丸一陣地の防御戦
八月十六日、ソ連・外蒙連合軍の主力は張北付近にありましたが、その先遣隊はすでに丸一陣地の前面に進出していました。しかし、攻撃はしてきません。
張家口の駐蒙軍司令部では、華北交通、蒙彊政府、張家口総領事館の関係者が集まり、居留邦人移送の実施について会議を開催していました。駐蒙軍参謀の田村清中佐が口火を切りました。
「関東軍からの情報によると、満洲の牡丹江方面では在留邦人がソ連軍の暴虐に遭い、為す術がない状況であるらしい。身につけている貴金属から衣類まですべて剥ぎ取られ、婦女は手当たり次第に犯されている。抵抗すれば射殺される。そんな惨状だ。この蒙彊の日本人は何とか無事に日本へ帰したい。まずは北京、天津に逃がさねばならない。与えられた時間は少ない。ソ連軍の戦力は、丸一陣地を守るわが独立混成第二旅団の十倍以上である。丸一陣地が三日だけ敵を足止めする。三日間で四万人の邦人を脱出させねばならん」
「何とかやりましょう」
そう交々に応じたのは蒙彊政府の企画課長と華北交通の総務部長でした。ただ、駐蒙特命全権大使の八里知道少将だけは浮かぬ顔をして難色を示しました。
「早期の在留邦人引き揚げには同意しかねる。本省の指示は、居留民はできるかぎり現地に定着せしめる方針であります」
八里大使のいう本省とは大東亜省のことです。大東亜省は昭和十七年に設置された機関であり、委任統治領および外邦領土の内政から外交までを一括管理しています。
蒙彊は、蒙古連合自治政府の統治する独立国家でしたから、蒙彊から支那へと邦人が大量に移動するとなれば大量の査証が必要となります。一時に大量の査証を発行するのは大仕事であるし、そもそも本省の許可が得られない。大東亜省はかねてより、居留民のうち現地にとどまり得る者はなるべく多く現地に残し、万やむを得ない者だけ内地に引き揚げさせる方針です。だから八里大使は、本省の訓令と駐蒙軍の要請とのあいだで板挟みになっていました。煮え切らない八里大使に対して、駐蒙軍参謀長の中川留雄少将が直言します。
「そんな悠長なことを言っている場合ではない。満洲がどうなっているか、先ほど田村中佐が述べたとおりです。四万の同胞を共産赤軍に供しようというのですか。ことは一刻を争う。ソ連赤軍が国際法を守るわけがない。早急に本省を説得して下さい」
八里大使は、一年前まで駐蒙軍高級参謀だった人物です。だから駐蒙軍の内情はよくわかっているし、その言い分も充分に理解できました。しかし、いまは駐蒙大使として大東亜省の訓令にしたがわねばならない立場です。
「駐蒙軍の意向は大東亜省に上申し、その返事を待って処置する」
八里大使の官僚的答弁に座は白けましたが、気を取り直して輸送実施の検討がおこなわれました。その結果、輸送計画が定められました。決定した輸送計画を確認するために中川少将が読み上げます。
「目標は、張家口の居留民およそ四万人を三日間で北京および天津へ脱出させることにある。第一日目は居留民への周知と車輌整備にあてる。そして、第二日目と三日目にすべての居留民を張家口から北京方面へ送り出す。貨車一両あたりおおむね八十人を乗車させる。乗客の荷物はできる限り小さくさせ、大きな荷物は別便で配送するように手配する。要らぬ混乱を避けるため列車の乗務員は基本的にすべて日本人とする。機関車の運転経験を有する日本人を総動員し、機関士と車掌は必ず経験者をあてる。機関助手その他は未経験者でもよいこととする。不慣れな者でも罐焚きくらいはできる。この輸送実施のあいだ京包鉄道は張家口から北京へ向けて一方通行とし、五分間隔で次々に列車を発車させる。各列車には二ないし三名の連絡員を乗車させ、機関車と後部車輌とを手旗信号で連絡させる。共産匪賊の襲撃が予想されるので夜間の発車はできるだけ避ける。鉄道沿線は独立混成第二旅団第一大隊と第百十八師団と華北交通警備隊が二十四時間体制で警備する。鉄道が破壊された場合には華北交通鉄路局が全力で早期復旧を行う。以上である」
