撤退
八月二十一日は、蒙彊在留邦人引き揚げ作戦の最終日です。早朝から張家口駅は居留邦人でごった返しました。全車両が満員になると蒸気機関車が汽笛を鳴らし、次々と発車していきます。
昼前、駐蒙軍司令部の森昌男大尉はトラックの助手席に乗り、野戦倉庫に向かっていました。倉庫から食糧を積み出し、京包線の各駅へ分配するためです。張家口市街を走行していると和服姿の女性が幼い子供の手を引いて歩いているのが目にとまりました。母子は仲睦まじげにしています。実に平和な様子でした。
「ちょっと停めろ」
森大尉は運転士に命じてトラックを停めさせ、その母子に話しかけました。
「失礼ですが、あなたは日本人ですか」
「はあ、そうですが」
「何をしているのです」
「ええ、お買い物を」
「引き揚げの準備は」
「え、引き揚げ、ですか。なんですか、それは」
「知らないのか。今日中に日本人は張家口から引き揚げるのだ。夕刻には最終列車が出るぞ。それに乗り遅れたらもう逃げられんぞ。張家口のすぐ北にはソ連軍が来ておるのだ。早く帰って手荷物だけ持って張家口駅へ行きなさい。急げ。急がないと死ぬぞ」
「はあ、はい」
母子を見送った森昌男大尉はトラックに乗り込むと、運転士に駐蒙軍司令部に向かうよう命じました。
「どうなっておるんだ。連絡が不徹底じゃないか」
そう言いながら市街をよく見ると、ほかにも日本婦人の姿がチラホラと見えました。
「なんたる不手際か」
駐蒙軍司令部に駆け込んだ森大尉は参謀長の中川留雄少将に訴えました。
「邦人に対する周知が不徹底です。今この時間にも、のんきに買い物をしている日本婦人が実際に何人もいるのです。今この目で見てきたのです。急いで引き揚げの勧告をやり直してください。まったくなっておりません」
「そうなのか。わかった。手配する。ありったけの車輌と人員を使う」
中川少将は自動車、オートバイ、自転車をすべて使い、動ける人員を総動員して日本人家屋を見て回らせることにしました。蒙彊政府の引揚者対策本部と華北交通にも連絡を入れ、周知徹底をもう一度やり直すよう命令しました。
「やむをえん。こうなったら戦車隊も使おう。丸一陣地はよくもちこたえている。あと一日は大丈夫だろう」
二十六両からなる戦車隊は膳房堡と張家口のあいだに位置する山間地に待機していました。丸一陣地がソ蒙軍に突破された場合、これに反撃し、足止めを喰らわすためです。その戦車隊に新任務が伝達されました。
「日本人居留民に対して避難勧告をなせ。張家口市街を走り回れ」
戦車は轟音をあげて張家口の住宅地を走りまわりました。車長は砲塔上に身を乗りだして大声疾呼します。
「日本人はいないか!」
張家口駅では、引き揚げ者を満載した列車が次々と発車していきました。夕方に近づくと空の貨車がなくなってしまったので、石炭を積載した貨車を使うことになりました。いちいち石炭を降ろしている余裕はありません。
「しかたがない。石炭のうえに乗ってくれ」
居留民たちはゴツゴツした石炭の上に座るほかありませんでした。尻は痛いし、黒く汚れるし、傾斜もあって危険でした。
「せめて平坦にしよう」
引き揚げ者は手で石炭を線路脇に放り投げ、可能な限り平らにしました。こうして居留民の引き揚げは進捗し、夕方までに居留民の引き揚げは終了すると見込まれました。
駐蒙軍司令部では、居留民の引き揚げは夕刻までに完了するとの確信を得、膳房堡の独立混成第二旅団司令部に次の命令を発しました。
「居留民の引き揚げは順調に進んでいる。独立混成第二旅団は二十二日朝まで持久し、その後は適宜行動し、八達嶺に転進せよ」
八達嶺とは北京の北郊にある戦略要地です。要するに明日の早朝まで戦い、その後に撤退せよという命令です。
その独立混成第二旅団は丸一陣地で激闘していました。例によってソ蒙軍は丸一陣地左翼への浸透を図っています。従来とは戦術を変え、丸一陣地の後方へと深く侵入しようと企てています。左翼を守る第二大隊は敵の攻撃に耐え、ソ蒙軍をはね返していましたが、数次にわたる白兵戦のため戦力が低下していきました。その隙を突き、ソ蒙軍は外長城ちかくのトーチカを占領することに成功しました。
