神様の栓抜き
何かが詰まっている感覚がある。夏の陽射しで色彩を鮮やかにする窓の景色に見とれながら、僕は思った。思えば、この感覚はいつから抱いていたのだろう。少なくとも今年の春学期には感じていた。だって、今年の春学期だって酷いものだった。最初の一か月こそ対面形式でマスク越しの級友の顔を久しぶりに見ることができたが、県の感染者が増えると授業はすぐにオンラインに戻った。級友の中にはオンラインの方が家に居たままで楽だというやつもいたが、僕はそうは思えない。パソコンの小窓に映る彼らの顔を見たところで全く会っている気がしないし、そもそも自由に話すこともできない。さすがにテストは学校で受けたが学年ごとの時差登校で、休み時間も教室から出ることはできず廊下では先生が見張っていた。僕たちはまるで犯罪者にでもなった気分で二日間ぎっしりと詰め込まれたテストを終え、逃げるように学校を去った。終業式も校長が話す動画が配信されただけで終わり、だからまだ何も始まっていない気がする。けれど実際には春学期は終わり、僕は宣言下での二回目の夏休みを迎えていた。
そう、夏休みだ。そして僕は高校三年生だ。高校三年生にとって夏休みとは、受験結果を左右する天王山であり、だから僕は勉強を頑張らなければならない。何かが詰まっている感覚があろうと、そんなものは無視して集中しないと来年が来てしまう。ウイルスでこの世が大変になっていても、来年は来て、そして受験当日も同様にやってくるのだ。
「航おにいちゃーーーん!もう昇おにいちゃんがやだああああああ!!」
「こら遥っ!兄ちゃんの勉強の邪魔はしちゃだめだって言ってるだろ!!」
うるさかった。弟妹たちの声は、集中しようと僕がつけたヘッドホンのノイズキャンセラーを容易に突き抜けた。どたどたと階段を駆け上がる二人分の足音が近づいてきて、ばんっと勢いよく扉が開かれる。涙と鼻水で顔をぐじょぐじょにした妹の遥と、その後ろから僕の勉強を邪魔してしまった気まずさと妹を泣かせたことを怒られるのではないかという不安で顔をひきつらせた弟の昇の顔が覗く。僕はため息をついて何ら役目を果たさなかったヘッドホンを置いた。弟妹の喧嘩は、もういつものことだった。せっかくの夏休みなのに家で過ごすように強要され、彼らのその晴れない鬱憤は喧嘩として噴出するしかない。だから僕ももう喧嘩の調停を、ある種の気分転換ととらえることにしていた。ずっとずっと、もうカンヅメにされたイワシの気持ちもわかるんじゃないかと思うぐらいカンヅメ生活を強要されて、僕は気分転換の方法だけは着実に腕を上げ、そうすることで胸の内の詰まった感覚をなんとか誤魔化して今日まできたのだった。
二人の話を聞いて、僕はため息をついた。よくそんなくだらないことで喧嘩ができるものだと、いつもながら感心してしまう。二人の喧嘩の原因は、二人のおやつにと用意されていたアイスだった。全部で六粒入ったチョコレートでコーティングされたバニラアイスは、この輝くばかりの陽射しの中外に遊びにも行けず、つまらない思いを強いられている弟妹にとってはまさに天の救いだったろう。二人でワクワクしながら箱を開け、妹が一粒目を頬張ろうとする。しかし、同封されたピックで刺そうとしても、ぬるりと滑ってうまく刺さらない。それどころか、割れたチョコレートの間から溶けたバニラがどろりとこぼれてくるではないか。今までこんな経験をしたことのない妹は、パニックに陥った。最初の一個を妹に譲ることで兄としての威厳を見せようとした昇もこの異常事態、そしてやたらめったらにピックを刺して貴重なアイスをぐずぐずの塊に変えていく妹の暴挙の前には理性を保つことができなかった。妹からピックを取り上げるとまだ硬さをぎりぎり保っているものから素早く三つ口の中に入れてしまった。ピックは奪われるわ、綺麗な形のものは全部食われるわで、当然のことながら妹は泣き叫ぶ。さすがに悪いと思った昇は、何とか形を保ったままアイスを妹の口に運んでやりたかったが、その思いもむなしくバニラは形を失い、あとには乳白色の海とチョコレートの島しか残らなかった。ヒンドゥー教の神話によれば乳海とはインド世界の様々なものを生んだ有難いものだというが、妹にとっては溶けたバニラの海などただ神様への信仰心を失わせるものでしかなかっただろう。この世に神様はいないのか。
なんて、高尚な話をしたところで遥にはさっぱりだろうから、僕はとりあえず弟を叱り、それから原因究明に乗り出した。冷蔵庫のあるリビングダイニングはしっかり冷房をつけていたはずだ。室温の上昇もなく、冷凍庫のアイスが溶けることなどあろうか。しかし、原因はすぐにわかった。冷凍庫を開けた僕の前に姿を現したのは、ところ狭しと入れられた冷凍食品とフリーズドライされた食材たちだった。
僕は声にならないため息をついた。僕たちのカンヅメ生活は、弟妹のおやつのアイスにまで影響を及ぼしていたのだ。できる限り外出の機会を減らさざるを得ない今、食料品も週末に一週間分をどかっと買わざるを得なかった。しかしそれでは、生鮮食品が保たない。だからこうして大量に冷凍することになり、結果冷凍庫が容量オーバーになるのだ。これでは機能が落ち、アイスも溶け出すはずだった。
僕の脇では、いまだに妹がぐずっている。僕は代わりのアイスを買いに行ってやると言いそうになって、けれどその途端鋭い視線のイメージが浮かんで口に出せなかった。何かが詰まっている感覚がある。僕は妹の頭をなでてやることしかできなかった。
