怨恨の影4
「う、鶯、なにかいるよ!?」
萌黄が青褪めて周囲を見回す。
そんな萌黄を鶯は背後に庇って辺りを警戒した。
緊張感が高まる中、とうとう茂みの中から山犬の群れが現われる。
「か、囲まれてたんだっ。いつの間に……っ」
萌黄がカタカタと震えだす。
いつの間にか山犬の群れに囲まれていたのだ。しかも山犬は熊のように大型で、今にも飛び掛かってきそうだった。
「萌黄、下がっていなさい」
「だ、だめだよっ。鶯は天妃なんだから、斎王の私が守らないと……!」
萌黄が怯えながらも前にでて鶯を背に庇った。
そう、斎王は天上の天帝と天妃に仕える身である。ならば鶯を守ることは萌黄にとって当たり前のことだった。
しかしそんな萌黄に鶯はため息をついた。はあ、と呆れたようなため息を。
「バカなこと言ってはいけません。あなたはたしかに斎王ですが、私の妹でしょう。引っ込んでなさい」
「そうは言うけどっ……」
萌黄は言い返そうとして、途中でなにも言えなくなった。
鶯は呆れた様子なのに、萌黄を見つめる瞳はどこまでも慈しみに満ちていた。
「大丈夫ですよ。あなたは下がっていなさい」
「う、うん……」
困惑しつつも萌黄が鶯の後ろに下がった。
鶯は山犬の群れを見つめてスゥッと目を細める。
鶯は山犬たちの違和感に気づいていた。
まず不自然な大きさ。でもなにより瞳孔が開くほど荒ぶって正気を失っている。
その原因は……。
「わずかですが邪気を感じますね。可哀想に、これがあなた方に正気を失わせているのですね」
鶯はわずかに感じる邪気に目を眇めた。
憐れむ鶯だったが、正気を失った山犬たちの威嚇が激しいものになる。そしてとうとう山犬が飛び掛かってきた。
「ガアアアアアアアアッ!!!!」
「キャアア!!」
萌黄が咄嗟にしゃがむ。
でも次の瞬間、――――シュルシュルシュル。絹の擦れる音がした。
萌黄がおそるおそる顔をあげると、視界に映った光景に驚愕に目を見開いた。色鮮やかな藤色の反物が鶯と萌黄を包んで守っていたのだ。
「うぐいす……。……いえ」
天妃……、吐息とともに呟いた。奇跡の光景に言葉が音にならなかったのだ。
そう、それは天妃の神気。今まで見たこともない美しい力だった。
日溜まりのように優しく神々しい力に萌黄の瞳に涙が浮かんだ。自分の神気が天妃に似ていると言われていたが比べものにならない。そこにあるのは人智を越えた本物。
シュルシュルシュル。
反物の包みが花開くように解けていく。
攻撃を交わした鶯に山犬が警戒したような威嚇をした。
正気を失っている山犬たちに鶯は痛ましげに目を細める。
「そのように荒ぶっていては声が届きませんね。――――静まりなさい」
「え?」
萌黄は驚愕に目を見開いた。
今まで鋭い牙をむきだしにしていた山犬たちの様子が変わったのだ。
山犬たちは叱られた子どものようにクゥンと細く鼻を鳴らし、平伏すように身を伏せて頭を垂れた。さっきまで威嚇していたのが嘘のような姿である。
「これは浄化……」
萌黄は周囲一帯の空気が変わっていることに気が付いた。
そう、天妃はそのひと声だけで一帯を浄化したのだ。
天妃の浄化に山犬の邪気が払われた。
鶯は伏せた山犬の前に膝をつき、垂れた頭を優しく撫でる。すると山犬が甘えるように目を細めて喜んだ。
「目が覚めたようで良かったです。気分は悪くありませんか?」
そう言った鶯の言葉に応えるように山犬が鶯の手を舐め、もっと撫でてくれとばかりに頭をつきだす。
そんな山犬の仕草に鶯は口元をほころばせ、慈しむような眼差しで見つめていた。
今の鶯は森に差しこむ木漏れ日のように優しい光を纏っている。それはまさに天の妃の光。萌黄が斎王だからこそ分かる、鶯が纏う神気の光が俗世の光でないものだと。
「ふふふ、ご機嫌ですね。かわいらしいことです。もう邪気に囚われてはいけませんよ?」
「ワンッ!」
山犬たちはひと鳴きすると去っていく。
鶯はそれを静かに見送った。
「もう大丈夫ですよ」と鶯が萌黄を振り返ろうとしたが。
「鶯」
ふと萌黄が鶯に後ろから抱きついた。
鶯のお腹に両腕をまわし、子どものようにぎゅ~っと抱きつく。