この計画は、若干の変更を伴いながらも数日後に実施され、蒙彊居留民四万人の命を救います。
この日、駐蒙軍司令部に異動通報がとどきました。東京で阿南惟幾陸相が自決したために生じた人事異動です。
「北支那方面軍司令官に補す」
根本博中将は、駐蒙軍司令官と北支那方面軍司令官を兼任することになりました。あわただしいこの時期の人事異動は、わずらわしくもありましたが、根本中将にとっては幸運でした。北支那から蒙彊までを一括して統率できるし、脱出作戦のあいだ京包線を一方通行にすることも北支那方面軍司令官の権限でできるからです。
北支那方面軍司令部からは直ちに北京へ着任するよう催促の電報がとどきました。根本中将は次のように返電しました。
「しばらくは張家口方面の作戦を指揮する必要があるので、北京赴任はその後とする」
異動命令は、膳房堡の独立混成第二旅団司令部にもとどいていました。旅団長の渡辺渡少将に対するものです。渡辺少将は、北支那方面軍参謀副長として転出することになりました。独立混成第二旅団の守る丸一陣地はすでにソ蒙軍と対峙しており、いつ激戦がはじまっても不思議ではない情勢です。そんなときに旅団長の転出が決められたのです。異動命令を受けとった渡辺少将は、何も言わず、ただ苦しげな表情を浮かべました。
渡辺渡少将は主に軍政畑を歩き、開戦前には総力戦研究所において対英米戦争を研究し、戦争の見通しについて「初期は良いが、終りに近づくに従って段々悪くなる」と予言した人物です。開戦後はマレー方面の軍政を担当しましたが、昭和十九年十一月から独立混成第二旅団を率いてきました。今、この最前線をあとにして北京へ異動するのはなんとも心苦しいことでした。
深夜、根本中将のもとに支那派遣軍総司令官岡村寧次大将からの命令がとどきました。
「即時戦闘行動を停止すべし」
根本中将は緊張して、その先を読みました。
「敵の来攻にあたりてはやむを得ざる自衛のための戦闘行動はさまたげず」
とありました。根本中将は胸をなで下ろしました。この命令ならば根本戦略と矛盾するところはありません。
八月十七日、ソ連軍機が張家口上空に飛来し、爆弾を投下し、さらにアジビラを撒いて去りました。爆撃の被害は軽微でした。ビラの文面は降伏の勧告でしたが、張家口の住民に大きな動揺は生じず、治安は安定していました。
この日、膳房堡の独立混成第二旅団司令部では渡辺渡少将が離任の挨拶をしていました。
「諸子を戦場に残して私ひとりここを去ることは情において忍びないが、大命は如何ともなし難い。私の今後の任務は、諸子を祖国に帰す方策を講ずることである。諸子はかならず自重して日本に帰り、祖国再建に邁進されたい」
去る方も見送る方も断腸の思いでした。渡辺少将は北支那方面軍に異動すると、その言葉どおり、支那派遣軍および支那居留邦人の帰国事業に献身しました。
後任の独立混成第二旅団長は永松実一大佐でした。永松大佐は二年前までこの旅団で大隊長を務めていましたが、予備役に編入され、民間人として張家口で過ごしていました。それがいきなり旅団長に任命されたのです。途方に暮れる思いでした。幸い、旅団司令部にも各大隊にも旧知の顔が多く、しかも旅団参謀の辻田新太郎少佐とも機微に触れる話ができる間柄でした。新旅団長の永松大佐は辻田少佐に秘かに内心を打ち明けました。
