二幕 涿郡の肉屋の少年
「へーい、らっしゃーい」
劉備のいた楼桑村の三つ隣の村、その狭い村には毎朝元気な少年の声が聞こえている。
「張坊、あがって良いぞ」
お昼時になると聞こえてくるその声と共に、少年の自由時間が始まる。少年の姓は張、名は飛、字は翼徳。十四歳のその顔にはまだ幼さが残っていて、かわいい系の少年だった。実際に浮いた話こそないが、張飛が売っているときは肉屋にもかかわらず、女性の客が多く来ている。
「うーっす、親父っさん。あがりまーっす」
被っていた手拭いを外しながらやっと訪れた休み時間に心を躍らせていると、
「まってー、張飛ちゃん」
若い女の声が聞こえてきた。
「はいはい?」
外した手ぬぐいをそのままに笑顔で返事をする張飛。
「なんだ? 蓮姉ちゃんか。何が欲しいん?」
「お肉じゃなくってぇ………」
言い淀む女の顔をのぞき込んで張飛は、「野盜………か?」と聞いた。
女が頷くのを見ると、張飛はニカッと笑って見せた。
「任せとけ、蓮姉ちゃん。心配すんな」そう、安心させるように言った。
張飛が野盜と言ったのはつまりは黄巾賊の末端軍のことである。黄巾党が賊軍と言われる所以である略奪や強姦といった行為は弱い村落が標的にされていた。
女が言うには、山菜を摘みに近くの山に入ったときに、黄巾賊の連中が張飛たちが住む涿県の村に攻め入る算段をしていたらしいのだ。
張飛は村のはずれにある自分の家に戻ってきていた。
「………クソったれが」
張飛は攻めてくる黄巾賊を思って呟いた。
いつもこうだった。張飛がこの村に流れてくる前から黄巾賊ははばをきかせていた。
張飛は元来この村の人間ではない。とある名家に仕えていた警備隊の息子だった。張飛の父は警備隊の隊長を勤めており、息子の張飛も幼い頃から戦いを教え込まれ、将来有望とされていた。
しかし、張飛の仕えていた家は黄巾賊の襲撃を受け離散。その家の十七歳になる娘を陸家という名家に嫁がせ、無事を確認した後、この村に流れたのだ。
その時張飛は十一歳だった。
それから三年。
しかし未だに黄巾賊の勢いは止まることを知らず、どころか年々激化しているとさえいえる状態だった。
張飛は家の奥に立てかけておいた鉄槍を手に取った。
決してこの村に恩義を感じているわけではない。
流れ者が村に住むことを許してくれる村などほとんど無かった。
しかしこの村は違った。
張飛のことを快く迎え、さらには職まで与えてくれた。
(この村がなくなったらまた放浪の旅だ。さすがに面倒だからな~)
張飛が村に来る黄巾賊を追い払い始めたのはそれが理由だった。
(そうじゃなかったら、誰がこんな有象無象のために……)
村の入り口には村民たちが集まっていた。張飛が入り口に向かうと人垣から老人が出てきた。
「張飛、向かってくれるか。すまんな」
この村の村長である老人が張飛に申し訳なさそうに頭を下げた。
「別に………良い鍛錬になるからな」
「すまん。援軍は送れんがこの槍を渡しておく。使ってくれ」
そう言って張飛に鉄槍を渡してきた。
張飛は以前援軍を送ろうとしてきた村長に対して、いらないと断っていた。
(あんな有象無象がオレの周りにいたら邪魔くさくてかなわねーからな~)
張飛はそう思って断っていたがどうやら村長を始め、村の人間たちは言葉通りに受け取らなかったらしい。
(こんな槍をもらっても邪魔なんだがな~)
そう思っても、もちろん言わない。
やっと手に入れた塒に対して張飛は自分でもわかるほどに慎重になっていた。
(ちぇっ、キャラじゃね~な~)
頭を掻きつつ村を出た。
村娘の話だと、村から一里ほど離れた山中に黄巾賊が陣取っているらしい。
村から借りた馬に乗って三十分、その程度の距離だった。
山に着いてからは歩いて入っていく。
それほど行かない内に、話し声と笑い声が聞こえてきた。
茂みから様子を窺うと、確かに黄色い布を頭に巻いた中年の男たちが酒を飲みながら笑っていた。
数は五人。
張飛にとっては物足りない人数だった。
(さっさと終わらせっか)
軽く溜息をついて、張飛は五人の中に躍り出た。
一瞬の出来事だった。
黄巾賊中隊長の郎明は自分の目が信じられなかった。
最近、涿郡のある村に襲撃に行く黄巾賊がそのまま帰ってこないという情報を耳にし、腕の立つ護衛でも雇ったのかと探ってみたところおよそ五つもの隊が子供にやられているらしいことがわかった。
信じられなかった。
郎明だけでなく黄巾賊は中隊長にもなるとある程度の武力を持っている。
それはもちろん子供が運で何とかできるものではない。