旅団司令部としては援軍を送りたいところでしたが、もはや予備軍がありません。参謀の辻田新太郎少佐は事態を重視し、他部隊から援軍を抽出させ、予備軍として投入することにしました。
丸一陣地の東四キロほどの地点にある二道辺の陣地には独立混成第八旅団独立歩兵第三十三大隊が配置されています。幸い、二道辺陣地に対する敵軍の攻撃はありません。そこで辻田少佐は、この部隊から一個中隊を抽出して丸一陣地の左翼へ投入することにしました。
「丸一陣地へ一個中隊をまわせ」
旅団司令部からの命令を受けた独混第八旅団第三十三大隊隊長田中重寿少佐は、第三中隊に援軍を命じました。第三中隊は大野富久中尉に率いられ、雨中を行軍して丸一陣地に急行しました。
大野中隊は、外長城上にいったん集結し、敵に奪われたトーチカを確認し、三方から突撃しました。突入してみると意外にもトーチカ内には人形があるだけでした。日本軍がトーチカに突入するのを確認したソ蒙軍は、トーチカに銃砲火を集中しました。ソ蒙軍はトーチカに照準を合わせて待ち構えていたのです。見事にいっぱい食わされました。大野中隊には死傷者が出ました。しかし、トーチカ陣地を奪還した大野中隊は、敵の激しい攻撃に耐えつづけ、夜までトーチカを守り続けました。
膳房堡の旅団司令部に駐蒙軍司令部から電話が入ったのは午後三時頃です。辻田少佐が受話器をとると相手は泉祐順少佐でした。
「辻田少佐、まことにあいすまないが軍司令部は張家口を引き払い、最終列車で北京に向かいます。ご武運を祈ります」
「ありがとう。居留民の撤退がうまくいってよかった。我々も戦った甲斐がありました。誓って任務を達成します」
辻田少佐は負傷兵をトラックで後送し、張家口駅の最終列車に乗せるよう手配しました。すでに張家口駅のホームには最終列車が待機しています。最終列車には駐蒙軍司令部、華北交通社員、病院の入院患者、傷病兵、逃げ遅れていた居留民が乗りこむ予定です。最終列車は午後五時の発車予定になっていました。
根本博中将は副官、従兵とともに張家口飛行場に向かい、輸送機に乗ると午後四時過ぎに離陸しました。北京へ飛び、北支那方面軍司令部に入り、さっそく同じ建物内に駐蒙軍司令部を併設させました。駐蒙軍司令官として居留民を張家口から脱出させる作戦は成功しつつあります。しかし、これはまだ第一段階に過ぎません。根本博中将は北支那方面軍司令官として、北支に存在する軍官民の全邦人を無事に日本に送り返さねばなりません。そのためには北支へのソ連軍の侵入を何としても防ぐ必要があります。
「ソ連軍による長城線の越境を許さない」
この一点において北支那方面軍司令官根本博中将と支那派遣軍総司令官岡村寧次大将との間に齟齬はありません。根本中将はかねてより熱河省方面からのソ連軍の侵入を警戒し、独立混成第八旅団を古北口に配置していましたが、これが図に当たりました。二十一日早朝からソ連軍の一部隊が長城線の古北口に集結し、侵入を計っていたからです。ソ連軍は停戦協定を求めるふりをし、古北口の守備にあたっていた独立混成第八旅団を欺き、不法に長城線を越え、武装解除を要求してきました。その際、根本中将は古北口の死守を厳命しました。独立混成第八旅団は苦戦の末、ソ連軍を撃退しました。
前日の昼頃から日ソ両軍のにらみあいがつづいていた丸一陣地左翼後背の高地では、午後五時から独立混成第二旅団第三大隊の攻撃が始まりました。ソ連軍は前日から陣地構築をつづけていましたが、まだ完成してはいません。完成する前に攻撃を開始したのです。
独混第二旅団第三大隊は、九二式歩兵砲、軽機関銃、擲弾筒などの全火砲を敵陣地に集中させました。その間に散兵壕から歩兵部隊が這いだし、匍匐前進で構築中の敵陣地へ接近していきます。いまだ構築中ながらソ蒙軍陣地の弾幕は重厚で、第三大隊の歩兵部隊は地べたに這いつくばるしかありません。突撃の機会は容易につかめません。ところが第一中隊が果敢にも突撃を開始します。
(まだ早い)
と大隊長金田志一少佐は思いましたが、第一中隊を見殺しにはできません。
「全軍突撃せよ」