「困ったことになった。この際、万事、君に任せるから思いどおりにやってくれ。ただし、責任は俺がとる」
こうして丸一陣地の命運は辻田新太郎少佐の双肩にかかることになりました。
その日の午後、いきなり永松大佐と辻田少佐に難問がふりかかってきました。丸一陣地の正面にソ連軍の軍使がやってきたのです。旅団司令部から辻田少佐が丸一陣地に向かい、戦車壕上の木橋で軍使に会いました。ソ連軍軍使の口上は、要するに降伏の勧告でした。ソ連軍軍使は「返事をもらうまで帰らない」と言いました。辻田少佐は有線電話で事情を駐蒙軍司令部に通報し、指示を仰ぎました。すでに日本は降伏したのであり、降伏勧告を受け容れるべきか否か。駐蒙軍司令部では意見が分かれ、議論が生じました。
「ソ連軍に対して武装解除してはいけない。武装解除は蒋介石の国民政府軍に対して実施すべきである」
これが一方の意見でした。これに対して即座に武装解除すべきだとする意見もありました。
「京包線の張家口~大同間が遮断された以上、傅作義軍が張家口に来着するのはずっと先になる。また、日本がすでに降伏している以上、無益な戦いで犠牲者をだすのは忍びない。ここはソ連軍による武装解除を受けるべきである」
参謀同士の議論は尽きませんでした。そのため軍司令官の判断を仰ぐことになりました。呼び出された根本博中将は、驚くべきことにステテコ姿のまま軍議の席にやってきました。根本中将は、北支那方面軍司令官に任命されたため徹夜で引っ越しの準備をし、この日は仮眠していたのです。そこをたたき起こされ、急いで軍服も着ずに司令部に駆けつけたのでした。丸首シャツにステテコ姿の軍司令官は謹厳な面持ちで参謀たちに言いました。
「ソ連軍には、中国軍戦区に進入して武装解除を実施する権利も義務もない。ソ連軍のねらいは日本軍の武装である。これを中共軍に渡し、支那の赤化を計ろうというのだ。日本が降伏した今、支那の赤化を防ぎ得るものは蒋介石の国民政府軍以外にない。われわれは国民政府軍によって武装解除をうける。この方針に変化はない。東京が何と言おうと四万の居留民が引き揚げるまで戦う。その責任は私一身にある」
下着姿のオヤジの発言とは思えぬ威厳がありました。が、次の瞬間、根本中将は急に表情を和らげて冗談を言いました。
「もし責任を問われ、戦犯となったら、魚釣りの出来る所へ収容してほしいものだ」
釣りは根本中将の趣味でした。このユーモアを解した参謀は笑いをこらえました。しかし、駐蒙軍司令部に着任したばかりの泉祐順少佐には意味がわからず、ただ不思議そうな顔をしました。それでも、ともかく軍司令官の断は下りました。泉少佐が伝令となって丸一陣地に向かうことになりました。
「ここは中国軍戦区である。ソ連軍には進入する権利もなく、武装解除する権利もない」
泉少佐の返答を聞いたソ連軍軍使は黙って帰って行きました。傲岸で不遜なその態度を見て、泉少佐は根本中将の判断の正しさを感得しました。
軍服を着て再出勤した根本中将は、北支那方面軍司令官としてひとつの命令を出しました。独立混成第八旅団を軍直轄部隊とし、古北口の守備を命じたのです。古北口は長城線上の城市であり、熱河省から北支那へ進入する関門です。根本中将は熱河省方面が気になってしかたがなかったのです。