この世に神様はいないのか。溶けたアイスに絶望する妹の顔を見たときふと抱いた感想だが、正直このカンヅメ生活はあらゆる人を運命論者にするだろう。二〇二〇年になったばかりのころ、ウイルスの感染がじわじわと広がっていることが報じられていたとき、僕たちの生きる世界は正しいコースを外れて、辿りつく先もわからない深い闇の中へ迷い込んでしまった。闇のはるか向こうには、薄ぼんやりと、本来は進むはずだった「正常な世界」が僕らの走るレールと並走して見えてしまうものだから、僕らはついついそちらに目移りしてしまって闇の中を開き直って突き進むことができない。もう仕方ないさ!これが僕らの生きる現実なんだから!といえるほど、僕らは現実を割り切れない。僕らの生きる世界はただ一つしかなく、「正しい」とか「間違い」とか、そんな価値観は通用しないことなんてわかっているのに、失ってしまったものを僕らは手放すことができないのだ。
だから僕の受験勉強もどこか真剣には身が入らなくて、頭ではよせばいいとわかっているのに、僕は言い訳をやめることができなかった。だって、学校に行けないから。家じゃうるさくて集中できないから。こんなパソコンで見る動画じゃ勉強した気にならないから。僕が生きるこの世界は進む方向を間違えた、正しくないものだから。本当の僕は、こんなはずじゃなかったんだから。
けれど、現実は僕の言い訳なんて意にも解さないでどんどん闇の中を驀進していく。去年の三年生たちは、自分たちに何が起こったのかわからないまま、これが現実なのかもわからないような顔をして、いつの間にか受験を終えて学校から去っていった。もちろん、そこには多少の憐憫や同情はあった。かわいそうに、こんな時期に受験生だなんて。君たちは悪くない。今のこの世界が間違っているんだ。けれど、そういった同情や言い訳は現状を誤魔化せても、救いにはならなかった。なぜなら、先ほども言ったように現実は我々の意を解してはくれないからだ。こんな現実であっても、それがたとえ間違っていたとしても、僕たちにはもうこれしかない。闇の向こうに見える「正常な世界」なんて、どうせもう失われて帰ってこない。それならば、この現実を真剣に生きるしかないじゃないか。そう割り切れた人だけが、わき目も振らずに先へと進んでいった。けれど、その生き方は決して簡単に選び取れるものではない。決断主義者は確かに前に進めるが、その決断の責任は自分で負わなければならないからだ。言い訳を捨てるということはそういうこと。だからいまだに、多くの人が悲しみの運命論者となって、現実を悲観し、自らの運命を嘆き、こう叫ぶのだ。この世に神様はいないのか。僕だって叫びたい。けれど今のところ、この詰まった感覚を晴らしてくれる神様の栓抜きは、訪れてくれそうになかった。
――おやあ、笹川さん、今日はご自宅で勤務ですか?
――あっ、時田さん、あ、はい、そうなんです。今日は家で……
――都市部は感染も多いでしょう。もうずっと家でやられたらいいのに。
――すみません、皆さんにご迷惑をおかけして……うちのものにも気をつけさせますので……
涼を取るために開けた窓から、粘着質な声が聞こえてきた。時田さんだ。また父さん、気分転換に玄関先で空気を吸っていたのだろう。そんな隙を見せるから時田さんにいいように言われるんだと思いつつ、けれどどうしてそれぐらいで父さんは謝らなければならないのかと、同時に僕は思う。
時田さんは近所に住む老人で、些細なことに当てつけて嫌味を言う性格で周囲から煙たがられていた。感染が広がりだしてからは見回りと称して自転車に乗り、子どもが外で遊んでいるのを見ると学校や親に苦情を入れたりしていた。お前が一番不要不急の外出をしてるだろと文句を言える人はいなくて、むしろある一件からうちは完全にマークされてしまい、そのせいで僕も妹にアイスを買ってやることすらできなくなってしまった。
父さんは家から三十キロほど離れた都市部に車で通勤して、輸入食品を扱う会社で働いているのだが、この前会社が入っている雑居ビルのほかのフロアでクラスターが起こってしまった。別にほかのフロアの出来事なので父さんは濃厚接触者にすらならなかったのだが、どこで話が漏れたのか時田さんの知るところとなり、うちは都市部からウイルスを運ぶキャリアーのような存在として扱われるようになってしまったのだ。
こういう時、僕は周囲に住んでいる人がみんな顔見知りという、田舎の地域共同体の在り方が恐ろしくなる。どこに行っても、笹川さんとこの航君とばれる。町のみんなで僕の家をやり玉に上げて、それで結束を深めているように思われる。それが鋭い視線のイメージとなって、僕を苛むのだ。まあそうやってお互いを監視しているから、田舎の感染者は少ないのだろう。互いの顔を知らないという状況では、他者は拘束として機能しない。自粛とは自分の意志だけでなく、他者の存在による部分が大きいのだと、僕はマスクをした大勢の人が歩く都市の様子をニュースで見るたびに思う。
僕の詰まったような感覚の一因は、確実に時田さんにある。そして、それを批判せずむしろ同調するほかの町の人にもだ。どうしてウイルスで大変なのに、みんなお互いを思いやれないのだろう。感染が広まってから、みんな人との距離の取り方がへたくそになった。まあそれも当然だと思う。マスクをして自分の吐いた呼気を吸い続けて、家にいたって、自分によって構成された部屋の空気しか吸わない。僕らからは決定的に他人の要素が欠如して、それで自分のことしか考えられない人間にならない方がおかしいのだ。僕らは人に配慮して距離を取って、その結果、人への配慮の仕方を忘れつつあるのかもしれなかった。