金田大隊長は兵長に突撃ラッパを吹かせました。ところが銃弾に倒れる兵士が相次ぎ、ふたたび地に伏せ、地形の起伏の影に隠れることになりました。そのまま耐えるうち敵の弾幕が薄まってきました。理由はよくわかりませんでしたが、ともかく好機到来とばかりに第三大隊はありったけの火砲を撃ちまくり、歩兵突撃に移りました。突撃は成功しました。ソ蒙軍は構築中の陣地を放棄して退却していきました。
その後、ソ蒙軍の攻勢は全般的に低調となり、そのまま夜になりました。
砲声が静まって雨音が烈しくなりました。最前線は嘘のように静かです。旅団司令部では辻田参謀が思案していました。
(今夜のうちに撤退すべきか、明日まで待つか)
辻田少佐は迷います。駐蒙軍司令部からは「翌朝まで持久した後、八達嶺に転進せよ」との命令を受けています。しかし、朝を待っていれば、ソ蒙軍が攻勢に出てくるかもしれません。戦いが始まれば、撤退が難しくなります。しかし、命令を無視するわけにもいきません。辻田少佐の思案に決着をつける命令がもたらされたのは午後九時です。膳房堡の旅団司令部に戦車二両が到着しました。戦車を降りた内藤大尉は密封命令を辻田少佐に手渡しました。開封すると「持久任務を解除する」とあります。
独立混成第二旅団はただちに撤退を開始しました。都合よく、雨に加えて霧が出てきました。小隊ごとに、できるだけ静かに陣地を離脱し、膳房堡で数百人の一団にまとまり、順次、張家口市街へ南下していきました。
翌八月二十二日の朝、独立混成第二旅団の先頭部隊は張家口市街に入りました。市街はヒッソリしています。独混第二旅団の各部隊は張家口駅で休憩し、朝食をとりました。十八日から四日にわたって戦闘してきたため将兵はヘトヘトに疲れ切っています。とくに丸一陣地左翼に布陣していた部隊は数次の激闘を経てきており、疲労が著しく、しかも雨に濡れつづけていたせいで足がふやけ、靴擦れができ、歩けなくなる者が出ました。なかには疲労困憊して眠りながら歩く者や、座り込んでしまう者もいます。
辻田新太郎少佐は落伍兵が出ないよう配慮しました。疲れている者には小銃を棄てることを許可しました。歩けない者は馬に乗せたり、荷馬車に乗せたりしました。それでも幾人かの落伍兵が出たことは、どうしようもないことでした。なにしろ、急がねばなりません。いまごろソ蒙軍は丸一陣地が空っぽになっていることに気づいているはずです。すぐに追撃してくる可能性があります。中国共産党のゲリラも策動しているので安全な場所はありません。一瞬たりとも油断ができない状況です。どうしても歩けないと言い張る者には自決用の手榴弾を渡して先を急ぎました。急がねばなりません。急がねばソ蒙軍の機甲部隊に追及されてしまいます。
張家口市街を過ぎると独混第二旅団は山間部に入り、内長城線上の八達嶺を目指して歩きました。山間部では頻繁に共産ゲリラの襲撃に遭いました。充分な食糧すらない苦しい撤退行軍となりました。
八月二十一日午後五時に張家口駅を出発した最終列車は、なお京包鉄道の線路上にありました。京包線上には五十編制もの列車群が長大な車列をなしてノロノロと北京へ向けて南下しています。超過密な列車運行であるため速度をあげることができません。下手に速度を上げれば先行列車に追突しかねないのです。華北交通の鉄道員たちは安全運行に徹しました。その列車群を第百十八師団と独混第二旅団第一大隊と華北交通警備隊が守りつづけました。共産ゲリラによる鉄道破壊工作と列車への銃撃が絶えませんでしたが、損害は軽微です。
避難民を満載した引き揚げ列車は、二十二日以降、ようやく続々と北京および天津に到着しました。最終列車が北京入りしたのは八月二十五日です。
一方、独立混成第二旅団は、八月二十七日午後、ようやく八達嶺に到着しました。四日間にわたる丸一陣地防衛戦に耐え、さらに六日間の退却行軍をやりとおしたのです。敗戦を知らされてもなお団結を維持し、もっとも困難な殿軍の任務を果たしました。輝かしい戦勲です。この間の損害は、戦死六十名、負傷五十名、行方不明七名でした。