八月十八日朝、ついにソ連・外蒙軍は丸一陣地に対する攻撃を開始しました。百両もの戦車および装甲車が戦車壕に突進し、これを越えようとしました。しかし、日本軍の設置した障害物と地雷と砲火網が威力を発揮し、ソ連軍は戦車壕を越えられませんでした。戦車壕をめぐる激しい戦闘は日没までつづきました。
一方、張家口の駐蒙軍司令部では会議が開かれていました。駐蒙軍の中川留雄参謀長と八里知道駐蒙大使の意見がどうしても一致しません。中川留雄少将は即時の居留民引き揚げ開始を主張しました。
「今朝から丸一陣地に対するソ連軍の攻撃が始まっておるのだ。いますぐにでも居留民の輸送をはじめたい。手遅れになったら元も子もない。八里大使、本省からの訓令はとどきましたか。とどいていないのなら全権大使としてご決断願いたい」
大東亜省と駐蒙軍とのあいだで板挟みになった八里大使は困り顔で応じます。
「本省からの再訓電がとどいていないのです。そうである以上、私の立場としては居留民を現地にとどめるほかありません」
「何を言うのです。あなたは全権大使ではありませんか。ご決断ください」
しかし、八里大使は曖昧な返答で言葉を濁すだけでした。中川参謀長の報告を聞いた根本博中将は苦い顔をしました。
「東京はわかっておらんようだな」
ソ連赤軍の恐ろしさ、共産主義の非道さを、です。日本が降伏したいまこそ、火事場泥棒の好機なのです。ソ連軍は国際法も条約も踏みにじり、日本軍から武器を奪い、将兵と居留民を拉致し、強制労働に使役するでしょう。そのことはドイツに侵攻したソ連軍の行状をみれば明らかでしたし、現に満洲では在満邦人が悲惨な境遇にあえいでいます。外務省にせよ大東亜省にせよ、目の前の現実を見ていないようでした。在留邦人を現地にとどめるなど自国民に死を強要するようなものである、と根本中将は思い、満腔の憤懣を感じました。
すでに丸一陣地では日ソ両軍が熾烈な戦闘状態にあります。急いで手を打たねばなりません。根本中将は中川参謀長に秘策を授け、これを直ちに実行させました。中川参謀長は日本総領事館に出向き、八里大使に対して次のように宣言したのです。
「駐蒙軍は、戦況によってはソ蒙軍による武装解除を拒否するため、張家口を放棄して退却する場合のあることを承知されたい。その場合、居留民の生命と財産の保護は外務省、大東亜省および八里大使に一任する。駐蒙軍は居留民にこだわることなく作戦的見地のみにもとづいて進退する」
これを聞いた八里大使は驚愕しました。任されても領事館には何もできないのです。八里大使はしぶしぶ居留民の即時引き揚げに同意し、四万の居留民を査証なしで移動させることを大東亜省に電報しました。
中川参謀長の恫喝的な強硬意見は、要するに八里大使にとって格好の言い訳になりました。根本中将は自分を悪人にして八里大使を救ってやったと言えるのです。
「うまくいきました」
中川参謀長の報告を聞き、根本中将は「ご苦労」とねぎらいます。こうして蒙彊居留民の大輸送が翌十九日から開始されることとなりました。
「ところで汽車の準備はどうか」
根本中将の問いに中川参謀長は答えます。
「なんとかなると思います。しかし、快適な旅ではありません。客車や貨車はすし詰めの満員、無蓋貨車に乗ったら雨に濡れ、夜の寒さにふるえるでしょう。しかし、贅沢は言っていられません」
「列車での移動中、居留民たちの食事は確保できるのか。排便はどうする」
「はい、各駅に食糧を備蓄し、炊き出しをします。それから貨物自動車で大量の乾パンを輸送し、橋の上などから無蓋貨車に投げてやります。排便には駅の便所を使うほか、停車中に線路脇でやってもらうほかありません。そのほかできることがあれば何でもやる考えであります」