窓の外を覗くと、言いたいことを言って満足した時田さんが悠々と遠ざかっていくところだった。僕はその背中に怒鳴りつけてやる場面を想像する。お前が一番不要不急の外出をしてるだろうが!そう言えたらどれほどすっきりするだろうか。けれど僕はそうしない。それでは時田さんと同じになってしまう。いつか神様が栓を開けて、この鬱陶しい空気が晴れて人々がマスクをせずに顔を合わせるようになったとき、僕は人との距離を見失っていたくない。だからこうやって、何とか他者を慮って、僕は今日もカンヅメ生活を自らに強いているのだ。
弟妹は四回戦もやろうと騒いだが、さすがに限界で僕はキッチンのテーブルに突っ伏した。勉強の休憩にカルピスでも飲もうとリビングに降りたのが運の尽き、暇を持て余した弟妹にかくれんぼに誘われ、まあ一回ぐらいならと応じてしまった。もちろんクーラーのきいたリビングに隠れる場所などなく、僕は階段下の物置に隠れたのだがものすごい熱気がこもっていて、僕は見つかる前に自分から降参した。やる気がないと詰られ二回戦を強要され、今度はふろ場に隠れたが一瞬でばれた。三回戦は押し入れに隠れたがここもすごい熱気で、妹が見つけるころには僕は水をかぶったように汗をかいていた。大体、一軒家に高校生が隠れられる場所などないのだ。不貞腐れぎみに啜ったカルピスは火照った体に沁み、心に沁みた。
さて戻るかと腰を上げたとき、携帯が震えた。画面には「黒崎優花」と表示されている。
「元気ー?」
「うん、元気だよ。どうしたの?」
「いやー、特に用事はないんだけどさ、暇だったからかけちゃった」
優花は高校の同級生で、家も近くて小さいころから親しかった。家族ぐるみで交流もあってうちに遊びに来ることも多かったが、感染が広まってからはたまにこうして電話をかけ合うようになっていた。
とはいえと僕は思う。優花はバレー部に所属していて、今は秋リーグに向けて練習が忙しいのではなかったか。去年は感染のせいで三年生は有終の美を飾れないまま引退し、その後もぶり返す感染と宣言のせいで今年の春リーグも中止になっていた。優花の代も大会のないままの引退が危ぶまれたが、ようやくこの夏ごろは感染も落ち着き、秋リーグはやることになって、だから練習を頑張らなきゃとこの前優花は嬉しそうに言っていた。なら今日はたまたま練習がないだけなのか。
「え?ああ、秋リーグ?うん、残念だけど中止になっちゃった」
僕は耳を疑い、言葉を失った。何気ない風に聞いたら何気ない風に返ってきて、その優花の平然とした感じに余計に衝撃が大きかった。だって、あんなに楽しみにしていたじゃないか。ようやく、ぎりぎりだけど何とかなりそうだって。
引退試合もないままの引退はせめて一年だけにしたいと、優花の代は感染に対して細心の注意を払い、激しい競技中にもマスクやフェイスシールドをしたまま練習に励んでいたと聞く。それでも感染状況が落ち着かず宣言が出るごとに練習は中止を余儀なくされ、しまいには体育館の使用も大会の決まった部が申請を出すことでようやく使えるほどになってしまっていた。だから秋リーグが決まって、優花たちはようやく体育館を使った練習を再開したのだ。それなのに。
「仕方ないよ。参加するはずだった高校が、練習試合でクラスターを起こしちゃったんだもん」
「クラスターって……」
「そう。だから、今の航にはあまり話したくないの。時田さんのせいでおうち大変でしょ?」
「いいんだよ、僕のことは。ていうかどうしてそんな平然としてられるんだよ。あんなに待ちわびてた大会だったじゃないか」
「だって、今は文句を言ったって仕方ないって、それで人を責めるのは間違ってるって、そう教えてくれたのは航じゃない」
僕は言葉に詰まる。確かに、時田さんの件でうちが大変になったとき、電話をくれた優花に僕はそう言った。けど、それとこれとは話が別じゃないかと思う。けれど別じゃないのだと、そう優花は静かに言った。
クラスターを起こしたのは大会に参加する予定だった二つの高校の、計三十名ほどの生徒だった。その子たちは大会の開催が決まったことで長らくやっていなかった練習試合を行うことにし、不運にもそれが感染の引き金になった。優花の部のメンバーは、そんなことなぜしたのかと憤慨したが、しかし管理体制は甘かったのかといえば練習試合の開催と体育館の使用は両校の校長が許可を出し、コートとボール、各種機材の消毒、参加生徒全員の検温と体調チェックも毎日行っていたという。だからこれは不運な事件としか言いようがないのだと優花は言った。
確かに、探そうと思えば批判する箇所は見つけられる。例えば彼らは試合中マスクやフェイスシールドをつけていなかった。けれどそれだって、真夏で高温となり、かつ感染予防の観点から体育館を締め切って空調を使うわけにもいかないから仕方がなかったことだ。実際秋リーグでは競技中はマスクを外す予定になっていたし、だから彼らの選択は何も間違っていない。確かに私たちは練習中もマスクを外さなかったが、それは熱中症と感染を天秤にかけただけのことで、実際一年生が一人熱中症で倒れた。だからどっちが悪いかなんて言うことはできない。それにクラスターを起こした彼女たちだって、むろん起こしたくて起こしたわけじゃない。むしろ自分たちのせいで大会がなくなったと、その嘆きや自責の念は私たちよりも深いはずで、だから彼女たちを責めるわけにはいかない。何が正しくて何が間違いだったのか、そんなことは物事を一側面から見た結果としてしか言えなくて、だからあれこれ言っても仕方がなくて、事実を事実として受け止めるしかない。確かに反省は必要だが、それは未来に繋げるためのもので、ああすればよかった、こうするべきだったと過去を引きずるためのものではないと思う。違うか、と問われて、僕は何も答えられなかった。
