天妃の憂いで地上に雨が降る1
「ああ、不思議な気分。ほんとうに誰にも見つからなかったなんて!」
萌黄が興奮した顔で言った。
鶯たちは斎王の居室から広大な斎宮内を歩き、正門から堂々と外へ出てきた。
その間、斎宮で従事している巫女や白拍子や下女と鉢合わせることはなかった。気配はあるのに面白いほどすれ違って気づかれないのだ。天妃の呪いはとっても強力である。
「鶯、すごい! なんだか感動したよ!」
「ふふふ、任せてください。またこうして連れ出してあげますからね」
「うん、ありがとう!」
「ははうえ、オレもしたい! そのまじない、オレにもおしえろ!」
「いいですよ。あなたの神気ならすぐに使えるようになるでしょう」
「やった〜! ちちうえ、ははうえがおしえてくれるって!」
紫紺が嬉しそうに黒緋に伝えにいく。
紫紺の父上は天帝の黒緋、母上は天妃の鶯である。そんな二人から生まれた紫紺と青藍も強い神気を持っていた。普通の子どもには発動不可能な術も、紫紺や青藍にとっては可能だった。
黒緋は青藍を抱っこしながら紫紺に頷いて答える。
「そうだな、お前ならすぐ使えるようになる。これは結界術の応用だが、コツを掴めば早いぞ」
「できる。オレはつよいんだ」
「あいっ。ばぶぶ!」
紫紺と青藍が賑やかにおしゃべりした。
黒緋は騒がしい息子たちに苦笑し、鶯に話しかける。
「鶯、今日は伊勢の山だがまた斎宮も案内してくれ。あとお前が生まれた村も。お前が育った場所は全部見ておきたい」
「いいですよ。今度は村へ行きましょう。小さな村ですが、近くに美しい滝があるんです」
「ああ。その次は斎宮に」
「斎宮はさっき歩いたからいいじゃないですか」
鶯はやんわり拒否した。
しかもなぜか機嫌まで下降している。
そんな鶯に黒緋は訝しむ。……ついさっきまで上機嫌だったのに、突然不機嫌になってしまったのだ。
黒緋は訳が分からない。他の女人なら上手く機嫌を取って流してしまうこともできるが、鶯が相手ともなると放っておけない。
「おい鶯、ちょっと待て」
「なんですか?」
「お前、怒ってないか?」
「…………。……怒ってません」
嘘だ。誰が見ても不機嫌になっている。
黒緋はもう一度問おうとしたが、それを遮るように鶯が萌黄の手を取った。
「行きましょう。あなたを日が暮れる前に送り返さねばなりませんし」
「う、うん」
萌黄は困惑しつつも鶯に手を引かれて歩きだす。黒緋に対する鶯の様子が気になったが、こうして手を引かれて歩けるのは嬉しいのだ。
「ちちうえ」
「……なんだ」
紫紺が不思議そうに黒緋を見上げた。
「ちちうえは、ははうえとけんかしたのか?」
「それは俺が知りたいんだが」
黒緋は首を傾げた。
そんな父上に紫紺も首を傾げる。母上が父上のことが大好きなのは紫紺もよく知っているのだ。
二人は顔を見合わせたが、先を歩いていた鶯が振り返って手招きする。
「紫紺、あちらに鹿のあかちゃんがいますよ」
「え、しかのあかちゃん!? オレもみる!」
紫紺が無邪気に鶯に駆け寄った。
鶯が指さした方を見て楽しそうにはしゃいでいる。とても楽しそうだ。
「……子どもとは羨ましいものだな」
「ばぶっ。あいあー! あー!」
抱っこしている青藍が自分も行きたいと鶯に向かって身を乗り出す。
腕から落ちそうになる青藍を黒緋が抱きなおした。
「分かっている。お前にも見せてやるから暴れるな。ほらあそこだ」
「あぶぶっ。あーあー!」
「そうだ。鹿だ」
「せいらんとおんなじだ! あかちゃん!」
「あいっ。あいあ〜」
青藍が嬉しそうにはしゃいだ。
兄上ぶる紫紺に黒緋がニヤリとする。
「お前だって似たようなものだろう」
「オレはもうあかちゃんじゃない! あにうえだ! な、ははうえ? そうだよな!?」
「ふふふ、そうですね。紫紺は立派な兄上です」
「しかもつよいんだ!」
「はい。とっても強いです」
鶯も楽しそうに言った。
無邪気にはしゃいでいる子どもたちの姿に嬉しそうだ。
鶯が嬉しいと黒緋も嬉しい。
「子ども達を連れてきて良かったな」
「はい。こんな姿を見られるなんて、また連れてきてあげたいです」
「ああ、約束しよう。また連れてくる」
「約束してくれるのですね。ありがとうございます」
鶯は安心したように言った。
少し機嫌が戻ったような気がして黒緋は内心安堵する。
だが黒緋は分からない。こうして子どもたちの前だと穏やかに接してくれるが、いったいなにが鶯の機嫌を損ねてしまったのか……。原因は自分なのか……。
原因が自分以外なら排除するのみだが、自分が原因なら理由を聞かせてほしい。でなければ自分はまた後悔する。
「なあ鶯」
「見晴らしのいい丘があるんです。行ってみましょう。そこからなら斎宮がよく見えるんですよ?」
鶯はそう言うと歩きだした。
そんな鶯の後ろ姿に黒緋はスッと目を細める。
……どういうつもりだと、ちりりとした怒りが燻る。
さっきのあれはわざと遮った。話しかけた黒緋を拒絶したのだ。
不愉快だ。
いくら相手が鶯とはいえ話を聞こうともしない態度は不愉快でしかない。
だが。
「……くそっ」
黒緋は小さく吐き捨てた。それは自嘲だ。
以前の自分なら不愉快さに鶯を突き放しただろう。ならば必要ないと遠ざけた。追いかけることは性に合わないからだ。
しかし今、鶯を振り向かせたい。
遠ざかる後ろ姿を追いかけて、その腕を強引に掴んで振り向かせ、俺を拒むなと引き止めたい。体も心も、鶯のすべてを。
「あぶぶっ。あー!」
「ああ、分かってるから髪を引っ張るな」
黒緋は騒ぐ青藍を宥めた。
歩きだした鶯を追いかけろと言うのだ。そんなもの言われなくても分かっている。どこまでも追いかけたい相手なのだから。