この日、東京の参謀本部は、参謀総長の名を以て全軍に対する大陸命第千三百八十五号を発信しました。この命令は各軍司令官に「作戦任務を解く」と伝え、「一切の武力行使を停止すべし」と命じています。むろん、駐蒙軍にもこの命令がとどきました。
(これはまずいな)
根本博中将は覚悟を決めました。覚悟とは、命令に違反する覚悟です。現に丸一陣地では戦闘が起こっています。いま戦闘を停止すれば蒙彊の居留邦人四万はソビエト赤軍の奴隷にされてしまいます。十八年前の南京事件の悪夢が根本中将の脳裏によみがえりました。
(蒙彊をあのような惨状にするわけにはいかぬ。いま、戦いをやめるわけにはいかぬ)
丸一陣地の戦車壕をめぐる戦闘は夜に入ってようやく終わりました。激しい攻防の末、ソ連軍は突破口を切り拓き、三十両ほどの戦車を丸一陣地内に突入させることに成功しました。これに対して独立混成第二旅団は肉弾で接近し、敵戦車のエンジンを発火させて炎上させたり、対戦車地雷で擱座させたりしました。速射砲による砲撃も効を奏し、丸一陣地内に侵入した敵戦車をすべて破壊することができました。
翌八月十九日の早朝、丸一陣地は細雨にけむっていました。その雨の中、ソ連・外蒙連合軍は戦車・装甲車数十両からなる縦列隊を連ねて張家口街道を進撃してきました。戦車群の後方には歩兵部隊がつづいています。さらにその後方にはソ連軍の重砲隊がひかえていました。ソ連軍重砲隊は丸一陣地に砲弾の雨を降らせました。その援護の下、ソ連軍の戦車隊と歩兵部隊が突進を開始します。陣地内の日本軍は激しい砲撃にさらされて、反撃する暇がありません。苦戦です。
「陣地内に侵入する敵を撃退せよ」
そう命じられている独立混成第二旅団は、陣地外にあるソ連軍の重砲陣地には律儀にも攻撃を加えませんでした。涙が出るほど命令に忠実な将兵たちです。
外長城上の戦闘司令所から戦況をながめていた旅団参謀の辻田新太郎少佐は「木橋を爆破せよ」と命じました。戦車壕の中央に仮設されている木橋は、昨日、敵の戦車縦隊に突破されています。敵戦車の侵入を防ぐためにはもはや爆破するしかありません。工兵隊によって木橋に爆薬が仕掛けられ、轟音とともに木橋は吹き飛ばされました。木橋を爆破した工兵隊は後方の交通壕へ後退しようとしましたが、それをソ連軍の銃砲弾が襲います。その様子を見た丸一陣地左翼の第二中隊が掩護射撃を開始します。トーチカ陣地の軽機関銃が火を噴き、さらに擲弾筒の一斉射撃でソ連軍の目を眩ませました。戦車壕をめぐる攻防は数時間も休みなくつづきました。するとソ蒙軍は突撃をやめ、遠距離砲撃に戦術を切り替えました。防戦に徹せよと命じられている丸一陣地の日本軍はひたすら壕内に身を潜めて耐えるしかありません。ソ蒙軍の砲撃力は圧倒的で、その砲弾は外長城の内側にまで飛んできました。
ソ蒙軍は丸一陣地への砲撃をつづけながら、装甲車三両からなる別働隊を春墾にある日本軍陣地に差し向けました。春墾陣地には左地区隊(第五大隊)が布陣しています。その砲兵隊が射撃するとソ蒙軍の装甲車一両に砲弾が命中し、炎上しました。すると、のこる二両はすぐさま退散していきました。
絶え間ない敵砲弾の爆煙につつまれる丸一陣地を長城から見おろしていた辻田新太郎少佐は、防戦一方の戦況に我慢がならなくなりました。なによりも部下が心配でした。すでに終戦が決まっているのですから、一人も死なせたくありません。辻田少佐は旅団司令部の受話器をとり、張家口の駐蒙軍司令部に懇請します。
