エピローグ
根本博が軍略家としての本領を発揮したのは皮肉なことに戦後でした。
昭和二十四年三月、蒋介石の密使が秘かに根本邸を訪れました。以後、根本博は趣味で集めていた骨董品を売り払い、金をつくりました。
「釣りに行ってくる」
そう家人に告げて家を出たのは五月です。実際に釣り竿を一本もって出かけました。小さな釣り船で命からがら東シナ海をわたり、台湾に上陸しました。密航です。
そのころ蒋介石は、支那大陸における国共内戦に敗れ、台湾に逃れていました。しかし、捲土重来を期すためにも、中共軍の台湾侵攻を抑止するためにも、支那大陸に橋頭堡を確保しておきたいと考えていました。それが厦門島と金門島です。ですが、これを守るのは至難と思われました。そこで蒋介石は根本博に助力を請うたのです。
根本博は蒋介石の軍事顧問となり、地理を案じ、秘策を授けました。台湾を守るためには厦門島をすて、金門島を死守せよ。そして、金門島の各所に部隊を埋伏させておき、共産党軍を上陸させて島内まで引き入れ、しかるのちに反撃し、敵の兵站を絶って全滅させるべきであると進言しました。
厦門島を放棄するという根本博の大胆な戦略に蒋介石は難色を示しました。しかし、根本博は厦門島を守るのは不可能だと力説しました。
「厦門島は大陸から近すぎる。厦門島にこだわれば金門島をも失う」
蒋介石は悩んだすえ、根本戦略を採用しました。
根本戦法は大成功します。易々と厦門島を手に入れた中共軍は勢いに乗って金門島に殺到しました。上陸してきた中共軍は金門島の内陸部に進みます。これに対して国民党軍が反撃を加え、大打撃を与えました。さらに国民党軍は中共軍の船舶をことごとく撃沈させました。手ひどい反撃に遭った中共軍は死傷二万名の大損害を出して敗退しました。大量の船舶を失った中共軍は金門島の奪取を断念せざるを得ませんでした。敗退つづきだった国民党軍はこの勝利によって自信を回復しました。
根本博が帰国したのは昭和二十七年六月です。根本博の乗機が羽田空港に着陸すると、機内から根本博が姿を現しました。その手には釣り竿が一本にぎられていました。