怨恨の影3
「それで、俺に何か用でもあったか?」
「ああ、ちょっと気になることを聞いてな。早めに耳にいれておきたい」
離寛はそう前置きした。
天帝に正式に報告するための順序を踏んだものではないが、友人として忠告するためにわざわざ地上に降りてきたというのだ。
「天上に妙な邪気を感じる。たいして大きなものではないが不穏さは否定できない。今は邪気の源泉を探させている」
「分かった、そのまま捜索を続けてくれ。で、お前がわざわざ地上まで来た理由はなんだ」
「うん、まあ、そのことなんだけどな。……その邪気が微量だが地上に流れているのを感知した」
「なんだと?」
黒緋の表情が変わった。
天上と地上の狭間には強力な結界が張られていて、双方の世界に邪気や毒気が流出することを防いでいる。弱い邪気などは結界に触れただけで浄化されるが、それを抜けてきたとなると微量だったとしても不穏さを感じるものだ。
「な、不穏だろ?」
「ああ、狭間の結界を抜けてきたとなると普通の邪気ではないかもしれん。地上に流れてきた邪気についても調べておけ」
「承知」
離寛は返事をして立ち去ろうとした。
でもその前に紫紺が声を上げる。
「ちちうえー! ここ、なんかへんだ!」
「変? なにがあった」
「ここ! ここだ!」
紫紺が地面を指差している。
不思議に思った黒緋が青藍を離寛に任せて足を向けた。
「どこだ?」
「ここ。あしあとだけど、なんかへんだ」
そう言って紫紺が指差していたのは山犬の足跡だった。
しかも一頭や二頭ではない、十頭以上の群れのようである。
検分する黒緋の表情が険しいものになっていく。
「地上の山犬にしては大きい。不自然な大きさだな」
「へんなかんじする……」
「俺も感じるぞ。微量だが邪気の名残りがある。よく気づいたな」
「すごい?」
「ああ、さすが紫紺だ」
ぽんっと黒緋が紫紺の頭に手を置いた。
黒緋は山犬の群れが向かっていった方向を見据える。
そちらは先ほど鶯と萌黄が水を汲みに行った方角なのだ。
「たくさん汲めましたね」
「うん、きっとみんな喜ぶね」
鶯と萌黄は竹筒に湧き水を汲んだ。
ここに来たのは子どもの時以来だが、湧き水は清らかで美味しいままだ。
「冷たくておいしー。この味も久しぶり」
萌黄がごくごく水を飲む。
そんな斎王とは思えぬ姿に鶯は苦笑した。
「あなたは相変わらずなんですから。斎王であることを自覚しなさい」
「斎宮ではちゃんとしてるから大丈夫。鶯も知ってるでしょ?」
「そういう問題ではありません」
「鶯は相変わらずだね。……でも天帝があんなに過保護なんて知らなかったかも」
「そうですね、黒緋様は紫紺や青藍を大切にしてくれます。天上でも紫紺の手合わせに付き合ってくれているんですよ」
「そうじゃなくて、鶯に過保護ってことだよ。今だってほんとうは鶯に水を汲みに行かせたくなかったんだよ? ちょっと離れるだけなのにね」
萌黄は思い出して小さく笑う。
でも鶯は「私ですか?」と目をぱちくりさせた。
その反応に萌黄のほうが驚く。
「え、気付いてないの? 天帝は鶯をとても大切にしてるよね。天帝は誰に対してもお優しい方だけど、鶯の扱いは分かりやすいくらい特別だもん。びっくりしたくらいなのに」
「ありがとうございます。天上に戻ってからも大切にしてもらっています」
そう言って鶯ははにかんだ。
そんな鶯に萌黄は目を細める。
「幸せそうだね」
「はい、おかげさまで幸せです。少し怖いくらいに……」
「怖い? どうして?」
萌黄が不思議そうに聞き返した。
だが鶯は誤魔化すように笑って答えない。
鶯は視線をさ迷わせて、ふと視界に白い花が映る。
「萌黄、あれを見てください。サンリンソウが咲いてますよ」
「あっ、ほんとだ。たくさん咲いてる。……て、誤魔化した?」
「まさか。でもせっかくですから行ってみましょうか」
「うん!」
二人は群生しているサンリンソウに足を向けた。
サンリンソウとは山に咲く白い小花だ。五枚の愛らしい花弁を広げ、山や森に可愛らしく咲いている。
「子どもの頃に遊んでいた場所にもたくさん咲いてたっけ」
「はい、覚えています。今思うと、子どもが山でかくれんぼってなかなか命がけですよね。いつ迷子になってもおかしくありませんでしたよ?」
「遭難しそうになったことあったよね」
「懐かしいですね」
「鶯ってかくれんぼ下手だったよね。すぐに見つかってたし」
「……余計なことまで思いだすんじゃありません」
鶯はムッと言い返すが、懐かしい思い出に表情は綻んでいる。
そしてサンリンソウの前に膝をつき、白い小さな花弁にそっと触れた。
「子どもの頃は見慣れた花でしたが、こうして見ると懐かしくなります」
「うん、懐かしい……」
鶯と萌黄は二人で同じ花を見つめる。
鶯がまだ地上にいた時は二人で一緒の花を見るのが当たり前だったのに、今は天上と地上に分かたれた。
でも二人で思い出を語りながら過去を懐かしく思えるようになったのは、きっと今が幸福だから。どんな過去も大切な思い出になったから。
「さて戻りましょうか。黒緋様たちが待ちくたびれています」
「うん、そうだね。早く帰らないと文句言われそう」
「黒緋様はそんなこと言いませんよ」
「そうかなあ?」
そう話しながら二人は戻ろうとしたが、その時、――――ガサリッ。茂みが不自然に揺れる音がした。
グルルル……。獣の低いうなり声が聞こえてくる。