「反撃の許可をください。敵の後方陣地を攻撃させて下さい」
駐蒙軍高級参謀の田村清少佐は心を鬼にして自重を訴えます。
「気持ちはよくわかる。しかし、できるかぎり交戦を避け、持久せよ」
「このまま撃たれつづけたら損害が増えるばかりです。持久できません。敵の重砲隊を沈黙させるために攻撃許可をください」
「まて。それはできない。ならば停戦交渉せよ。軍使を出して交渉するのだ。そうすれば時間を稼げる」
「しかし、こちらには通訳がおりません」
「わかった。通訳を派遣する」
駐蒙軍司令部から泉祐順少佐、ロシア語通訳官、モンゴル語通訳官の三名が膳房堡に急行しました。彼らを迎えた辻田少佐は、さっそく和田義正中尉を正使とする四名の軍使団を編成し、最前線へ向かわせました。
午前十一時、和田中尉を含む四名の軍使団は白旗を掲げながら張家口街道を北に向かいました。また、丸一陣地の各所に白旗を揚げ、停戦の意志を敵側に示しました。しかし、ソ蒙軍はまったく攻撃をゆるめません。軍使団の頭上に敵の銃弾が飛び交います。あまりに危険なため軍使団の四名は道路脇に身を隠し、白旗だけを高く掲げ、それが敵軍に見えるようにして歩きました。しかし、ついに正使の和田中尉が銃弾に倒れました。幸い軽傷でしたが、耳朶を撃ち抜かれていました。このため軍使団は引き返します。
「ソ連軍はバカなのか。白旗の意味も知らんのか」
辻田少佐は憤慨し、状況を駐蒙軍司令部に報告しました。これを聞いた高級参謀の田村清中佐は大いに驚き、軍司令官に状況を伝えました。根本中将は驚きませんでした。
「それが共産赤軍だよ。ルール無用だ」
「しかし、どうしましょう。停戦交渉ができないとなると、丸一陣地は撃たれるばかりです。時間稼ぎができません」
「やむをえん。そのための丸一陣地だよ」
玉砕もやむなしという意味でした。戦術とは残酷なものです。しかし、丸一陣地が玉砕するあいだに四万の居留民を救うことができます。そのとき、ひとりの参謀が意外な提案をしました。
「閣下、司令部には拡声器があります。あれで敵に停戦を呼びかけてみたらどうでしょう。白旗の意味がわからない大バカ野郎でもロシア語とモンゴル語で停戦を呼びかければ、わかるのではないでしょうか」
「なるほど。やってみよ」
拡声機が駐蒙軍司令部から持ち出され、貨物自動車によって運ばれていきました。その直後、支那派遣軍総司令官岡村寧次大将から根本博中将に命令電がとどきました。
「ソ連が蒙彊方面に突進するにあたりては、戦闘行動を停止し、適宜、局地停戦交渉および武器引き渡し等を実施すべし」
(ついにきた)
根本中将がおそれていた命令です。停戦交渉はよいとしても、武器の引き渡しは絶対にできない、と根本中将はかねてより考えていました。
(ソ連赤軍などに武器引き渡しなどできるものか)
やむなく根本中将は命令を黙殺する腹を固めました。抗命です。丸一陣地の現状は、こちらが停戦の軍使を派遣しているのに、ソ連軍が応じてこないのです。ですから多少の言い訳は可能でした。しかし、そんな言い訳をするつもりはありません。たとえソ蒙軍が交渉に応じたとしても根本中将は武装を解除するつもりはありません。武装解除はあくまでも蒋介石の国民政府軍に対して行うというのが根本中将の揺るがぬ方針であり、共産主義に対する徹底した態度でした。
駐蒙軍司令部から持ち出された拡声器は独立混成第二旅団司令部に持ち込まれ、その後、外長城上に設置されました。司令部では辻田参謀が敵軍に対する停戦提案の文案を作成し、これを通訳官がロシア語とモンゴル語に翻訳しました。そして、ソ蒙軍に対してロシア語とモンゴル語で交互に停戦を呼びかけました。拡声機は大音量でうなりを上げましたが、その効果はありませんでした。ソ連軍はまったく砲撃をやめません。