また、何かが詰まる感覚があった。確かに優花の言葉には反論の余地はなくてまったく正しいもののように思えたけれど、一方で何かが決定的に間違っているとも思えた。事実を事実として割り切ったとしても、だからって不満が生まれなくなるわけではない。理性で抑えつけようとしても、感情はどうしようもなく暴れて、その結果心は詰まっていく。今の彼女の在り方を認めることはできなくて、じゃあ彼女に不満をまき散らしてほしいのかと言えば、それを優花に強要するのだって間違っていると思う。何が正しくて何が間違いなのか、そんなことは物事を一側面から見た結果としてしか言えない。そんなこと、僕だってわかっているつもりだ。しかしだとしたら、この胸の中で生まれ続ける詰まった感覚はいったいどこにおいてくればいいというのか。
優花の静かな声を聞いて、僕は自分を顧みる。結局僕も、自分より余裕がないのであろう時田さんを見下し、それによって心の詰まりを少しでも晴らしていただけではないのか。それは結局、周囲に自分の不満や鬱憤を吐き出す堪え性のない人よりもちょっとやり方が高尚なだけで、本質は何も変わらない。僕はそうはなりたくなかった。けれど、優花の在り方も認めたくない。だとしたら、神様もいない、栓抜きも訪れないこの世の中で、いったいどうやって生きていけばいいというのだろうか。
しばらく重い沈黙がおり、やがて優花は小さく笑った。
「それにね、結局、こんなことを不満に思うのは、ほかのもっと大変な人に比べたら贅沢なことでしかないんだよ」
「そんな言い方ってないだろ」
僕は少し語気を強めたが、優花の静かな声は少しも動じなかった。
「だって実際そうじゃない。世の中には今も感染して死んじゃいそうになっている人や、本当に死んじゃった人、お店や仕事をやめなきゃいけなくなった人がいっぱいいて、それに比べて私はただ大会がなくなっただけ。高校でもう部活ができないことは確かに悲しいけど、別にそれで死ぬわけでもないし、私はスポーツ推薦で大学に行けるほど優秀ってわけでもないから、進学にも関係ない。結局、それで不満を言うのは「甘え」でしかないのよ。言いたいことも言えずに我慢している人は大勢いるんだから。なら不満なんて最初からないんだって思った方が、思い込んだ方が、もういっそ楽なんだよ」
それは。それだけは絶対に違うと僕は思った。自分の不満が、取るに足りないものだって。そんなもの、ほかに比べれば些事だって。いや、もとから存在すらしないんだって。しかし、その感情が自分のうちに生まれて、それが辛いと思ったことは、まぎれもない本当のことじゃないか。その感情が正しいとか間違っているとか言う以前に、けれどその感情が生まれたことは事実なのだ。事実を事実として割り切るというなら、その感情にだって真摯に向き合うべきではないのか。自分の感情をだまして、己をだまして、胸に詰まった感情を無視した人が、他人のその感情に向き合うことなんてできるわけがないじゃないか。
けれどすでに電話は切れていて、紡ごうとした言葉は紡がれることなく、声は宛先を失っていた。他人はみんな遠くにいて、だから自分のことしか考えられなくなって、けれどそんな自分も嫌で、自分で自分を殺して。胸に詰まった感情だけが、どんどん大きくなっていく。救いなんてない。神様の栓抜きなんて、そんなもの存在しないのだと、絶望的な気持ちで、そう思った。
張り詰めた顔をしていたのだろう。弟妹が心配そうにこちらを見ていた。僕は彼らにあいまいに笑うことはできたが、それ以上のことをしてやれる余裕を、持つことはできなかった。
心に、詰まった感覚がある。優花との一件があってから、この感覚はまるで胸に鉛でも詰めこまれたかのように実体的な苦痛となって僕を苛むようになった。もとからあまり集中できていなかった勉強にはいよいよ身が入らず、弟妹と家の中で体を動かして遊んでも、あるいは窓外の眩く輝く夏の光景を赤黒い残照になるまで眺めていても、胸の内はたとえひと時の誤魔化しにも晴れることはなかった。
――おにーちゃーん、ご飯だよー。
その日も、体裁だけは部屋に引きこもり机に向かっていたが、開いた参考書は一ページも進まなかった。夕食に呼びに来た妹の声をどこか救いのように聞き、彼女とともにキッチンへと降りる。食卓にはすでに父さんと昇が座っていて、二人で似たような顔をしてテレビを見ていた。テレビでは相変わらず今日の感染状況が報じられている。コンロの前には母さんが立って料理の仕上げをしていた。
「母さん、手伝うよ」
「じゃあご飯盛って」
母さんは役場で働いていて、仕事柄在宅勤務とはならず今でも毎日出勤していた。役場は感染への対応によって多忙を極め、だから母さんは最近いつも疲れた顔をしている。それでも母さんは料理には手を抜かない。最近は持ち帰りや宅配も発達しているのだから、たまにはそういうのに頼ればいいのにと言ったことがあったが、こんな時だから、ご飯ぐらいちゃんとしたいのと母さんは言った。しかし母さんは感染が広がる前も料理に手を抜いたことはなく、だから彼女は妥協が嫌いなのだと思う。生活が変化を余儀なくされても、その中でベストを尽くし変化は最小限にとどめる。それが彼女の矜持なのかもしれない。