敗戦後もなお北京や天津の治安は厳然と維持されていました。北支那方面軍の存在があったからです。北支那方面軍は断固として長城線を守りつづけ、ソ連軍の侵入を許しませんでした。北支那方面軍司令官根本博中将は、第百十八師団を天津に、戦車第三師団を北京に集結させ、その警備と治安維持に万全を期しました。また、古北口および山海関から侵入しようとするソ連軍を見事に封止しました。北京と天津の治安があまりによいので、蒙彊からの引き揚げ者たちは拍子抜けし、つい不平不満を口にしました。
「なんだ。こんなことなら逃げてくることもなかった。家財道具も持ってくればよかった。惜しいことをした」
張家口からの脱出は確かに成功しました。しかしながら、居留民たちにしてみれば惨憺たる逃避行です。家屋家財すべてを放棄し、生業を失い、ほとんど着の身、着のままの状態で逃げてきたのです。命以外のすべてを失ったといってよいのです。それでも、満洲におけるソ連軍の暴虐と居留邦人の悲劇が風聞として伝わってくると、蒙彊避難民の不平不満はやみました。満洲の悲劇は、蒙彊からの引き揚げ者たちを慄然とさせたのです。
関東軍総司令部は、八月十六日に停戦を決定し、十九日からソ連軍との停戦協定に入り、武装を解除しました。勅命にしたがったのです。二十二日には関東軍総司令部庁舎がソ連軍に接収され、九月六日には総司令官山田乙三大将はじめ全司令部要員がソ連軍に連行されました。関東軍が満洲から消滅したのです。
国家を貝にたとえるなら、軍隊は貝殻であり、柔らかな軟体は国民です。貝殻が失われたとき、柔らかな中身は外敵の餌食となります。それが満洲で起こったことです。
関東軍総司令官山田乙三大将は、大命を奉じ、耐え難きを耐え、血涙を呑む思いで停戦を決断したのですが、その判断の一端に共産ソビエトに対する甘い認識があったことは否めません。
「話せばわかる。ソビエト赤軍も鬼ではあるまい」
停戦交渉がはじまると関東軍総司令部の参謀たちはソ連軍に懇請しました。日本軍将兵を遇するに国際法をもってせよ、在満邦人に人道的配慮をせよと繰り返して懇願したのです。山田大将自身も頭を下げて頼み込みました。しかし、無駄でした。ソ連赤軍は冷血集団です。殺し、犯し、略奪せよと命令されている共産匪賊なのです。満洲は阿鼻叫喚の生き地獄となりました。
かつてプロシアのフレデリック大王は次のように言ったといいます。
「階級は、命令違反する時を判断できる者に与えてあるのだ。規則どおり、命令どおりするだけなら将校ではなく、兵士でよい」
独断専行すべきときにそれを為し得なかった山田乙三大将は、結果として在満邦人二百万人をソ連赤軍に奴隷として供したのです。在満邦人は味方によって耐え難い死と恐怖と苦悶と絶望に陥れられました。その被害の巨大さからして山田大将は愚将の汚名を免れることができないでしょう。
これに対して駐蒙軍は、兵力わずか二千五百名の小さな貝殻でしかありませんでしたが、それでも貝殻でありつづけました。その結果、四万人の蒙彊居留民が命をながらえることができました。このことについて駐蒙軍参謀長を務めた中川留雄少将は、その回想録に次のように書いています。
「敵を阻止し、降伏を肯ぜざりし根本信条は、根本軍司令官がソ連の不信暴虐を判断せる結果を発出点とせり」
この一点だけが関東軍と駐蒙軍の違いでした。この相違が満洲居留民を塗炭の苦しみに陥れ、蒙彊居留民の生命を救ったのです。
根本博中将が徹底して共産主義を拒絶した理由は、瀕死の重傷を負った南京事件の苦い経験に源がありました。あのときに見た暴兵たちの暴虐と無抵抗な民間人たちのあわれな姿は、忘れがたい記憶となって根本博中将の判断の基底となったのです。
蒙彊からの撤退を成功させた根本博中将は、北京に移動してからも共産勢力に対する警戒心を解かず、ソ連軍と中共軍からの接触をすべて拒絶していました。そして、蒋介石軍の要人とだけ会見し、北支那方面軍の武装解除を進め、在支邦人の早期帰国に理解を求めました。根本中将は、軍司令官であるとともに内政と外交を担当する軍政家の立場にいました。根本中将は北支在留の軍民邦人に次のように声明を発しました。
