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天帝と天妃、地上に降臨す1


 地上、伊勢の斎宮にある萌黄の居室。

 その日、萌黄は久しぶりの余暇をすごしていた。

 京の都から帰ってから激務続きだったのである。京の都ですごしていたあいだに仕事が山積していたのだ。

 斎王の役目は斎王にしかできない。そのため休む間もなく働きづめになってしまったが、かといって京の都へ上ったことは後悔していない。

 京の都での出来事を思い出すとまるで夢を見ているような気持ちになる。

 でもあれは現実だったのだ。

 そして伊勢の斎宮に帰ってきた萌黄は、その日から宛先のないふみをしたため続けていた。

 文には自分の近況をつづり、宛先人の幸福を祈る。

 いや、本当なら自分などが幸福を祈るなどおそれ多い相手だ。でも萌黄にとって誰よりも大切な相手だ。

 宛先人ははるか遠い存在で、このふみは決して届かない。文箱ふみばこには出せないふみがたまっていたが、それでも語り掛けるようにふみつづり続けた。


「斎王様、お茶をお持ちしました」

「どうぞ」

「失礼いたします」


 御簾みすめくって巫女が入ってきた。

 萌黄の身の回りの世話をしている巫女である。

 巫女はお茶と菓子を置くと、不思議そうに萌黄を見た。


「萌黄様はまたふみをお書きになっているんですか? でもいったい誰に……」

「鶯に。……つづるだけで出せないふみだけど、伝えたいことがたくさんあって」

「鶯については残念でした。まさか行方不明になってしまうなんて……。ご愁傷様でございます」


 巫女が床に両手をついて深々と頭を下げた。

 萌黄は無言のまま頷いた。

 なにも答えられない。

 伊勢の斎宮に帰ってきたのは萌黄だけ。今、鶯は行方不明ということになっていた。

 それはあながち間違いではないだろう。地上のどこを探しても鶯はいないのだから。


「ではこちらにお茶とお菓子を置いておきますので召しあがってください」


 そう言って巫女は床に両手をついて礼をすると静かに退室したのだった。

 退室を見送った萌黄は筆を置き、読んでもらえないふみを見つめる。

 あの京の都での日々の中で、三日夜餅みかよのもちいの三夜目のことだけは今でも鮮明に覚えていた。

 それは三夜目のことである。


 ――――その夜、天帝の黒緋と萌黄はちぎりを交わして婚姻関係を結ぶはずだった。萌黄の神気がかつての天妃とよく似ていたからだ。

 しかしそれは実行されなかった。黒緋が愛していたのは鶯で、鶯も黒緋を心から愛していたのだ。

 その後、天帝は都を出て行った鶯を探しに行った。萌黄は寝殿しんでんに残って鶯の無事を祈っていたのである。

 そして、それは夜半に起こった。

 西の夜空に四体の禍々《まがまが》しい邪気が出現したのだ。驚きのあまり庭園に飛び出し、固唾かたずをのんで西の空を見つめた。

 すぐに分かった。これが四凶しきょうであると。

 京の都を、いいや国土全体を覆ってしまいそうな凄まじい邪気。斎王であろうと簡単に飲み込まれてしまいそうで、ただただ恐ろしくて庭園で立ち尽くした。

 だが絶望と同時に感じたのは、雲の隙間から差しこむ光のような力。

 それは闇に閉ざされようとする地上に天上から慈愛の光が差したよう。


「ああ、天妃様……」


 そう、この人智じんちを越えた力こそ天妃の神気だった。

 瞬間、萌黄はすべてを悟った。

 地上に落ちた天妃が目覚めたことを。そしてその天妃が誰だったかということも。

 萌黄はゆっくりと地面に正座をし、両手をついて平伏ひれふした。

 言葉もなく静かに平伏ひれふす。

 そこにいるのは天上の天妃。天帝は天妃を見つけたのだ。

 もうすぐ天上の玉座に天帝と天妃が戻るだろう。それは地上の平穏が約束されるということで、萌黄は地上の人間として歓喜した。

 でも、……萌黄の頬にひとすじの涙が流れた。

 この涙は、もう二度と鶯を姉とは呼べなくなるから。

 だって鶯は萌黄の姉さまではなくなり、天上の天妃となったのだから。

 地上の人間である萌黄と、天上の天妃である鶯。道は別たれたのだ。


「姉さま……っ、ぅっ」


 最後にそっと呟いた。

 最後の涙は、たった一人の姉が姉ではなくなった悲しみの涙だった。

 その後、鶯は天帝や子どもたちとともに天上に帰り、それっきり会っていないのだ。――――



「鶯……」


 あの時のことを思い出して萌黄は小さく呟いた。

 もう鶯に向かって『鶯』『姉さま』とは畏れ多くて呼べないけれど、一人きりの時は許してほしい。

 萌黄がため息をついた。

 そしてまた文をしたためようと筆を握ろうとしたが。――――シュルリッ。御簾みすの向こう側から唐衣からころもの長い裾を捌く音がした。

 萌黄はその衣擦れの音にハッとして顔を上げる。

 御簾の向こう側に突然現れた人の気配。

 まさか、まさか、まさか。心臓が高鳴って胸が苦しくなる。

 そして御簾の向こうから聞こえてきたのは忘れられない声。


「ああ青藍、勝手に行ってはいけませんっ」

「あぶーっ」


 ぺらっ。

 御簾が少しだけめくられた。

 そこから覗いたのはハイハイした赤ちゃんの顔。青藍だ。

 青藍は萌黄を見るとニコッと笑ったが。


「あ、あぶ〜〜〜!」


 ズルズルズルーーー。

 引きずられてまた渡殿わたどのの向こうに消えてしまった。まるで吸い込まれていったように。

 そしてまた聞こえてきたのは騒がしい声。


「青藍、だめじゃないですか。女人がいる部屋の御簾みすを許しもなく開けてはいけません。それに御簾の向こうにいるのは斎宮の斎王ですよ? この日本の神職で最高位の存在です」

「あう〜」

「これは作法ですよ。覚えておきなさい」

「鶯、青藍はまだ赤ん坊だぞ?」


 聞こえてきた殿方とのがたの声。この聞き覚えのある声は黒緋。


「いいえ、赤ちゃんでも青藍は立派な男子をのこです。今から覚えておくべきことです。青藍、分かりましたか?」

「あう?」

「お返事は?」

「あいっ」

「よろしい」


 鶯の満足そうな声。

 しかし。


「……絶対分かってないな」

「せいらんはおへんじだけじょうずなんだ」


 黒緋と紫紺の少し呆れた声がした。

 こうして御簾の向こうから聞こえてきた声に萌黄の目頭が熱くなる。

 萌黄は座っていた上座かみざたたみから下りて、板間に正座して御簾に向かって平伏ひれふした。

 少しして御簾の向こうから萌黄に声がかけられる。


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