しかし、と僕はご飯を盛りながら母さんの顔を盗み見た。それでも、いや、それゆえなのか、母さんは最近夕食時の機嫌が悪いことが多い。僕の嫌な予感は的中して、今日はまさにそれだった。フライパンに落ちる母さんの顔は張り詰めていて、何かに耐えるように無理に料理に没頭しようとしていた。父さんと昇も悪い。母さんの機嫌が悪いことを知ってか知らずか、テレビから目を離そうとしない。だから僕と遥だけがこの張り詰めた空気を何とかしようと母さんの機嫌をうかがうことになる。今日の夕飯は憂鬱なものになるだろうという確信的な予感があった。
「お父さん、ご飯なんですから、いつまでもテレビ見てないで消してください」
「ああ、ごめんごめん。いやしかし、東京はすごいね。今日も五千人だって」
「聞こえてました」
母さんに鋭く言われ、父さんは慌ててテレビを消した。沈鬱な雰囲気の中、夕食が始まる。かわいそうに、昇と遥は話したいこともあるだろうに、子供ながら敏感に空気を察知して静かに夕食を食べていた。僕が何か話題を振ってやればいいのだが、僕も胸の鉛がこの沈鬱さで余計に膨れ上がって、とてもそんな気分になれなかった。父さんだけが、やるならもっと早くやればいいのに、取り返しがつかなくなってから曖昧に笑いだして場を和ませようとしていた。
「どうだ航?勉強ははかどってるかい?」
いきなり話を振られて、僕は戸惑った。こんなに居心地の悪い空気が垂れこめていて、僕もかなり不機嫌な顔をしているはずなのに、父さんはそれをあまり気にしない。厳格で理性的にものを考えようとする母さんとは対照的に、父さんは夢見がちで楽天的な人だった。今勤めている会社だって、大学を留年しながらだらだらとアルバイトを続けたすえに誘われる形で入ったのだときく。つまり、現実に対して危機感がないのだと思う。いつもへらへらしているし、悩みなんてなさそうで、だから時田さんの件でトラブルに巻き込まれたりするのだ。だから、僕は最近父さんが嫌いだった。父さんには、胸に詰まった鉛なんてないように思えるから。僕にだってその血が半分入っているはずなのに、けれど僕は父さんのようには考えられなくて、一人で超然としている父さんを見てると自分が嫌になった。
だからこの時もあいまいに答えて無視しようと思った。思ったのだけど、しかし一方で、こんな父さんなら僕のこの胸の鉛も晴らしてくれるのではないかと、そう考えずにもいられない。爽快に笑い飛ばして、そんなものは些事だと肩を叩いてくれるのではないか。都合がいいのはわかっている。けれど、ほんの少しでいい。僕は救いが欲しかったのだ。
「実は、全然はかどってないんだ。今日もずっと部屋にいたけど、なんにも進まなかった。こんなんじゃ駄目だってわかってるんだけど、けど駄目なんだ。なんか最近、ずっと苦しい」
父さんはすぐに笑い飛ばすかと思ったが、予想外にも僕の顔を静かにじっと見つめた。
「そうやって、あまり自分を責めるものじゃない」
求めていたような笑いではなく、むしろいたわるような優しい言葉が与えられて、情けないとは思っていても、僕は泣きそうになった。
「いいんだよ、そんな深刻に考えないで。先のことなんて、誰にもわからないんだから。今がそうじゃないか。誰もこんな事態予想してなかった。だろ?」
そういうと父さんは静かな口調から持ち前の笑顔へと切り替えて、明るく笑った。
「大学受験が上手くいかなくたって、いいじゃないか。もっと気楽にやろうよ。一浪したって、二浪したって、父さんなんか八年も大学にいたんだぞ。それでも今こうして、美人な母さん捕まえて、幸せにやれてるんだから。人生なんて、そんなもんなんだよ」
勢いを取り戻した父さんは馬鹿みたいに笑った。その様子がおかしくて、僕もつい笑ってしまう。昇と遥も何か許されたような顔をしてそこに加わって、久しぶりに夕食時に笑顔が戻ったと思った。
ものすごい音がしてコップが砕け散った。耳にその音が刺さって、思わず首を竦める。母さんが、わなわなと震える手でテーブルの淵を掴んでいた。
「いい加減にしてください!あなたは、あなたはいつもそう!適当なことばかり言って、その代償は誰が払うんですか!あなたが払えるんですか!航が一浪しても、二浪してもいい?じゃああなたはその責任が取れるんですか?こんな先の見えない世の中で、そんなことでどうやって生きていくんですか!人生はそんなもん?あなたは、あなたは運がよかったから、そんな無責任なことが言えるんです。私たちの周りには、運が悪くて、どうしようもなくなった人がいっぱいいるんですよ!父親なら、もっと広い視野に立ってものを言いなさいよ!」
髪を振り乱して金切り声を上げる母さんからは、それまで詰め込まれていたものが噴きだしていた。けれどそれは栓を抜くようなものではなく、瓶ごと砕けるような破壊的で凶暴な何かだった。父さんは茫然と口を開け、弟妹は泣いていた。けれど僕は冷静で、その光景をどこか醒めた目で見ていた。いつもこれだった。僕には父さんの血が半分流れていて、もう半分には母さんの血が流れている。父さんの血は僕に物事を軽く考えさせようとするけれど、そのたびに母さんの血が出てきて僕を理性で縛る。結局僕は宙づりになって、気楽に考えることも、抑圧の果てに暴力的な感情を爆発させることもできない。だから胸には鉛だけがたまって、僕を苛むことをやめないのだ。いっそのことこれらの光景、何ならこの現実がオンライン授業のように薄っぺらくて実感を欠いたものであればいいのに。そうすればパソコンを閉じるだけですべてに方がつくではないか。けれど残念なことに、母さんの金切り声も、弟妹の泣き声も、僕を苛む実感としての現実だった。
僕は席を立った。父さんが何か言ったような気がしたが構わず玄関に行き靴を履く。置いてあるマスクの箱へ自然と手が伸びたのには辟易したが、結局マスクはつけた。けれど、今時田さんに会って何かを言われたら、僕は彼を殺してしまうかもしれない。そう思いながら外へと出る。
