時のハイな状態が癖になって意味もなく獣化したがる人狼もいる。
現れたのは白銀の毛皮を纏った獣だった。白く長い毛に覆われた逞しい上半身を持ち、非常に大きな前腕をだらりとぶら下げている。爪先が地面を軽く掘り返した。
ちょうど灰色の獣が路地裏の入口をふさぐように現れたところだ。少女が拳銃を撃つと獣は弾丸ごと拳を地面に叩きつけた。その衝撃で地面が揺れ、少女は尻もちをついてしまう。彼女は怯えた表情で獣を見上げ、次の瞬間、食べられることを想像して顔を逸らした。怪物が少女に向かって大きな手を伸ばす。
その瞬間、白狼がその獣を殴り飛ばした。
灰色の獣は路地の壁に背中を打った。白狼は赤い瞳でそいつを見下ろした。人狼の変身時間は150秒しかない。変身中に人を喰えば時間を延長できるが、こいつは少女を追うのに夢中で時間を浪費していた。
灰色の獣はいきなり目の前に現れた白狼に困惑した。が、変身時間の関係で勝ち目はないと悟り、逃げようとする。白狼は強靭な脚力で地を蹴り、灰色の獣に飛びつくと後ろから首に噛みついた。頚椎の骨と骨の間に鋭い牙を差し込み、瞬時に脊髄を切断する。灰色の獣は悲鳴を上げる間もなく絶命した。
白狼は少女を振り返った。赤い瞳に見つめられて彼女はびくりと肩を震わせる。拳銃をこちらに向けて発砲しようとしたが、白狼が路地の奥に駆け出したので撃つことはなかった。
150秒以内に人目のつかない場所に行って服を着替える必要がある。戌井はこういう突発的な事態が起こることを想定し、東京都内のあちこちに変身を解くのに最適な場所と着替えの服を隠していた。防衛的ペシミストというやつだ。最悪の事態を想定して具体的な対策をしておくことで不安を解消できる。もちろん、受験当日に獣化するシナリオも考えていた。
早く着替えて受験会場に向かおう。