午後に入るとソ連軍の攻勢は激しさを増しました。数十台からなる装甲車の一群が波状的に猛進し、戦車壕の中央部分を突破する形勢を示しました。戦車壕の日本兵は必死に応戦し、これを撃退しました。
その苦闘の様子は、丸一陣地後方の速射砲小隊の位置から丸見えでした。速射砲小隊は張家口街道の東側にある高台に布陣していたので、味方の苦戦が手によるようにわかります。
「撃たせて下さい」
速射砲小隊からの懇請が旅団司令部にとどきました。しかし、辻田参謀はこれを抑制しました。
「気持ちはわかるが我慢せよ。撃てば射点を特定され、反撃を喰うぞ」
それでも速射砲小隊は我慢できませんでした。敵の装甲車群は目と鼻の先にあります。百発百中の距離でした。速射砲小隊の小隊長はついに射撃を命じました。するどい金属音がして敵の装甲車が次々と火を噴いていきます。速射砲弾は敵の装甲車にどんどん命中しました。しかし、しばらくすると速射砲小隊の陣地に敵砲弾が集中してきました。射点が特定されたのです。速射砲小隊は急ぎ後退しましたが、速射砲一門を失い、戦死者一名を出しました。
ソ蒙軍はさまざまな戦法を試しているようでした。正面攻撃を一旦やめると、丸一陣地の左翼に攻撃を集中してきました。激しい砲撃を左翼に集中させたのち、装甲車と歩兵部隊を推し進め、丸一陣地の左翼を包囲するように運動したのです。
丸一陣地の前面左端には日の丸山という小高い丘がありました。この丘の外側からソ蒙軍は迂回包囲して丸一陣地に侵入しようとします。 丸一陣地左翼を守っていたのは第二大隊です。激しい戦闘になりました。ソ蒙軍は火力で日本軍を圧倒しました。ソ蒙軍の迂回作戦は成功するかに見えました。戦車壕の後背にまで侵入したのです。これに対して第二大隊は、ありったけの火砲を集中して反撃しました。ですが、これを上回るソ連軍の砲撃で沈黙させられてしまいます。やむなく第二大隊は歩兵突撃をくりかえしました。夜になると敵の砲撃はやみましたが、丸一陣地左翼では射撃戦と白兵戦が続きました。この激闘は朝まで続きます。
張家口では、根本博中将が最重要視している居留民の避難が、出足からつまずいていました。張家口駅ではこの日の早朝から居留民の脱出が始まるはずでした。ところが周知徹底を欠いていたのです。
十九日早朝、駐蒙軍司令部勤務の森昌男大尉が張家口駅に行ってみると、そこにはだれも集まっていませんでした。居留邦人を張家口駅に誘導するのは領事館警察の役割になっているはずでした。
(どうなっとるんだ)
森大尉は領事館に電話しましたが不通です。このため一番列車はカラのまま駅構内に停車し、罐を焚いて待機しています。
「しかたがない。食糧を載せて発車させよ」
森大尉はやむなく指示しました。期せずして第一列車は食糧輸送列車になってしまいました。居留民に対する周知は完全に失敗したのです。
(どういうことだ)
怒気を含みながら森大尉はオートバイを飛ばして心当たりを駆け回りました。そして、ようやく国民学校に集合している居留民を発見しました。
「ただちに張家口駅に向かえ」
森大尉が号令をかけて居留民を駅へ誘導しました。この日、張家口駅を脱出したのは連絡のとどきやすかった軍人軍属官吏の家族、華北交通職員の家族、あらかじめ僻地から張家口に避難していた居留民、芸者の一団などでした。そのほとんどは女性と子供と老人でした。