昼間の熱気と打って変わって夜風は涼しく、首筋を流れる心地よさに僕も上気していたんだと気づく。けれど玄関が閉まると家の中の騒ぎはどこか遠い音となって、だから僕は安心して夜闇の中へと歩みを進めることができた。静かな夜だった。僕のほかに歩く人はおらず、点在する家々からは明かりがこぼれている。明かりに照らされて僕の影が浮かび上がり、その影を踏むように僕は歩いていった。
特に行く先を決めずに歩いたはずなのに、体は習慣を覚えているものなのだろうか。気がつくと、僕は自分の高校へと向かう通学路を歩いているのだった。やがて闇の中に黒々とした校舎が浮かび上がり、僕は正門の前に立った。夜空を背負って佇む校舎は、静謐な空気によく馴染んで静かだった。僕がここに通って、大勢の生徒がここで賑やかに過ごしていたなんて、現実感の伴わないはるか昔のことのように思われた。澄み切った夜空には鋭利な光を放つ月と星々が輝いていたが、黒く沈んだ箱のような校舎はその光と似たものを備えている。生徒や教員といった内容物を失った校舎は、無機質な空箱だと、ふと思った。空箱は余計なものが入っていないから無駄がなくて清潔で、まさに今の時代に求められているものだ。効率と清潔。そういうものは、この校舎や夜空のように静謐で人を安らかにもさせるが、しかし同時にその冷たさは妥協を許さない。精緻で厳格で、揺らぎのないそれに、無駄の入り込む余地はない。
無駄。思えばそれは、感染が広がってからというもの、僕がひたすらその消失を惜しんだものではなかったか。学校に登校すること、級友の顔を見ること、休み時間や放課後に、何気ない語らいをすること。いや、ただ皆と席について、教壇に立つ教師の話を聞くだけでもいい。学校がオンライン化して失われたそれらは、オンラインでも通常と同等の授業ができているとする学校側の主張を鵜吞みにするなら学校の存在意義からは切り離されたものだが、今僕はそれが何より愛しかった。
しかし同時に僕は、優花や母さんの言葉も思い出してしまう。妥協や無駄を許さない彼女たちの言葉。心のうちから出てくるものを切り捨て、あるいは理性で蓋をする。今の時代では、確かにそういったあり方が必要とされている。でなければ父さんのように無責任に堕するか、時田さんのように周りを傷つける。間を取ろうとすれば、僕のように宙づりになって心は詰まっていくだけだ。わかってはいるが、同時に何もわからなかった。答えが出ない。神様の栓抜きは、いったいどこにあるのか。導きを与えてくれるはずの先生は、この黒く沈んだ学校にはいなかった。
翌日は八月一三日、つまりお盆の初日だった。いつもは仕事で家にいない母さんも休みで、だから本当は楽しい朝になるはずだった。しかし実際には雰囲気は最悪だった。母さんは部屋から降りてこないし、父さんは食卓でパソコンを開いて仕事に集中するふりをしている。弟妹たちもそうだ。テレビを静かに見ているようでいて、部屋の空気を敏感に探ろうとしていた。みんな、生きづらい時間を過ごしている。何かが詰まっている感覚は、家族のみんなを蝕んでいる。昨日見上げた夜空を、黒々とした校舎を思い出した。
その時、僕の携帯電話がなった。優花かと思って画面を見ると、珍しい名前がそこには表示されていた。
「なんだ、恭子はまだ起きてないのか、もう十時だぞ」
「母さんいつも仕事で忙しいから……せっかくの休みくらい寝てたいんだよ」
「ん?どうした航、元気ないな。声暗いぞ」
電話をかけてきたのは、母さんの父さん、つまり僕の祖父だった。母さんの両親は山形に住んでいて、僕たち一家は毎年お盆になると泊りがけで帰省をしていた。もっとも、去年から行けていなくて、だから祖父はその代わりに電話してきたのだった。本来ならお前たちの方から電話するのが筋で、そもそも今年は来るのか来ないのかの連絡も事前にするのが礼儀だと思うが、どうせこの状況下で塞ぎこんででもいるんだろうと思っていたらやはりそうらしい、俺が活を入れてやるから恭子を起こせと言われれば逆らえるはずもなく、僕は携帯を耳に当てたまま母さんの部屋の前に立った。ノックをしておじいちゃんから電話というと、少しして母さんは不機嫌な顔でドアを開けて僕から携帯を受け取った。
「なに父さん。なんの用なの」
「恭子?大丈夫?体調悪いの?あなたはすぐに根を詰めるから……」
最初から喧嘩腰で構えていた母さんを見越してか、いつの間にか向こうの相手は祖母に代わっているのだった。こういうところ、祖父母は抜かりがない。出鼻をくじかれて母さんは二の句が継げず、武装された言葉は吐き出されないまま霧消していった。
「別に体調が悪いわけじゃないのよ。ただちょっと、昨日家族で喧嘩して……」
「どうせそんなことだろうと思ったわ。閉じこもっていると家に悪い空気が溜まるのよ。だからおじいちゃんが、そんな恭子たちに見せたいものがあるんだって」
「なにを?」
「それは後のお楽しみよ。ねえ航、優花ちゃんも呼んでくれない?おじいちゃん、せっかくなら優花ちゃんにも見せたいんだって」
「え、優花?けど今あいつを家には呼べないよ」
「大丈夫よ、ビデオ通話で画面共有するんだから」
僕と母さんは、わけがわからないという風に顔を見合わせた。
「わー、じいじー、ばあばー、見えるー?昇だよー」
「優花お姉ちゃんも久しぶりー。遥のこと見えてるー?」