「われらは戦いに敗れ、力尽きて降伏したのではない」
実際、支那大陸の日本軍は負けていないのです。
「他方面の戦績から国家が連合国に対して降伏したために、われらは天皇陛下の命により、中華民国軍に降伏することになった」
日本人の名誉心に訴え、自暴自棄を戒めようとしたのです。次いで、武装解除はあくまでも中華民国政府に対しておこなうとし、次のように念押ししました。
「たとえ中国軍であっても国民政府の指定しない軍隊には一切の武器、軍需品を引き渡すことはしない。武装解除前に国民政府の指定しない軍隊が、わが軍占領地より六キロ以内に接近してくる場合には、断固、戦闘行動をもって撃退する。右の戦闘行動によって起こる責任は、あげて本職が引き受ける決心であり、戦闘をおこなった部隊には一切責任を負わせない」
徹底して共産軍を警戒したのです。そして、最後に「腐っても鯛という諺をかみしめよ」と諭して根本声明は終わっています。
しかしながら、軍関係者の中には中共軍に通じる者も現れました。共産党員の野坂参三が北支那方面軍司令部に連絡をとってきたこともありました。しかし、根本中将はこれを峻拒し、いっさい会おうとしませんでした。
共産党に通じた者のなかで最も根本中将を悩ませたのは酒井隆中将です。酒井隆中将は、支那通の将校として累進し、大東亜戦争開戦時には第二十三軍司令官として香港を攻略したことで知られます。昭和十八年に予備役となっていましたが、昭和二十年に再召集され、北京に酒井機関を設置していました。酒井機関は中国共産党と接触しました。酒井中将は、中国共産党の意を承け、北支那方面軍司令官根本博中将に接触してきたのです。
「二時間待ったぞ」
ある日、根本中将が官舎に帰ると、そこに酒井中将がいました。機先を制されたといえます。酒井中将は根本中将の三期先輩です。
「根本君、どうして中共軍に対して武装解除をしないのか。北支那方面軍が中共軍に対してとっている現在の態度を改めねば重大な危機に陥るぞ」
酒井中将の言い分は一種の恫喝でした。これに対して根本中将は赤誠から先輩将軍に忠告しました。
「陸軍中将たる閣下が、軽率にも中国共産党に接触するなどゆゆしき問題です。日本軍は蒋介石軍に対してのみ武装を解除します。これは支那派遣軍総司令部の命令です。連合国側の取り決めでもあるのです。にもかかわらず、閣下が中共軍と接触しているとなれば、無用の混乱を招きかねません。北支那方面軍将兵だけでなく支那居留民にも疑念を生じさせます。居留民は満洲の惨状を聞き知っています。わが軍が中共軍に武装解除するという噂が流れたら、それこそ動揺し、混乱します。閣下、この根本、伏してお願いいたします。軽率な行動はおやめください。小官は居留民と将兵の内地帰還を目標にして蒋介石軍と折衝しております。国民政府に要らざる疑心暗鬼を持たせないためにもご自重してくださいますよう」
根本中将はおだやかに、しかし毅然として先輩将軍の申し出を謝絶しました。
根本博中将は中華民国政府の要人と積極的に会談しました。王克敏、何応欽、蒋介石などです。根本博が初めて蒋介石に会ったのは大正十五年ですから、ずいぶん古い付き合いです。ふたりの交流がどのようなものだったのか、そして、日本降伏後の北京でどんな会談がなされたのか、かならずしも明らかではありません。ただ、戦後の根本博の行動から推定するに、ただならぬ堅い義の盟約があったに違いないと思われます。
蒋介石は極東軍事裁判の開廷に際し、十二名の日本軍将官を主要戦犯に指名しましたが、そのなかに根本博の名はなく、酒井隆の名がありました。
在支邦人の引き揚げと、支那派遣軍将兵の復員がはじまったのは昭和二十年十月十六日です。終戦から二ヶ月後のことです。この迅速さは根本博中将の功績といえるでしょう。邦人輸送にはアメリカ軍の輸送艦百八十隻が活用されました。この帰還復員事業は一年ほどで終わり、根本博も最後の復員船で日本に帰りました。多摩の自宅に帰り着いたのは昭和二十一年八月二十一日でした。
余談ながら、ソビエト連邦に抑留された関東軍総司令官山田乙三大将が帰国したのは昭和三十一年です。