何かあるとおもった郎明は、五人の部下を囮にし、自分は周りに二百の兵を伏せて伏兵とした。
郎明は、子供といっても二十過ぎの青年でかなりの豪の者だと考えた。しかし、郎明の推測を裏切って、出てきたのは十五にも満たないであろう小僧だった。
(これならば、伏兵などと大層なことをせんでも良かったか)
こんな子供に策でもって勝ったとしても何の自慢にもならないどころか、腑抜けの称号をもらうかもしれなかった。
(それならば、あの五人に任せて自分は茂みより見ていよう)
郎明はしかし油断はしなかった。
この村は実際に襲撃を受けていないのだ。
その事実がある以上、この子供には仲間がいる可能性があった。
しかし。
例えるならばそれは暴風だった。
子供が槍を一度振るうごとに二人ずつの首が飛んだ。
最後の一人に槍を突き刺し、さらにその槍を横に薙いだ。
十秒ほどの出来事だった。
さらに、不意打ちでもなかった。
子供は部下に向かって声をかけた。
部下は武器を構えた。
そして始まったのだ。
正々堂々とした、というより、数の上でこちらが圧倒的に有利だった。
それが一瞬。
ざわり、と。
郎明は自分の体中の毛が逆立つのを感じた。
―――あれはマズい。
と。
その不安に押されるようにして郎明は叫んでいた。
「囲め!」
(弱い)
張飛は苛立っていた。
(弱い)
自分はまだ汗もかいていない。
(脆い)
それなのに、五人もいたくせに。
(脆い)
一瞬でただの肉塊になってしまった。
(こんな弱くて脆かったら鍛錬になんねーじゃんかよ)
手応えを感じる前に標的が死んでしまっていた。
槍の構えを解いて左手に持ち、意識を戦いから遠ざけた。
その時だった。
「囲め!」
野太い男の声が聞こえたかと思うと、いきなり張飛の周りに男たちが何人も現れた。
さらに四人が姿を見せると同時に自分の獲物を張飛に向かって振るった。
剣が二人。
槍が一人。
戟が一人。
郎明の逡巡が結果的に最高のタイミングで奇襲を成功させていた。
張飛は構えを解いて、武器は利き腕と逆の腕に持ち変えていたし、戦闘からも意識を外していた。
最高のタイミングだった。
しかし。
槍の刺突と剣の斬撃を一歩後ろに下がるだけでかわし、もう片方の剣を持つ男の懐に入り込んで、剣を奪い、戟の薙を奪った剣で受け止めた。
流れるような動作で奇襲を行った四人をかわし、さらに首と胴をそれぞれ一刀の元に離別させた。
「―――へぇ」
張飛は口元に笑みを浮かべながら呟いた。
(伏兵とはな~。……面白くなってきた)
まだ鍛錬が終わりでないことに対して張飛は純粋に喜んでいた。
パッと見渡しても百以上はいる。
(こんな子供に対してご苦労なこった)
若干の呆れを感じながら、
(でも)
張飛は武器を構えた。
(これでもまだ足んねぇ)
二百いた。
それで落とせない村はなかった。
なのに。
(馬鹿な)
自分の置かれている状況が、郎明には信じられなかった。
(馬鹿な)
二百いた兵士が今は十に減っていた。
あくまで確認できる兵が十なのだが、だからと言って他の兵が生きていると楽観は出来なかった。
否。
楽観させてもらえなかった。
完全に負けた。
今、郎明と十の兵はなんとか山から抜け出そうとしていた。
しかし後ろから追ってくる足音が聞こえる。
「あぐっ」「ぴぎっ」
二つの断末魔が聞こえた。
「あかっ、あかっ、あかっ」
喉が勝手に痙攣し、言葉にならない音がでる。
そして、
郎明の視界は山の外を見ることなく暗転した。
「ふ~~」
息を吐いて張飛は足を止めた。
数えながら切っていたら二〇六人いた。
山からは多分全員逃げられなかっただろう。
少しかいた汗を拭って張飛は上機嫌では山を降りた。
張飛は山の入り口に繋いでおいた馬に乗り、村に向かって走った。
異変に気づいたのは村の入り口が見えてきた辺りだった。
血の匂い。
辺りに立ちこめている匂いは、先ほどまで張飛が嗅いでいたものと同じだった。
さらに近づいてみてわかった。
黄色い布を巻いた男たちが倒れている。その数は張飛が先ほど相手をした数よりもさらに多かった。
その中央には、張飛が見たこともないような大きさの男が立っていた。
それは運命の出会いだった。
この男との出会いが張飛を戦乱へと引きずり込むのだが、まだこの時の張飛はそれを知らない。
エブリスタ投稿分からは誤字を一生懸命直してます。見つけたら教えてね。
張飛:めちゃくちゃ強い少年。STR特価。
ルビなどを修正(2024年8月6日)。
表記ゆれ修正(2024年8月7日)。
表記ゆれ修正(2024年8月9日)。