僕と母さんと父さんは、弟妹がかじりつくようにパソコンに手を振っている光景を後ろから眺めていた。その画面には孫の顔を見て嬉しそうに笑う祖父母と、状況がよくわからずあいまいに笑う優花の顔が映っていた。なんというか、シュールだ。一向に飲み込めない状況に、母さんが鼻を鳴らした。
「で、いったい何を見せてくれるってのよ。優花ちゃんまで無理に呼んで」
「そうせかすな。せっかちなやつだなお前は」
そういうと祖父は向こうのパソコンで何やら操作を始めた。その様子に僕たちは目を丸くする。祖父はこの歳になっても元気に庄内平野で農業を営む壮健な老人だったが、しかし電子機器なんて携帯電話すらろくに触れないありさまだったはずだ。それがこなれた様子でパソコンを操作していて、大体パソコンなんていつ買ったんだろう。定年まで高校で古典教師をしていた祖母ならまだわかるのだがと首をひねる僕たちを見て、祖父の肩口から覗く祖母は苦笑した。
「おじいちゃん、これ独学で勉強したのよ。もう私より詳しいぐらいなんだから」
えぇっ、という僕たちの声と、準備できたぞ、という祖父の声は同時だった。
とたん、画面いっぱいに光景が広がった。画面の中に、光が迸る。それは、眩いばかりの陽光に磨かれて輝く、庄内平野の色鮮やかな姿だった。深緑をたたえた鳥海山は日の光を浴びて濡れたように輝き、そのふもとにはまるで海原のように風によって波打つ青々とした田園が広がっていた。田んぼに流れる用水路の涼やかな水や、まだ若い稲穂の発散する空気すらも匂い立つように、僕には思われた。
映し出された光景に、しばし僕たちは言葉を失って見入った。ハンディカメラで撮影しているのだろう。途中幾度か画面は揺れながら、庄内平野の全貌を映していく。それは、お盆になるたびに目にして積み重ねてきた、あまりにも馴染み深い風景だった。
「これ、おじいちゃんが撮ったのよ。結構綺麗に撮れてるでしょ」
「でも、どうして……」
「このご時世で、一歩も家から出れない人もいるんだろ。そんな人に、せめて庄内の、俺がいつも見ている風景だけでも見せてやろうと思ってさ。なんてことない、ただ俺がいつも田んぼでやってる作業を撮っただけなんだけどさ。けど、インターネットに乗っけてみたら、これが結構評判いいんだよ」そう言って、祖父は誇らしげに笑った。
僕は改めて映し出された光景に目を向ける。画面に映る祖父の手は、空に向かって育つ稲穂を撫で、用水路の水を調整し、トラクターの泥を払っていた。僕はその光景を、もう何度も見たことがあった。思い出として蓄積され、記憶の中に積ったそれは、むしろ現実よりも美化されていたはずだった。しかし、今こうして見て胸に迫るものは、その記憶がもたらすものとは全く違っていた。陽に蒸された葉の青臭さや、透き通る水の冷たさ、眩しく焼かれた赤い板金の熱さがまでもが、確かな実感を伴って迫ってくるのだ。
「……わたし、この景色、なんだか初めて見るみたいです」
ぽつりと、そう呟いたのは優花だった。
「けど、航君たちに連れて行ってもらって、私この風景を見たんです。あの頃はもう高校生で、私は一年生で、だから二年しかたってないんですけど、けど私はもう三年生なんです……そう考えると二年も経ってる……いろんなものがいつの間にか遠くて、なんか、なんか……もう、戻ってこないって……無くなっちゃったって……」
声の最後は、嗚咽に途切れた。画面に映る小窓の中で、彼女は肩を震わせていた。
優花に対してかける言葉を、僕は持たなかった。僕らの日常と地続きのところにありながら、遠く隔たってしまったように思われる風景。この風景が今の僕に与えるもの。今の僕が抱いた感慨。はたまた、今のこの世の中の状況が僕たちにもたらしたもの。かける言葉を持たないなら、せめてそれらの意味を考えようと、僕はしてみる。けれど考えるきっかけとなるはずの糸口は、雄大な鳥海山に引っ掛かり、田んぼに落ちる祖父の黒々とした影に引っ掛かり、夏の鮮やかな空に引っ掛かり、しかし引っ掛かるたびにその景色は流れて行って、僕はそれを手繰り寄せることはできなかった。
――いや、それはちげえよ、優花ちゃん。
僕を再び画面に向かわせたのは、そんな祖父の声だった。祖父は優花を慰めるように、不器用ながら柔らかに笑っていた。
「まあ俺も最初はな、世の中大変なことになって、いろんなものがなくなったって思ったさ。
けどさ、この風景がこんなに綺麗なのは、今この時、この事態があるからじゃねえのか。まあそりゃ、この事態になってよかったってことじゃないぜ?けどよ、俺にとっちゃもう日常も日常で、特に見ることもねえと思ってたこの風景が、けどこんなに綺麗だって思ったんだ。なんてことはない当たり前が、けど当たり前じゃなくなって、すげえ大事だったって気づいた。けど気づいたってことは、それは失くしたんじゃなくて、見つけたんだよ。埋まってたものを、掘り出したんだって、俺は思うわけよ」
ふふふ、おじいちゃん、いつもは田んぼばっか見てて何考えてるかわかんないけれど、ちゃんといろんなことを考えてるんねえ。私、見直しちゃったわ。そう言って祖母はおどけてみせ、せっかくいい話したんだから、茶化すんじゃねえよと祖父は顔をしかめた。そんな祖父の様子を笑ってから、祖母は何かを確かめるように、再び画面の中の風景を眺めやった。
「けど本当に、おじいちゃんの言う通りねえ。私ももう長いこと生きてるけど、こんなことになったのは初めてだし、それでこんなに庄内が綺麗に見えるものなんだって、思ってもみなかった。この歳になってから気づくことがあるなんてね。当たり前に思っていたり、無駄だと思っていたりしたものが、実はそうじゃないってこと、頭ではわかっていたつもりだけど、実感するとやっぱり全然わかってなかったって思うわ。人生長く生きてても、ほんと、わからないことだだらけね」
真面目な話をしちゃった、と照れたように笑う祖母だったが、僕は祖母の言葉を受け止めてはっとなっていた。昨日の夜空と校舎の光景を思い出していたのだ。今の学校からなくなってしまったものを無駄だと考え、けれど愛しいと思い、しかし同時に、今時代に求められているあり方を考え、宙づりになってしまった思考。答えを教えてくれる教師はあの場所にはいなかった。しかし、長年教師として教えてきた祖母なら、何か答えを持っているかもしれない。そう思った。
――ねえ、おばあちゃん。
気がつくと僕は、祖母にそのことを問うていた。一言しゃべりだすと止まらなくなって、僕は時田さんや優花、母さんや父さんとの出来事の中で考えたことをすべてさらけ出すように語り続けた。その間祖母は静かに聞き続け、そして僕の語りが終わるとしばし目を閉じた。その沈黙がとても長いもののように、僕には思われた。
「いろいろ、かける言葉はあるんだろうけどね」目を開けた祖母は、そう語り始めた。
「けどやっぱりそのことは、航自身が考えなきゃいけないことだと思うよ」
「でも、それじゃあ」
縋るように言葉を重ねようとした僕を、祖母は静かに手で制した。
「だって、航は生徒でしょ?優花ちゃんも。だからこれはあなたたちの役目なのよ」そう言って祖母は、僕と優花の顔を交互に見る。
「生徒っていう字はね、徒に生きるって書くの。いたずらっていうのは、無駄とか、無価値とかいう意味ね。まあだから、生徒って呼び方は、お前らは今意味のない時間を生きてるんだぞ、っていう戒めでもあったわけなんだけれど、けどだからこそ、あなたたちはその時間を大切にして、無駄とか無意味とかの価値や意味を、その大切さを、誰よりも考えなきゃいけないの。それがあなたたちに課されたこと。あなたたちは、この時代の意味を、そのもたらしたものを考えなければいけない。たとえ今が辛かったとしても、決して考えることをやめてはいけないの」
真剣な顔で、祖母はそう言った。厳しさすらも含んだそれは、彼女が教師人生の中で持ち続け、培い続けたものだろう。その視線を、僕は受け止め、視線から紡がれるものを考えようとした。
「けど大丈夫よ。あなたたちはすでに、そのきっかけを掴んだんだから」
いつの間にか穏やかに戻った祖母は、そういって画面を示した。
「あなたたちは、この景色を見て、当たり前だったり、無駄や無価値、無意味と思われていることが、そうじゃないことに気がつけた。私はこの歳で気づけたけど、航や優花ちゃん、それに昇や遥にはこれから長い人生が待っていて、なら見つけた価値は私とは比べものにならないほどのものよ。確かに、今すぐには答えは出ないわ。今のこの私たちの生活が、どんな意味を持つかなんて、私にもわからない。五年や十年が経っても、わからないかもしれない。けれど、だから人生は生きなきゃいけないの。いつか出る答えを待って、私たちは生き続けなければならない。けどそれって、素敵なことじゃない?明日を待つ、それはつまり明日を楽しみにできる人生ってことよ。明日を積み重ねていけば、いつか昨日や今日の意味が分かる日がやってくる。この景色が今、こんなにも輝いて見えるようにね。だからきっと、今日この風景を見たあなたたちなら、きっとその日が待てるわ」
画面の中でざあっという音がして、稲穂がさざめいた。風景が一瞬暗くなり、風で流れた雲が太陽を隠したのだと思った時には、すでに雲は流れて再び陽光が画面を満たしていた。カメラを持った祖父の手が、空を仰ぐ。太陽に磨かれて真っ白に輝く雲、底が抜けたように青く、むしろ黒いまでの空、それを背負った鳥海山の濡れた深緑、その裾野から広がる田園の、水のきらめきと、むせ返るようなにおいを放つ稲の若草色。色彩が、満ちていた。
輝く庄内平野を背景にしながら、祖母はいつまでも笑っていた。
階下から、弟妹たちの声が聞こえていた。
今日も僕は、変わらない日常を生きている。決定的に変わってしまってから、変わることなく続く日常を生きている。変化は特にない。状況は好転しないし、特に明るい話も聞かない。相変わらず授業はオンラインで、級友の顔も見ることはできず、時田さんは町を巡っている。僕の胸には今も、晴れることのない気持ちが詰まっている。僕は思う。神様の栓抜きは、きっと来ない。神様は僕たちを見守ることはあっても、決して直接手を貸してはくれないだろう。だから僕はこれからも、この胸の詰まりと、付き合っていかねばならない。
しかし僕は考える。何年か、何十年か先、それがいつかはわからないけれど、この胸の詰まりが何か別のものに変わっていたことに、気づいた自分がやがてやってくる。価値とか、意味とか、正しいとか、間違いとか、そういったものもやがてやってくる。だからやって来た時のために、僕は忘れない。というか、忘れられない。思い出すためには忘れることが必要で、けれどあの光景は僕の視覚に、記憶に埋め込まれて、刻み込まれて、だから忘れない。けれどそれとは別に、自分の意志でも、それを覚えていたい。昨日捨てたマスクのことや、今日吸った空気のこと。その匂いや冷たさや、それが僕にもたらしたことを、覚えていたい。
階下から、弟妹たちの声が聞こえている。それはいつしか、僕を呼ぶ声になっていた。僕はやれやれとパソコンを閉じる。きっと今日も、いつもと変わらない一日だ。けれどきっと、今日の記憶もまた、色褪せない。
あの時みた光景が、いつまでも色褪せない。日々の記憶は色褪せることなく、今日も僕は、明日を待っている。
(了)